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カテゴリ:学術( 92 )


虐め(集団犯罪)対策論

 虐めは校内・社内犯罪、或いは総称して集団犯罪といいかえるべきであり、その原因は、
1.犯罪者側の脳の特性(低IQに相関する非寛容性その他)から来た攻撃性
2.固定した成員間での役割付けによる階級化と異物排除性
この2つが主に考えられる。集団犯罪は冤罪でないかぎり、容疑者・犯罪者側が100%悪いのであり、被害者側は100%正しい。被害者側が少数派である事を理由に、集団犯罪を正当化しようとする論理は100%間違っている。集団で犯罪を行えば犯罪の悪質さが消える等という事はないし、ここでいう集団性が例え日本国民の全数であれ全地球の人類の多数派意味しているのであれ、犯罪構成要因の内容物が消える事も、被害者側の被害が消える事もないのだから。
 集団犯罪禁止条例を茨城県議は制定し、学校や会社、役所等あらゆる県内組織で嫌がらせ、無視等の幼稚なものから、不公平な対応や集団での固定的な偏見付けによる差別の一切を、被害者に容易に訴えられる状態にした上で、集団犯罪をした側がどれほど多数であれ確実に厳罰を与えて裁く法制を確立するべきである。たとえ加害者が県知事含む県職員や公務員、教育委員会の上位成員、教員、会社役員などの誰であれだ。
 また集団犯罪を未然防止するには、
1.低IQ集団を県内から減らし、寛容性と相関のある高IQ集団を増やす事(高IQ化)
2.成員間の人口流動化を促進し、組織間流動性を高めるべく転校や転職、転地を容易にする(組織流動性)
また、
3.そもそも県内特定集団への献身を県全体の風紀として要求せず、引きこもりや自閉の自由と内向的性格の成功の筋を複数実証していく(内向性の肯定)
これらの対策が考えられる。このうち1.高IQ化については、県内の高学歴化を奨励する事、つまり安価な県内通信大学の整備(IT授業による安価な通信制コースを県内大学の学部と院に設置を義務付け、かつ、県奨学金で実質無償化する)と、県内公立高校あるいは社会人入学での進学常識化を通して大卒率を9割に近づけ、院卒率を5割に近づける事、が有効である。2.組織流動性については、新卒一括採用禁止と中途採用を義務づける条例を県議が通し、県内公立・私立学校については単位互換性を条例と県教育委員会の命で設ける事でどの学区のどの授業にも出入り自由にする事。3.内向性の肯定については、引きこもりやNEETに対する差別的言動や家庭内での取り扱いを厳に罰則と共に禁じる条例をつくり、自閉的気質や、内向的性格の個性、或いは怠惰や発達障害を含めた非社交性に対して、プログラム開発や何らかの開発・研究者、芸術家としての成功、或いはインターネットにおけるオンライン授業やオンラインでの職業訓練、或いはオンライン職種の提供、オンライン起業やネット株式投資等の筋書きを無数に提案するなど、多様な選択肢を県全体で奨励も推奨する中で、社交的性質の個性以上に自己実現や公益を実現させていく引きこもり承認の文化が最も望ましい。そもそも2:8の法則(パレート法則)で知れているよう、外交的生活をしている人間も8割が無能なのであり、それは内向的な生活者についてもあてはまる可能性がある。現時点で世界一の富豪になった引きこもりの暗い道具と差別されてきたPCソフト開発で財を成したビルゲイツや、人類史を進展させてきた偉大な学者や芸術家らの実例をあげるまでもなく、内省的な室内作業の方が成果的に比較優位になる分野は無数にあるのであって、9割が商人でサービス業者が過半となった平成時点の社会で、青い海であるのはニートが思い切り才能を発揮できる引きこもりの仕事だというのは近い将来完全に証明されるであろう。

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by smartestone | 2017-09-11 21:03 | 学術 | Trackback | Comments(0)

水戸ホーリーホックの好戦的応援理論

 脳科学的に、失敗を避けたがるセロトニン不足の不安遺伝子をもつ日本人が選手に多い限り、水戸ホーリーホックのサポーターは選手がシュートを外したり、ミスをしたときに、サポーター席からがっかりした声を出すのは厳禁し、かえって挑戦を褒めて士気を高め、失敗を失敗と選手に受け取らせずプラス意識や闘志に変える、一層激しい励まし声(いいぞ、もっとやれ、といった形)を出すよう、応援の仕方を工夫するべきである。
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by smartestone | 2017-09-11 03:30 | 学術 | Trackback | Comments(0)

最善の世間について

 労働原理主義、労働者中心主義、普通原理主義、多数決主義、これらは社会主義の一種である。自分の属する社会が共同体として相互扶助するべく、政府という全体的体制によって市場や個人の自由に対して一定の制限を図るべき、という意味で、この考え方は世間や、多数派からの同調圧力を強化し易い。
 ある集団で虐めが生じる原因は、固定メンバー内でこの種の収束進化への圧力が生じる事にある。固定成員は何らかの価値づけの変動幅を中央値に近づけやすい条件づけであり、この固定性が極端になると、不合理な場合にすら固定した役割を維持しようという組織的な癒着関係としての階級制度が作られる。封建制やその名残としての天皇制は、関西圏における被差別者・被差別地帯としての「洛外」の存在と表裏一体であり、『枕草子』には御所から出た火で被災した周辺国民が御所に救援を求めに来たのを、清少納言ら宮内の皇族閥側の人間が嘲笑し合い、そのまま差別的に捨て置く描写が出てくる。現在、東京都民が再現しようとしている23区外、都外、或いは23区内においても江戸城・皇居のある千代田区を中心とした区外差別の構図は、拡大されれば田舎蔑視と地方差別という小中華思想に繋がるわけだが、いわば原理的な虐めと崇めの両極を捏造する事、そして固定化する事による同調圧力に他ならない。
 選挙権を与えられた平成の国民一般は、多数派と目される世間が、この同調圧力を加える主権者だという妄信をもつようになった。西村博之が運営していた2ちゃんねるは、自己を匿名化した衆愚が牛耳る様になり、ますます村社会的・島国根性的に、この圧力を強化していった。川上量生の運営するニコニコ動画も、コメントを匿名で書きつけられるという匿名掲示板的な群衆化の条件を与えるネットメディアとして、この同調を煽りなしてきた。日本版ウィキペディアの内部で排除的世間を作っている日本語メンバーも同様の衆愚である。これら、半匿名を可能にするメディアを根城にしだしたネット衆愚は、ひたすら多数派の振りを相互の空気読み連鎖で偽装する事によって、ウェブ進出が遅れたテレビをはじめとした都内マスメディアに情報源として利用される様になった。藤田晋の運営するアメーバブログは広告収入を得る為に、閲覧数を容易に稼げる芸能人達を集客しだした事をテレビ側の態度変更の背景としていた。ツイッターがブログを書くほど文章力や思想のない一般大衆以下の知性の人々に、発信源としての地位を獲得させていくにしたがって、ウェブブラウザへの常時接続を可能にしたスマートフォン(スマホ)普及とともに、インターネットの方が現場の第一次情報を先に載せるという現実にマスコミ業界が直面したことが、これらの変化と関係しているのだろう。こうして衆愚はネットの匿名性を悪用しながら、現実社会では差別乃至排除されてきた暗いパソコンオタク達の道具を飽くまで応用しだし、シリコンバレーのITバブルの流れに自己を埋没させつつ、暴徒としての陰鬱な日本語圏世間に自己を同化させてきた。平成時代における同調圧力を主義する衆愚層は、親が首輪をかけるつもりで渡しているスマホの若年層への普及とともに、ネット虐め空間を学校裏サイト等あらゆる陰湿な目的で悪用できる地場を確保していったのだ。衆愚はちばけんま事件やaiueo700への攻撃で有名な電凸文化、つまり匿名の不良らが突然、インターネット上で標的にした個人を集団犯罪の対象にするという凄まじい悪行、或いは2ちゃんねる上で初期から見られる名誉棄損から冤罪による集団圧殺まで無数の違法乃至無法な犯罪の数々、勿論、麻薬取引や性犯罪など現実における実刑に至るあまたのインターネットの負の面を日本に定着させていった。このとき日本人衆愚は、社会正義を気取る大義名分として、匿名にして自己埋没させた群衆状態によって、ひたすら無目的の同調圧力を加え続けるだけなのであり、その論拠は多数決原理主義としての世間の目なのである。
 虐めの裏側に同時にあるのは差別意識・逆差別(贔屓)意識からくる崇めであって、この自己責任を徹底して回避している卑怯なる衆愚は、天皇という絶対者を仮想した。つまり、ネット衆愚は、日本人一般の潜在意識同様に、天皇を崇めるという神道狂信的態度を維持してさえいれば、いかなる集団犯罪もなしうると固く信じているのである。この盲従的奴隷根性の原因は、まず平成時点の日本人一般の脳がもっている遺伝的欠陥として、セロトニン・トランスポーター不足の為、常に不安感に駆られて群衆に紛れたがるという無条件な共感を求める本能(「甘え」と呼ばれてきたものと同一だろう)がある。また、日本列島の風習が長い孤立によって余りに他国から比べて特殊であるという言語を主とした文化障壁のため、遺伝的に近縁でよく似た同質な個体が多いという、遺伝的偏差のばらつきの少ない分布が、もう一つの原因としてあるだろう。明治時代以後、ナショナリズムの強化は更にこの種の同調圧力を日本人の属した各種国内社会に正当化させてきたのであり、戦後に起きた対中貿易の発展による工場の移転が契機となって日本も巻き込まれたグローバル経済のみが、この種の世間を不合理だと見なす思想的急先鋒となっているのが現状である。冒頭にあげた幾つかの傾向のうち、労働者中心主義は、同質性の高い個体集団のうち最も多数派となる個体の特徴を制度設計の標準とし、そこから逸脱している全ての個体を不良とか失敗とか負け組とみなすという、悪い意味で国家社会主義的な自民党政治と歩調を一にしてきたのであった。国民を奴隷としてできるだけ楽に、機械的に管理すること、まるで機械部品を製造する様に型にはめ、個性を殺し、はみだした存在を排除ないし世間からの差別で虐殺し、天皇崇拝を教え込んで同一のマスゲームをさせ続ける事。そして給料天引きとか国税という名の搾取によって、支配層に都合のいい、世間に逆らわない、下層民同士で足の引っ張り合いのみをする労働者を量産する事。これが「空気を読め」という労働階級のせりふに、天皇制を中心とした東京発のマスメディアや文科省からの画一教育、自民党政治の固定化によってくりかえし刷り込まれ、仕込まれている悪意なのであって、その同調圧力による自己奴隷化の悪意が、日本国内では虐めとして個性への迫害としてあらわれてくる社会病理なのである。或いはこの悪意は、天皇を中心とした支配層発の悪意なのであって、洗脳された愚民側にとってはただの無知なのかもしれないが、反省力なく虐めという社会犯罪をくりかえす当の愚民側にも、同罪があるというほかない。
 多様性を重視する。個性を尊重する。生き方の多様性を認める。遺伝的多様性や性の多様性を寛容に肯定する。これらのどれも、日本人一般や、ネット衆愚の仕込まれている排外的本性と正反対の、教養高い態度である。だからこそ、公益的な政策を行う時、民に理解させるべきではなく、実行後にそれに従わせる方が楽だ、という孔子の見解が出てくる。現実的にいえるのは、一般教養の集団における高下は程度であって、ある集団に特定の公益に繋がる政策意義を十分にわからせてから実行する、つまり住民合意をとるというのは、その集団における世間が理解できる質でのみ有効だという事だ。そしてその住民の或る知性の中央値に理解不能である様な公益政策である場合、行政の長が世間の理解を待たず強制実行してしまうべきなのだ。茨城BIとか、人口流動化とか、ニッチを探る非典型個性への尊重とか、これらの思想的根拠を衆愚に理解させることは現時点では無理だ。もし大衆一般向けサブカルチャーが感情をあおる低俗な表現形態によって、世間に何らかの公徳概念を伝達しようとしたとして、この種の行政的態度が住民への同調圧力を扇動する装置にすぎない事は明らかだから、寧ろ思想面での単一化につながってしまうだろう。虐めをなくすという事は、反対の極にある崇めの対象として、差別や贔屓の原因となる偶像を破壊する事をも意味するのであって、天皇制や世間、或いは日本国とか茨城県といった何らかの帰属集団、多数決の原理、民主的選挙制、資本主義といった互恵的甘えが期待できる存在を否定する事になる。同調圧力の起源が依存できる準拠集団、或いは思想形態という背景にあるという事がこの文章内で述べた分析であり、そこから結論して、平成日本、或いは茨城県内の社会にも現れている虐め(差別)とか崇め(狂信)といった衆愚的な社会病理を治癒するには、ひたすら非典型的な自由学芸、即ち一般教養を域内住民に推奨するしかないのだ。
 役に立つものであれそうでないものであれ、経済合理性を含む合目的性から離れた行動系列を常に尊重する事。たとえ多数派が有罪判決を下す様な新奇な行動でさえ、非典型的というだけで面白がり、喜ぶ精神的態度を県内住民に植え付ける世間こそ、常に最適性が変動し続けている現代社会下でも、偶有的に最適の事象を見いだす最善の世間なのだ。

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by smartestone | 2017-09-10 20:37 | 学術 | Trackback | Comments(0)

東京都民の地位財志向について

 東京都民の中枢にいる皇族は、「他人を不幸にする事」で自分達の維持した最高の地位が幸福なのだ、と合理化する遺伝的習癖を持った種族なのであって、その模倣を最高の誉れと考えている都民達は、都外の住民を不幸にする事が人生の最大の関心ごとなのだというわけだ。
 地位財、他人と比較してのみ自慢できる様な物質的或いは浪費的なステータスシンボル。これが東京都民のほとんど全員が求めている人生の獲得目的物である。だから都外の全ての自治体に対して、「田舎」という差別的偏見をひたすら押し付けたがる。その田舎という概念が下級性を持つと妄信する事のみが、東京都民自身の虚栄心を無条件に満足させてくれるからだ。
 ありとあらゆる偏見報道による炎上商法、そして原発公害や放射性廃棄物の押し付け等の不幸の押し売りは、この他人を何が何でも不幸にしたい、その結果自分達が上位者だと妄信したいという卑しい都会人根性に基づいている。結局、東京都民という下賎な集団がもつ悪癖への最善の対処は、犯罪的存在である都民に対し少しも善意で接さない事、都民が持ちかけるあらゆる話を頭から疑ってかかる習性を前提として、都民とその洗脳を受けた太鼓持ちが日々イデオロギー的に行ってくるあらゆる角度からの嫌がらせに対する完全な無視なのである。因みに、地位財志向者である皇族の模倣としてこの不幸の押し付けがはやる事からも、京都市を中枢とした関西圏も同質の面があることを付記しておく。
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by smartestone | 2017-09-09 01:50 | 学術 | Trackback | Comments(0)

現代思想と大井川県政における茨城県民の立ち位置

 資本主義による支配が余りに金持ち側に都合よく粛々と進められた為、営利性を抜きに利他的に振る舞う条件づけが不能になった事が、共同体の希求としてイスラム国の出現やneo nationalismにつながっている。ネオナショナリズムを新愛国主義、新民族主義など幾つかの日本語にできるが、ここでいうそれは、共同体の単位を細分化して便宜的に想像の仲間意識を復活させようとする考え方だ。利益社会の圧倒的な冷酷さに対して、家族社会の無償の善意を規模こそあれ再起させようとする。この意図は、資本主義の原理を突き詰めると家族の最小単位ですら営利目的でしか接する事ができなくなり、血縁者同士ですら無条件に助けあえなくなる、もしくは搾取対象としての価値しかみいだそうとしなくなる為に、保守的な人はこの非人間的な冷たい利己的な世間から程こそあれ離脱せざるをえず、本来の血縁共同体に見られた温かい間柄を懐古しようとするからだ。
 想像の共同体を国より大きな単位にすることでこの仲間意識らしさを補完しようとする場合もあり、それが地域連合やglobalism、国際連合だった。こちらの場合はむしろ、利益社会の規模を拡大しようというのだ。
 それぞれ、利益社会は搾取、家族社会は寄付が原理づけられており、国の単位では調整や再分配などと呼ばれる寄付の仕組みが徴税と福祉によって補われる。この国家福祉に依存している個人は、ナショナリズムを単に利己心に基づき吹聴し、また信奉もする。公務員の大部分も税を生活費の依存対象にしているから、博愛より単位の小さな共同体志向としてナショナリズムに傾き易い。これらが右翼の温床である。要するに利益社会で優位者になる為には営利能力が低すぎるか、または利他的な性質を持つ善良な個人が、想像の共同体を回復するべく、細分化した集団に福祉による救済を求める傾向にあり、ここで実際には市場競争で不利化自己負担的なな個人が妄想によって捏造している偏向性、或いはそれと同質ではないにせよ調整的正義感がナショナリズムの正体である。内集団びいきの期待は、友達や恋人や家族単位であれ、学校や部活や地域共同体や会社単位であれ、みなナショナリズムの一種である。
 イスラム国は資本主義による利益社会の侵食に抵抗したがる人々を糾合している。実際はスノーデンがいうよう、米英政府が蜂の巣作戦で中東を火の海にし、イスラエルの専制から全地球の目を背けさせるべく、洗脳した米英人の一部につくらせた印象操作の組織が発祥かもしれない。だが米国政府のトランプも、自民党の安倍も、新愛国主義によって想像の共同体を回復しようとしているという意味では、彼らと本質に変わりはない。北朝鮮のキム総書記も同様の意味で、国際社会におけるかなり極端なナショナリストに他ならない。
 問題は資本主義経済、つまり株式会社や金銭取引に基づいた交換市場が、自由化や民主化という正義面の建前で地球規模の広がりをみせればみせるほど、必然に競争劣位をこうむる人々の数がふえていくことにある。簡単にいえば2:8の法則(パレート法則)にあるよう、8割の人が相対的な不利をこうむる。自由主義者の一論旨である比較優位説(すなわち生産物に関する交換便利性)とは別に、所得格差が広がるだけ8割の負け組が生じていく。ところが利益社会というものは自分以外の他人より自己利益を優先することが合目的なため、利他性をもつはず共同体を必然に壊していくので、背後にある8割の負け組にとって潜在意識にナショナリズムの復権をも準備しているのである。
 日本単位で2chやニコニコ動画は(設立者でいえば西村博之や川上量生は)ネットメディアを使って恥の文化における匿名による本音の吐露を煽り、日本語圏単位での共同体意識を触媒に、広告収入か有料会員登録を用いて金儲けした。この2か所のうち特に2chが悪質な犯罪の温床となった事は周知の通りで、少なくともどちらのサイトも、ネット右翼(ネトウヨ、ネウヨ)という新民族主義者出現の原因となった。いわばこれらの匿名での誹謗中傷サイトは負け組の巣なのである。西村は営利的な利己主義者で倫理を道具としか見なさず軽視する傾向が元来ある。川上は人種差別や盲目の天皇狂信、衆愚的な戦争志向を是とするネット右翼を産み出す原因となった非知性的なサイトの創設歴を反省混じりに自責しつつも、己の生活費を賄う会社経営のため、営利を優先してきた(彼はそうせざるをえなかったと弁解するだろうが、必ずしもそれ以外の選択肢がなかったわけではないので、所詮は彼の意思なのだ)。大井川氏は彼ら二者が上役にいたニコニコ動画を運営するドワンゴに取締役として入った。恐らく大井川氏は、西村と川上がこういった反社会的なコミュニケーションを煽って、衆愚にまとまらせ、検察や良民に手を焼かせ或いは手に負えなくしつつ、表現の自由を濫用する類の悪事で金儲けしてきた2人であるというIT業界事情を熟知していなかった。大井川氏は単に若者に人気のサイトなんだろうという程度の理解ではないか。或いは、営利性の高いドワンゴが日本におけるマイクロソフトに類比されうるベンチャーだったのだと、大井川氏は勘違いしたのかもしれない。それはIT世間知らずというべきだろう。マイクロソフトのビルゲイツがグローバリズムを志向するのに比べドワンゴの川上や2chの西村は、地下にいてみえなかった非公式な存在としての負け組隙間市場を搾取すべく、違法空間を維持したり経済弱者を扇情しながらある種の炎上商法で搾取して、日本語圏単位でのナショナリズムをあおってきたのだ。大井川氏は知ってか知らずか、この様なネオナショナリズムをニッチ戦略に援用している類の如何物な起業家を、人脈背景にもっている。またマイクロソフトを通じてグローバリズムの本質、つまりアメリカン・スタンダードの先取による世界支配という富裕層の市場独占についても理解しているだろう。いわゆるピケティのいうr>gを地球規模で行っているのがビルなら、日本語圏規模で行っているのが西村や川上である。これらの人々は根本的に慈善で商売をしているわけではなく、単に人間を利益の搾取対象と見て、ネットサービスの対価として金儲けを行っているにすぎない。要は、西村や川上、2chやドワンゴは負け組ナショナリズムを経営者の営利に利用しているだけの、単なる偽善者である。いや、犯罪幇助や名誉毀損などの2chにおける複数の事件で度重なる敗訴にもかかわらず賠償せず海外に逃げて恥じもしない西村や、身体障害に類比できる3DCGを半ば嘲笑しながら新技術として説明したことから生命尊重の念が足りないと宮崎駿に説教される川上、現時点でも誰も彼らを人格者だとは思ってはいないのだろうが。
 結局、イスラム国や、ネット右翼、或いは神道信者や自民党支持者、安倍支持者、トランプ支持者、北朝鮮におけるキム政権支持者、TPP推進論者を含む地域連合主義者、これらの人々は程度こそあれナショナリストでしかない。彼ら新民族主義者はグローバリズム経済下で不利な条件に置かれている為、内集団贔屓の期待に基づいて、儚い懐古趣味に耽っている。グローバリズムは不可避で、現時点でも格差を拡大させているし、タックスヘイブンに共同で対処しようした時点では手遅れなほどその差は開ききっているだろう。喜捨を是とした一部のイスラム原理主義者に見られる、調整的な正義に基づく抵抗としての無差別テロの対象が一般市民であるような場合、一般人の次元では単なる無法集団による反社会行動としか解釈されず、より強大な警察権力に弾圧され終わってしまう。この様な圧倒的過当競争下で、元々商才を付与されていた2割の金儲けが得意な人々は、自らの都合のためグローバル経済やリベラルに思想形態を寄託し自己正当化しながら、8割の凡人を搾取する。Liberalismはこの地点においては8割の不幸を納得させる、偽善の触媒になってしまう。元々そこにはアダム・スミス的な神の手、経済成長への期待効用が含まれ、人種や民族差別、植民地主義、単文化への反命題、democracyや民主化との結託という複数の状況的な補完性があった。自由は米国型の資本主義をおしつけるのに最も便利な道具にされた。フランスの知識人が人権思想と共に反既得権益、反王・反貴族・反中産階級(反ブルジョワジー)として始めたこの自由への信仰は、社会主義や共産主義といった革新思想を生み出し、アメリカに渡ってからは多数支配の正当化とグローバル経済、アメリカニズムによるそれらのおしつけといった考えを生み出した。つまり、グローバリズムが自らのうちに支配層として起きたがる富裕層にとって都合の良い体制は、自由を大義名分にした、不平等と共に底上げによって発展していく未来という資本主義的な幻想または市場原理を拡張させたがっている。
 ここで描いてきた現代社会の分析として、状況を整理すると、先ず利益社会側の頂点にビル・ゲイツをはじめとしたglobal資本主義者が存在する。そして彼らと同様に、搾取能力を使って利益を独占したがる、全体の2割を占める勝ち組としての富裕層が存在する。皇族や自民党員、経団連企業の上役などの既得権はこの層に属す。この富裕層は、自己利益に都合がいい搾取維持の体制と、それを補完する思想形態としてのliberalism、自由主義を信奉しがちである。他方で、中産階級は彼らの企業や政府に多少あれ生活を依存しているしそれに自覚も多少あれあるので、反グローバル資本主義者となるだけの誘引がない。従って保守という用語で、これらの既得権を維持したがる人が、中産階級の中の殆どである。このため中流はおもに自民党を消極的に選んできた。衆愚はまともな理解力がない為、単純にグローバル資本の牛耳るマスメディアから、富裕層に都合がいい奴隷として洗脳され群衆化する。他方、8割が同時代において負け組になる資本主義経済のしくみは社会に於ける不平等を拡大させるので、一部の知識人はこの状況が不正義であると気づく。多少あれ倫理的な利他心を持つこの賢者達は、自らの目的として定める不平等の低減と、より結果平等に近いため8割が幸福に暮らせる社会に向けて幾つかの考え方に分かれ、革新的な思想を持つに至る。最も軽い類型としての新民族主義から、社会主義、共産主義、社会民主主義、民主社会主義、或いは最も極端な類型としての宗教原理主義の類である。これらはどれも何らかの単位の共同体に家族社会的な互助性を寄託し、寄付、慈善、喜捨、福祉といった利他的な意思を啓蒙しようとする考え方である。幾つかの国々ではこれらの革新派が政権与党となる事に成功し、福祉国家や宗教国家が成立している。イスラム国も、国家単位での革新派与党を目指す集団として、シリア界隈に現れている存在である。北朝鮮も、単なる民族主義的な統制経済体制による革新派の国家である。これらの国々はテロ国家でもならず者国家でもなく、現米国大統領のトランプや日本政府の安倍内閣構成員、自民党、東京マスコミによる扇動やレッテル張りに関わらず、ただの革新的な集団でしかない。いいかえれば日米政府はグローバル資本主義の既得権を維持したがっている保守派でしかない。
 日本には天皇家という特殊な存在がある。(家という単位を認めない神道信者自身は、一般家庭全ての上位者という超越的地位の偏見を強調する意味で皇室と自称しているが、imperial familyという英訳でわかるよう、単なる言い換えでしかない。宗教による洗脳や衆愚に対して特別さを偽装する子供だましの虚構で自己神格化を謀る、神道狂信者の前近代的な言語IQの低さを示すに過ぎない事例である)。なぜ特殊かといえば、天皇家は平成末期時点で年間300億円近く(毎日8000万~1億円程度)を国税から搾取する既得権に属していながら、同時に、神道という弥生系移民中心教義の民族宗教によって共同体の長を自称しているからだ。どっちつかずの風見鶏や二義的な存在が、生贄の対象になりやすいというscapegoatingの法則からいえば、天皇を屠る、或いは集団から排除する事が、矛盾の解決になり、国民の再統一を意味する筈だ。しかし皇族閥は、GHQと交渉に当たって既得権を維持しようとした吉田茂の末孫かつ皇族血縁者としての麻生家、安倍家をはじめとした取り巻きの利権維持のため、神道による国民洗脳での専制支配に好都合な政治体制の維持といいかえてもいいが、この排除に最後まで抵抗する。島津家、毛利家、徳川家といった旧華族も全く同様である。天皇家自身にとっても富裕層の位置取りを世襲により苦もなく維持できた方が都合が良い。要するに天皇は保守と革新の両取りをしていて、いかなる変革があっても自分自身の世襲の地位を維持できる状態に自らを置こうとしている。保守派の信じる資本主義にとっては日本最大のキャッシュフローがある資産家として、革新派の信じる共同体主義にとっては民族宗教という仮想の枠組みによる日本国民全員を補完する上位者としての建前によって、普段は中産階級向けに善良な資質を持っているかの様に偽装し象徴と自称したマキャベリスティックな世襲君主としての面だけを流させる宮内庁記者クラブの悪意と、地方差別によるマウンティングを目的とした東京都民利権を意味する皇室タブーでの悪徳商人集団的な報道統制によって。いずれの場合にも天皇は天皇自身が最も好都合になる様な体制を、世界第3位のGDPを持つ集団を専制的に搾取しながら独裁する世襲の邪教祖として、あらゆる手段でとっているのである。水戸の徳川家が、素朴な国民国家ナショナリズムの啓蒙として天皇の非易姓革命的な不可侵性を語りだした時、旧常陸国民のうち幕末時点での水戸藩領域の侍らは、不動の天皇とその命を受けた警察組織としての将軍府による、一種の象徴天皇制を志向していた。私以外の世界中の誰もそれに気づいていないにせよ、徳川領を超えた全国統一による植民地主義への抵抗として、日本の独自性を定義したという意味で、水戸学派は当時として世界史に有色人種の民族独立と復権という最大の影響を及ぼすだけ至極真っ当な考え方だったのだろう。他方この日本独自の体制思想を、薩長は吉田松陰の欧米・中国模倣的なアジア侵略主義と一君万民論によって改造し、将軍府の位置に自らが明治政府として就く事によって天皇の権能を自らの傘下に置く、薩長藩閥寡頭政治体制を志向した。結果として主に西日本人達は利己心から薩長藩閥に扇動され、東国やアジアを侵略し、米国による2発の西日本への原爆投下で、薩長の悪意に自らの権益拡張を目的に乗った浅はかな天皇家もろとも、日本帝国下の民衆に誠に甚大な犠牲を払わせた末に、国連へ降参した。戦後70年、愚民洗脳力をGHQによる円滑な統治に利用された天皇家は、取り巻きである皇族閥に利権目的で地位を維持されながら、ぬくぬくと繁栄してきた。7000年前の鬼海カルデラ噴火の後遺症でほぼ無人の西日本に、2800年前に侵入したのが、中韓東部に定着していた弥生民族であった。彼らの作った新たな移民ナラ(朝鮮語で国を意味するのがナラであった)界隈における一部族長として、封建的な専制支配体制をあらゆる手段で敷いてきた天皇家は、全てを顧みると、権力志向の完璧な利己主義者である。既に述べた様その存在は保守派にとっても革新派にとってもどっちつかずで、中産階級の洗脳によって自らに都合のよい搾取体制を維持しようとする。裏返せば、保守と革新のどちらにも、衆愚洗脳や反意を煽る道具として利用される駒である。この地位に天皇が就いた理由は、弥生人として隋時代の中華皇帝に遣隋使が謁見した際、嘗て中国東部の江南地方に住んでいた弥生人特有の劣等感や自尊心が刺激され、ナラにもどってからいわばナショナリストとなったため日本列島側に日本人を奴隷にした小中華帝国を作ろうとした所に原因がある。つまり天皇とは、原型から今に至るまで単なる帝国主義者なのだ。彼らはこの専制の意欲に基づいて神道という自らを神格化させる幼稚な多神教を、大陸の文物を援用して日本在来の自然崇拝と混淆しながら構築したのであり、日本人衆愚はそれに洗脳されたのである。旧華族や安倍・麻生両家を筆頭とした現自民党員の皇族閥は国税に寄生する天皇家同様に、神道による日本人洗脳構造を利用し、自らの権益を伸ばしたいだけの、専制政治屋ということなのだ。中流も労働に追われて、この事実に気づく暇がない。保守派は利己の悪意、又は無批判なグローバル資本主義信仰でこの専制支配体制を維持したがる。革新派は天皇を槍玉にする場合もあるが、日本では逆に復古神道や王政復古といった、過去の(といっても弥生人の移民以後、ここ2800年間の)共同体概念の回復による革命を維新と呼んで天皇を利用しようとする場合もある。いずれにしても天皇は自らの帝国主義を補完するのに都合がいい政治家を選好し、それ以外の政治家を、例えば国民主権論者であった小沢一郎氏の様な人物を宮内記者クラブ発の偏向報道による国民洗脳で迫害する。そこには保守も革新も中道もなく、資本主義経済下における封建領主あるいは富裕層の頂点的な天皇家の保身を図る利己心と、納税・貢物を行う国民奴隷の維持という中華皇帝あるいは西洋圏の王族モデル模倣心だけがあるのだ。
 では、我々茨城県民あるいは北茨城市民が一体どうするべきかといえば、グローバル資本主義、各種の共同体主義、新ナショナリズム、天皇制、これら全てに対して狂信的な態度を避け、一定のメタ認知的な距離を保って冷静に、自己に好ましい思想上の立場と態度を選択する事にすぎない。ここで公徳あるいは善、正義といった利他性は、思想上の立場に関わらず自分自身の生活形態にとって互恵的基礎を持つ行動系列にすぎず、簡単に言えば、相手に或る類型に基づいて行動して欲しいとする考え方はそのひと個人の信仰でしかないのだ。相手、或いは他者の考えが自分の考えと同じである事を期待するのは、単に愚かであるか、一種の宗教だ。勿論、何らかの宗教集団が、何らかの点で成功する場合もあるだろう。いずれの信仰や主義思想についても、それら諸々の行動系列の中で、或る程度偶然に基づいて選ばれた思想形態に関し、時間経過の結果として何らかの意味で成功したとされる規則がみいだされ、たまたまその考えが合理的だったと言い訳されるのだ。だから大井川氏或いは茨城県知事がグローバル資本とか当県単位での地域共同体とか、或いは新ナショナリズムといった彼の行政を執る範囲の人々に何らかの観念形態をえらびとるよう主導するとしたら、それは商業面でみれば単なる計画経済か、政治面でみれば地域社会主義的な個人の思想・信仰・良心干渉にすぎないであろう。思想的なリベラルの立場が地球資本の触媒だという批判については、その他の思考形態のうち、調整的正義を主張する派閥、たとえば恐怖政治によるイスラム原理主義者などについても一切の先入観を持たず、絶えざる再判断を期し、同等に等距離で価値判断し直して行くことで、必ずしもあてはまらないというしかなくなるだろう。

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by smartestone | 2017-09-07 17:31 | 学術 | Trackback | Comments(0)

都鄙の優劣と双京都性自己愛障害について

 田舎者と都会人の二項対立を、東京都民のうち23区民の中の千代田区に近い所得階層順位(又は、関西では京都市民のうち旧洛中人)の上位者が、天皇制と神道を後光効果に濫用し、華夷秩序を階級として固定化しよう、というのが日本人一般の脳内に作られている地域差別の地図である。東京都民の一部と、京都市民の一部、或いは奈良市民、大阪府民や神戸市民、名古屋市民、仙台市民等それら東京・京都の模倣者として地方都市民の一部には、偏見に基づいた自己愛性障害に類した優越意識と、それに付随した無条件の全国民への差別意識が存在する。これを一言でいうと小中華思想の類型としての、東京中華思想、京都中華思想である。東京都民や京都市民は井の中の蛙大海を知らずという自己中心的な傲慢さと同時に、福沢諭吉や薩長藩閥に洗脳された欧米圏への無条件の劣等感、そしてアジア蔑視からくる日本の非東京・非京都地方への無条件の蔑視意識と無意味な優越感がある。これは双京都性自己愛障害(東西京都性自己愛障害)、と定義づけられる、ある種の精神疾患である。その精神疾患の最たる存在は天皇家、皇族という自己愛障害の遺伝的原因がある存在だが、この精神病、風土病を彼らの周囲に住んでいる人の一部は模倣し、また元々その種の精神疾患を持つ人が、それら2か所及び地方都市部には集まりやすいのである。
 もしこの都会性の自己愛障害が遺伝的・文化的に偏在しているのが日本だとして、その原因の一つは、天皇家を含め、都会に住んでいる人々のIQの低さがあるだろう。差別や偏見を信じ込みやすいのは、批判的思考を持てない幼稚さに由来し、そうである限り、双京都性自己愛障害者が洗脳する差別的偏見をそのまま鵜呑みにし、流されている人々は、そうでない人に比べて低IQの割合が高いだろう。相対的に低IQの人は東日本(東国)より西日本(西国)に多い。だから西国人は東京か京都・大阪発のマスメディアと天皇制に、東国より洗脳されやすい。
 結局、魅力度報道を行って好都合だと考えている本物の双京都性自己愛性障害者と、その悪意ある虚偽に洗脳され易い低IQの人々が、茨城県民の一部がその意見を変えようと思っている対象なのである。これらの人々は、一体、相手にする価値のある人々だろうか。誰がどう見ても気違いと馬鹿に過ぎないのではないか。愚者と狂人に好かれるとか、羨ましがられるという事が賢明である事は殆どありえない。賢明な県民であるなら、外部の愚者と狂人の意見を無視するべきだろう。もし、意味のない優劣感の狂信を延々と続けたがる東西京都の自己愛性障害者を治療したければ、専ら精神科医に任せねばならないし、単なる低IQ集団である様な一部西日本人に、高IQの人が可能な次元の思考過程を期待するのも無駄だ。これらの集団にはむしろ、誤解されたり嫌われるほど得をするといって間違いない。
 都会と田舎という二項対立を、都会を優越性と、田舎を劣等性と固定観念で結びつけている人間は、単純に、自己愛性の妄想で気が狂っているのである。それは皇族についても全く例外ではないし、その狂人の権化が、根拠のない自己愛性の障害に基づいて中韓移民の末裔に過ぎない自分を神の子孫だとか、象徴だとか、宗教祖と名乗っているにすぎないのだ。この種の狂人の妄念を信じ切って疑わない愚か者や、その邪な洗脳を悪用して全国民をだまそうという東京都民や京都府民は、一言でいえば相手にするかいもないほどのやくざだというしかない。即ち、都会の劣等性や、田舎の優越性をも同時に理解しながら考察し、またそれらの両極に限らず、田園や郊外や、地方都市や里山や公園といった中間領域についても、その個々についての優劣を個別かつ詳細に分析しながら、より正確に捉えて利用するなり改良していく事が、科学的思考の可能な知能の人間なのである。

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by smartestone | 2017-09-06 20:45 | 学術 | Trackback | Comments(0)

『常陸国風土記』前文

 常陸國司解 申古老相傅舊聞事
 夫常陸國者。堺是廣大、地亦緬邈、土壤沃墳、原野肥裄、墾發之處、山海之利、人人自得、家家足饒。設有。身勞耕耘、力竭紡蠺。者。立卽可取富豐、自然應免貧窮。況復。求鹽魚味、左山右海、植桑種麻、後野前原。所謂。水陸之府藏、物産之膏腴。古人曰。常世之國、葢疑此地。但以。所有水田、上小中多、年遇霖雨。卽聞。苗子不登之難、歳逢亢陽唯見、穀實豐稔之歡。歟。

 訓読:それ常陸の国は堺これ広大にして地もまたはるかなり。土壌うるおい原野肥えわたる。墾發するところなり。山海の利、人々自得す。家々饒に足る。もし身を耕耘に労い力を紡蚕につくす者あらば、即ち豊かに富取るべくして立ち、自ら然りして貧窮を免れるに応ず。況や鹽魚の味を求め復すに左は山、右は海。桑を植え麻を種するに後は野、前は原。いわゆる水陸の府蔵、物産の膏腴。古人曰く常世の国、けだし疑わんこの地と。ただ以てあらゆる水田上すくなく中おおし。年霖雨に遇わば即ち苗子登らずの難を聞かん。歳亢陽に逢わばただ穀實豊稔の歓びを見んか。

 現代語訳:常陸の国すなわち茨城県のあたりは広く、はるかな大地である。その土や小山はうるわしく、原野は肥え渡っている。人々が開墾をはじめれば海の幸にも山の幸にも利益があり、人々はそれを自ら得ているのだから茨城県の家々の食事はとてもゆたかで、満ち足りている。もし田畑を耕したり、蚕の糸を紡ぐ者がいたら立ちどころに富を取ることができ、すぐさま豊かになる。結果として彼らは自然に貧窮を免れるのだ。それどころか茨城県の人たちが塩気のある御数やら、魚やらの味わいを求めにかえってくれば、土地の左手は山でしかも右側は海、どこにいても食材が手に入ろうという世界である。彼らが桑の木を植え麻の種をまこうとしたら茨城県土の後ろは野原、前は草原であり、この県には水産業のみならず農林業にさえ、どこにでも適した土地があるといえよう。いわゆる水陸の府蔵といい、物産の資源があぶらのように滴っているのだ。昔の人がいった常世の国、すなわち天国とは茨城県のことなのだろうかと疑うほどだ。但し、一ついえるのは水田に上々のものは少なくむしろ並程度のものが多いので、ある年に長雨が続くと、苗が育たないことがある。それが難点だと人々から不満の声が聞こえる。よく陽射しの照る年に逢えれば、ただただ穀物の実りは豊かで、いかに喜ばしい事か。
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by smartestone | 2017-05-14 09:15 | 学術 | Trackback | Comments(0)

情報、哲学、科学(自然・社会科学)、及び数学の集合論的な定義について

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全体集合U及び、真部分集合AからDまでを、次の様に定義する。
全体集合U:情報
真部分集合A:哲学
真部分集合B(真部分集合Aの真部分集合):社会科学
真部分集合C(真部分集合Bの真部分集合):自然科学
真部分集合D(真部分集合Cの真部分集合):数学
以下、部分集合(集合Aの要素が全て集合Bの要素でもある時、すなわち∀x(x∈A→x∈B)である様な集合)を⊆で、真部分集合(A⊆BかつA≠Bである様な集合)を⊂で表す。また、「かつ」を「∧」で、引くを-で表す。記号論理上に同等でも、述語論理と対応する区切りとして必要な時に、適宜、()をつかう。形式として、先ず述語論理を記述し、その次に、対応する記号論理を記述する事で、定義する内容を表す。
 全体集合が情報である時、自然科学は数学を真部分集合として含み、社会科学は真部分集合として自然科学を含み、哲学は真部分集合として社会科学を含み、情報は真部分集合として哲学を含む。いいかえると、全体集合が情報である時、数学は自然科学の真部分集合であり、自然科学は社会科学の真部分集合であり、社会科学は哲学の真部分集合であり、哲学は情報の真部分集合である。
D⊂C⊂B⊂A⊂U
 広義の哲学は、情報という全体集合に対して、哲学という真部分集合から社会科学という真部分集合を引き、かつ、哲学でない情報を引いたものである。
U+A-B-U
 狭義の哲学は、情報という全体集合に対して、自然科学の補集合であって社会科学でない情報を引いた集合と考えた時、さらに情報の全体集合に対して社会科学の補集合に部分集合として含まれる集合である。
A⊆((U+A+B-C)-B)
 より厳密には哲学は、情報という全体集合に対して、自然科学の補集合であって社会科学を含む情報の集合から、社会科学という真部分集合を引きつつ、哲学でない情報も引いた集合である。
((U+A-C)+B)-B-U
 社会科学であって自然科学でない集合とは、全体集合である情報に対して、自然科学としての真部分集合を引いた集合から、社会科学の補集合を引いた集合である。
((U+A+B)-C)-(A+U)
 自然科学は、全体集合である情報に対して、数学は自然科学の真部分集合であり(数学を真部分集合として含み)、かつ、数学でない真部分集合をも持っている。つまり、自然科学であっても数学でない集合がある。
((D⊂C)∧(D≠C))⊂U
 哲学であって社会科学でない集合とは、全体集合としての情報に対して、社会科学という真部分集合を引いた集合から、哲学の補集合としての情報を引いたものである。
(U+A+B)-B-U
 哲学という集合は、全体集合としての情報に対して、社会科学、自然科学、そして数学という真部分集合を含む(社会科学、自然科学、数学は、哲学という集合の真部分集合である)が、自然科学を含まない社会科学の真部分集合や、自然科学を含む社会科学の部分集合や、数学を含まない自然科学の真部分集合や、数学を含まない社会科学の真部分集合を含み、かつ、必ずしも全体集合としての情報の全てではない部分集合(全体集合としての情報に対して、部分集合である集合)である。
(A⊆U)∧((D⊂B)∧(D≠B))⊂((D⊂C)∧(D≠C))⊂(C⊆B)⊂((C⊂B)∧(C≠B))⊂(D⊂C⊂B⊂A⊂U)
ただし、
((D⊂B)∧(D≠B))=B-D
((D⊂C)∧(D≠C))=C-D
((C⊂B)∧(C≠B))=B-C
なので、
(A⊆U)∧(B-D)⊂(C-D)⊂(C⊆B)⊂(B-C)⊂(D⊂C⊂B⊂A⊂U)

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by smartestone | 2017-03-26 19:30 | 学術 | Trackback | Comments(0)

東京都民の鴨川比呂志が行う恣意的統計による差別捏造の実例

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 これは〒140-0002 東京都品川区東品川4-12-4品川シーサイドパークタワー3Fで鴨川比呂志が資本金2億9600万円でやっているジー・プラン株式会社の「地域差別の為の誘導尋問アンケート」の実際の画像だ。
 このようにして都内の極悪の会社、極悪の人間がネットアンケート上で地域差別の偽統計を、恣意的質問の誘導によって捏造しているのである。はっきりいえば、これは天皇制および東京都への資本集中による門地差別をつくりあげる実例であるが、あらゆる場面でこの種の傲慢、差別の為の悪業が都民の中にみられるのは、かつての京都における天皇の中華思想とまったく同じ構図である。
 このような恣意的な偽統計によって日本人がある確証的バイアスをサイバーカスケード状に強化していくとして、茨城県にとって不利ではない事、またむしろ強化したほうが有利であろう事は、過去の当論考集で論証してきた。一方、東京都が資本及び権力を乱用し、マスコミやネットメディアを乱用して偏見と地域差別を広める事が、東京都民に有利になる方向へ、また関東北部の県民に不利になる方向への悪意ある誘導である事もまた我々は証明してきた。そしてその核心にあるものが、水戸学が召還した天皇制の中の中華思想であるとは、なんとも皮肉である。ただ今日の旧水戸藩領における一個人として私が出す結論は、東京都のこの卑しい習癖は、むしろ衆愚を失敗へ誘導していくのであるから、茨城県域における高度な啓蒙、しっかりした教育が図られている限りにおいて、ますます我々にとって有利有徳であるという事だ。いわゆるネット衆愚、またマスコミに洗脳された衆愚に対して無知のヴェールをかけてくれている都内の悪人達、嘘つき達には、感謝しなければならない。それは無料でやってくれるステルス戦略とまったく同じだからだ。
(以下資料、同恣意的差別のアンケート調査はここに記述された「誘導尋問」の結果をマスメディアにさも統計的真実かのように流布するのである)
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 なお、同アンケートでジー・プラン株式会社は東京都に関する質問で「東京へ行くなら?」と、ポジティブな回答が得られる質問を事前に用意していた。要するに自分自身に有利、関東北部に不利になるような恣意的な誘導尋問を、悪意で、アンケートを受ける人達に渡しているのである。この会社は、秋田や青森、佐賀、他の都道府県に関する質問でも、秋田なら「美人」など、典型的な地域差別の偏見を強化するように誘導尋問していた。
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by smartestone | 2017-03-14 07:49 | 学術 | Trackback | Comments(0)

西日本の倫理分析

 九州山口は暴力主義であり、関西は拝金主義、東京は権力主義である。それぞれ、四国中国は九州山口と関西の中間形態、また中部北陸及び神奈川山梨は東京と関西の中間形態である。
 また九州山口にあって鹿児島は権謀主義、マキャベリズムを信じており、山口は侵略主義を、四国にあって高知は政商主義を信じている。関西にあって京都は虚栄主義、大阪は実利主義である。沖縄は日和見主義である。長野、三重、愛知、静岡など中部は迎合主義である。
 これらが生まれてきた原因は、彼らの過去の歴史と文化、民族的生活の混交である。
 これらが南西日本それぞれの持っている倫理規則であり、彼らの倫理にかなう相手を尊敬する。従って、彼らを操りたければこの倫理規則に沿って操ればよい。またこれらの倫理にかなった宣伝にも彼らは弱い。

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by smartestone | 2017-03-08 22:25 | 学術 | Trackback | Comments(0)