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蛮民観光ツアーの提案

またヤンキーが暴走ごっこをしていたが、普通に道路交通法違反なのだから派出所から巡査が逮捕しにいかないのはおかしい。こっちはそのために税金払ってるのだし、消費税すらかれらの給与の一部分ゆえどのちいさな子供さえ環境のため払っている。

 ああいう無謀な人は世界旅行に出すとか(勿論いい結果になる確率は低いかもだが)、又はストリートライブ辺りでつまらんくだらん歌でもうたわせるとか(勿論こっちはこっちで迷惑だが)、何かしら世の中の為になる文化へと才能を活かせればいいのだが。

最もいいのは市の「観光ツアー」であの珍獣目撃(防弾ガラスつきのバンから観る)のコースを入れることではないか? 珍走団鑑賞ツアー。たぶん人気出ると思う。都心の人には本当に珍しい光景だ。
5000円くらいにすれば相当くるのがまちがいない。
磯原駅前から出発、豊田町辺の奴ら野蛮民の住居蹟(たまに出現する可能性がある)をまわって帰ってくる。一時間くらいのツアーだけど。鎌倉でいう流鏑馬とおなじ効き目がある。冗談だが。まあ朝日新聞記者のいわき女ツアーよりはよっぽどいい。朝日新聞記者は社会へ土下座しろ。
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by smartestone | 2011-02-23 16:03 | 経済 | Trackback | Comments(0)

県内大学の改組論

県内の大学進学以降の過程での発明発見を誘発するに、国立大系の文理別の体制をつくりなおし共通試験での総得点のみをとえばどの分野課程へも自在に進学できる様にし、しかも年に数回以上試験を行い、その内のいちどでも必要得点以上をとれれば合格あつかいにするといい。

いまの国立大ってか旧帝大中心の受験システムは、戦後の型にはまったあまり使えない官僚をつくりあげるには向いている‘完全な科挙最適’だが、これは官僚主義の推進にしかつかえないといい加減さとるといい。そしてここにかかってる機会費用こそ次世代産業への資本転換が停滞する最悪の元凶。
米英での、特に米での発明、英での発見の多さはより柔軟で多岐な進路がとおる社会の教育組織に因果がある。
英のケンブリッジとオックスフォードさえ自由に生徒がえらべる(つまり得意な)二三教科の試験しかないらしく、しかも多くの学生が入学前に一年間の休みをとる。これはいわゆる受験疲れからくる学生放蕩の発生をさけさせていて、大陸旅行が慣習だった時代からつづいているらしく、広く社会奉仕や観察をさせる見聞旅の過程で一般世間を眺めさせ、リフレッシュした頭で勉学にふたたび励むためのもの。*1
新卒至上主義な新品人材はこづめ生産過程への盲信では永遠にでてこれない習慣で、ノーベル賞級で大騒ぎする大馬鹿民族どもは猛省すべきである。鴎いわくね。というか鴎はしゃべりませんが。

なぜ東大から決定的発明発見がでないかをみれば、そこが官僚主義システムへの最適化組織だからで、実際につかえない石頭も非常に輩出してるのでこれは明らか。といっても東大さまさまだからばれてはないみたいだが、
天下りをしてなんとも感じないのは馬鹿のほか形容がない。まあそれがいいすぎなら、科挙野郎といえる。フランスか中国か。

東大生が受験馬鹿か受験天才のあつまりゆえ広い視野や包括的総合判断力をみにつける機会が少ないとの指摘はかなり昔からあるが、これは科挙にならった官僚育成システムがそうさせている。茨城県がまねする理由は特にない。
まねしたいひとをとめる権利もないが、官僚育成が至上命題なら専用の科挙大学でも県政自身でつくれば如何が?
それとももうあるのでしょうか? まこと旧帝大様様でござります。ふざけているのではない。

平和主義のもとでは科学技術面での進展が決定打となる。よって文理の別を即刻撤廃し、進路の多岐と試験制度への古風な固定観念、つまり年末一括で行う科挙な方式を改めるべき。学制や教育委員会とかがやらねば自分で。その流れを率先つくるべし。

で、学生であれ外部生、飛び級趣味者、社会人、無職や主婦であれ試験の機会を簡単な費用さえ払えば何度でもうけられる私営的な体制へかえる。
(もし体制が先にうごかねばわれこそは、って先鋭が別個にテスト機関とか生徒や先生、塾講師協会からのクラブをつくってでも流れをつければ次第におおむね組織がわもそうせざるをせなくなるはず。どちらにせよ営利団体らにすぎないので。)
 今のところはセンター試験しか特にないみたいだから仕方ないが、いずれは私立で多様な傾向をもつ試験機関を県内進学可能な公認試験機関へ一定条件で格上げさせ、それらの型にはまらない学資から、より多彩な知的才能をいかせる県の世界へつくりこまねばならない。

順位制度に似た特定の学識階層の固定化はなによりさけるべきで、なぜならそうなるといわゆる儒教階級の罠にはまってかれらの自己神格化がはじまり、学歴社会の暗面はびこり東大中心なアカデミズム政争に、茨城県内の大学ら教育組織さえまきこまれ、で関東一円の停滞にいたるだろう。すでにその序曲はあるのだろうけど。
この真逆に進めば大いなる栄えの発展が導かれるわけ。

とかくあの受験緊張感はのどもとすぎれば系だが、若い精神には無駄な緊張であり、まだ先がある学習過程でのストレスはまったく無益すぎる。そのつかれる分の神経を、より多元な教養と異分野学習へつかえれば皆どれだけ賢いかわからぬ。
自己目的な受験勉強というのは無益か最低でも愚劣な科挙風習であり*2、本質なのは「より高度な発明発見への基礎をつける」ことだ。官僚は受験した段階又は修学の証拠を自らの箔づけに利用してるにすぎず、本末転倒なのである。
ゆえに試験される範囲の学資がこの基礎と合致か調和するばあいにかぎって、受験会社も市民はつかえばいい。
 もし官僚世界に一生で一度もかかわらない人間なら、まったく受験など行わない方がいい。そしてビルゲイツをこえる起業家に先陣きってなればいい。ならなくてもいいけども。しかしそれには決定的な技術革新をみちびくたしかな知慮がいる。だから勉学はいつも重要。単に自主自由な意欲からの勉学が。

ーーー
*1 尤も、アダムスミスの様な否定論者もいる。たしか国富論の中にあった。曰く大陸で遊んできて悪い習俗をみにつけるだけだと。まあアダムスミスは東北人みたいなものなのでそれも一理ある。石川啄木とか太宰治みたいのみてれば、超田舎者はいきなり大都会へ出してはいけないのだろう。故に「信頼できる家庭教師同伴」かなんかを勧めてたかないか。実際、浪漫主義時代の理想論な教育書として有名な『エミール』でもそうしてた。だから一律に勧められるものではなく、ある程度しっかりした子供へしかその大陸見聞みたいな息抜きの旅行はおこなわせてはいけなく、道徳心がよわそうな子は自宅住まいの近場に置いて、少し旅行にいく位にしておいた方がいい。
しかし学習意欲の維持にリフレッシュ効果が詰め込み効果より大きいのは、北欧の学校、小学校から中学校の間かに補修年度をもうけていることでもわかる。今の日本の学校システムはストレートを尊びすぎているのはまちがいない。

*2 最高にみつもっても共通知識をたしかめる手段にすぎず、才能とみても暗記を主としている間は学術進展の為に害しかない。もし教科書やネットを道具として試験問題を解かせるとしても、一回にかぎって時間制限をもうける意味がないし、あるとすれば暗記家畜つまり悪い意味で官僚をつくることだけだ。
それなら官僚専用の課程をつくればよく、柔軟で独創な洞察をまえおきとする科学や技術への基礎づけには害しかない。「官僚育成課程と学者育成課程は分けられねばならない」。
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by smartestone | 2011-02-21 20:50 | 経済 | Trackback | Comments(0)

県内学校での道徳指導の過ち

単一理説の吹込みが政治行動の偏りと極端化につながるという一般政治史の真相をかんがみれば、哲学部はつくるべきではない。それは各人の思想に留め、実証で確認しきれない個々の立法権利者たる倫理判断の問題、つまり立法会議へのわたくし民からの批評の能力とされねばならない。

たとえばミルが助言した売春禁止法への意見(⇒売春の自由は存在しない。なぜなら男性の不品行が原因ならそれ自体が公共の福祉と矛盾している、という忠告)みたいに。それこそ哲学ということ、個人の思想の自由の正当な行使となる。

哲学は批判的、つまり実証される知識同士をくらべて判るためのものだから一律に教えこむことはできない。西周による‘学’つきの訳語はあたかも勘違いさせやすいがphilo−sophyは極論すれば自由な習慣、あるいは単に「智恵」の意味しかない。智恵はゆたかな判断をできる物わかりよいひとへの称号なので、教え込みえない。
理性はいつも自由でなければならない、と鴎が言ったとかいわないとか。勿論ジョナサンではない。

市場干渉をできるだけは否む寛容経済のもとで行政の実行問題は、選出した行政人とその部下にまかせておかねばならない。職業的な専用の哲学者はどうしても特定イデオロギーをもつ政党により御用化しやすく、大学の中では権威づけられやすいので危険なのである。
 同じく、いまの県政が県知事号令?で道徳の授業とか一斉に平気でやってるのはやばい。

再びミルがいう様、「過去の思想の事実」にかぎって、誰がなにを考えていたか、いまはそれへどう考えてられいるかという「文献上の事実」のみを教えるのが賢明だ。それなら特定の理説への狂信、つまり単一宗教を県政偏見からうえつけられる可能性、偏見を伴う理説の解釈学化を回避できる。
というかこの回避のさがをどれも実証できない虚偽を含む暫定理説間の比較検討の習慣でみにつけられる。

過去の思想からより優先しておしえられるものの選択権利は、むしろ政府に関わりある教育委員会の外部に置かれたほうがいい。でないとかたよってしまいかねないのだし、ハイデガーとナチズムの正当化講義だけされても内からは文句いえないっぽく、まことにいまの体制化はやばい。
やはり学校では実証科学しか教えないほうがいい。地球内の人類へは自然知識は域内で似た法則性をともなってほぼ共通の智恵となるから。
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by smartestone | 2011-02-21 20:32 | 経済 | Trackback | Comments(0)

理説と政治

これまでの人類史を省みると、特定の理説かイデオロギーをもたずにやってきた政治集団が戦争に勝つ確率が高かった。理説なしでは国がなりたたないのかもだが、理説が一つへ結晶してきた時は複数の理説が錯綜している時よりも結果が悪くなっている。

殆ど歴史学のはなしだが、この「単一理説悪因説」は知恵としてもっててもいい。その罠におちいった場合、集団が多様な意見や衆議の中からよりよい選択をとるという臨機さad hucさがきえているはず。
慶喜公の例をひくと、臨機さがあれば最悪の事態を避けることができる。それが熱い人の間で全然評価されてないどころか小ばかにすらされてるのが冷笑もの。ウィキペディアよめばわかる。で、もし攻勢にあたってはより合理的な選択をとれるだろう。

この市政のいまの問題は、いわゆる集団浅慮かgroup thinkの罠に平気でおちいってる愚民さにある。注意はくりかえしたにも関わらず自浄努力で、あの全員協議会なる実質な市長独裁のうら手順は回避できていない。この全員というところがいつもいつもくせものなのだ。一丸とは鰯の癖であり最弱ということ。
一部が崩されたらおわりな全体最適化をしているから、合理的選択をたえざる議会での質疑応答から柔軟にえらびなおすことができず、別にえらばれてるのでトップダウン式にいつきやすい市長のまちがった独断であれ、そのまま実行されてしまうのである。言うまでもないが迷惑をこうむるのは市民自身。
誰であれ、一市長の面子など市民らの合理性よりはまったくどうでもいい瑣事細事にすぎない。それは公事ではなく私事に属するのだから。日記に悔しいとかあっぱれとか書けばいい。もし市長がかわれば何もなかったことになる一時の感情、苟も自己反省なき子供じみた正当化にすぎない。ときに埋没費用こみの。
大人の市長なら、まちがった時には素直にその道筋を修正し、まちがいを説明すれば済む。それだけで全てがよくなる。全能人などいない。大体、市税をもらい市の為に働く義務があるわけで、まちがったら修正しないのは単なる迷惑行為である。勿論、市がまだ致命的な誤りをしていない前提でいうが。

最近みてたところでは割と無益くさいふれあいセンターの豪華観覧席への4000万だかの出費と、光ファイバー回線を総務省の一進一退の動向を十分まてずに2億近くつかって急いで全体配置させてしまったという二カ所の、財政不合理があった。説明責任か言い分をきいてもない。なぜ使うかの理由が、情報隔離の脱却程度や映画文化の振興とかいう有り体のたてまえしかない。これを修正させなかったのは市議会の機能が十分でないからだ。事細かにといつめ、矛盾があれば罷免権を手にやめさせるべきなのだ。

 極論すると議員以外が市議会で質疑できる、「外部質疑制度」がもうけられるといい。勿論十二分に時間を割いて、市議会の場で。
さもなくば牛耳られた市議会本番で面前と市長の理説を批判なり脱構築できるのは相当の度胸で党派ぎらいの狷介人だけだろう。勿論そういう人が必要なのだが。

 最初の学説にもどるが、「理説はあとづけ」でいい。これが人類史の奇妙な真実だ。だから勝って勝って勝ちまくることが全ての前置きにある。それさえも行えない人種は滅ぶのだ。その後に、生き残りの正当化のためにこそ理説が唱えられるのだし、そういうときしか政治は本質で成功しない。
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by smartestone | 2011-02-20 18:49 | 経済 | Trackback | Comments(0)

行政エラーの省略方法

それ自体を狂信すべきではないだろうが、山口県萩市の動向を注視しておくのは有効だ。飛耳長目という松蔭スローガンにも表れてるが必ずスパイ行為を働いているかれらは、中央を出し抜くことにかけては特化されている。
この出し抜く習癖は必ずしも尊敬されるものではないし、実際に文化素の突然変異としては遅かれ早かれ国内除去される可能性が高いが、なお利用するという観点からみれば大変使える。

かれらはワイファイスポットの時もそうだったが、今度も長州ファイブとかつってイギリスへの密偵か諜報留学をもう一度子供にまねさせようとしている。中央政権への裏切りについて反省の色などまったくない。逆にほぼ全員とかが誇っているわけで、おもな我々とは心情は真逆である。
要するに全然協調性がない人達で、その使えなさは勝手者の代名詞な伊達仙台を上回る。しかし逆に「水先案内」とするには恰好の題材となるだろう。

植民地開拓時代にスペインとポルトガルがどんな働きをしたかをしっていれば、薩長という日本の奇種がどういう使用に類するかも明らかで、それを利用しない手はない。つねに中央を裏切る(すこしも従う気がない)のでみていればなにが失敗でなにが成功したかわかる。
 どうも山口県付近の人一帯がそういう猪突猛進性格をもっているらしく、ユニクロも同じ用途につかえる。慎重さも思慮も欠けるのでよく失敗もする人達だから、何らかの面で成功しているみたいだったらそれはトライ&エラーをパスしたという証拠だ。

勿論かれらより先進国な米英をみるのも重要だろうが、かれらが国内ではつねに慌てふためいて率先と試行錯誤してくれるのは日本版のラテン派として扱う方がいい。情熱で進むかれらは社会的極論をよろこんで、あるいは誇りつつ行う。
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by smartestone | 2011-02-19 17:22 | 経済 | Trackback | Comments(0)

一つの市民性改善策

それが最善かは不明だが、もしかすると、この市民性を改良するには「全員分の大学院博士号以上学費負担」を市債で補うべきなのかもしれなく、その取得をむしろ義務づけるべきとさえ思う。

若い世代はある一部を除いてそうでもなさそうでもあるが、いまの50歳以上の不勉強加減、向学心の欠落はひどすぎる。あれらは反面教育以外のなにものでもない。自分から学習するということが全くないのだから。そしていわき女みたいにマッサージとかほざいている。猿か。

 福祉主義の本質だけを脱構築する案だが、いちど真剣にかんがえてみてほしい。
全員分の博士号用費をたとえば月に一人あたま1万円以下5000円程度負担するかわりに、どれだけ市内の世間がすごしやすく、市内のあの最悪の学校環境が改善されるかはかりしれない。
市場ばかりか市政も刷新される。どうかんがえても個々家庭のネット費用の負担費よりも合理な選択だと感じられるにちがいない。

LANスポットがいくつかあるかわりに、光回線使用費とプロバイダー接続料の値下がりを予測していまは情報費用を飽くまで節減し、その程度の知識社会への投資しても市がすごしやすくなるなら万々歳ではないか。
世代間ギャップではすまされない無知の程はそれくらいの真逆の刺激をあたえねば改良されないのではないか。博士号を取るまでは市民としての成人権利を認めなければいいだけではないか。パチンコとかマッサージとかサブカル市場とかスナックをつくって平気でいる無恥なる土民など、少しも将来世代の模範に足りないのではないか。死ねとはいわない。少なくともこの市から、あるいは先進国内から退避してくれればいいのだ。中国とかへ。
野蛮教師すら善良でおだやかな何もしらない生徒へ閉じられた場所でならいくらでも暴力をふるう最低の倭人学校環境は、博士の成員だけで占められていれば、すくなくともすこしだけ浄化されるのではないか。社会淘汰の条件をすこしは知的改良へ向けられるのではないか。


追記。こう書くと今度は大学や院という学園装置への神格化がはじまりかねないので釘をさすが、いまの時点でもある学内嫌がらせへの対策を事前にとると、より不条理は回避しやすくなる。つまりは学校組織での内部告発と外部批判をつねに賞罰制度化してしまうべき。(いわば市への報告又は外部からの指摘で褒賞、で罰のほうは教育委員会への通知と教育委員専用弁護士を置き簡易化したてつづきを通した民法刑罰それと県警で行う刑事告訴と罰金・懲役。)
かつ、福祉税の出費は海外留学(長期は優遇、短期は当然)を前提におく。大抵、日本に並ぶか勝る最先進国の英米への留学が最も効果あるだろうが、それ以外でも可(但し推薦はなし)とする。
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by smartestone | 2011-02-19 16:55 | 経済 | Trackback | Comments(0)

高萩市長へのおねがい

県北でもっとも有効な所得水準向上への政策は、「放送大学の受信可能世帯」を最大化することだ。

北茨城市長はのろのろとしており、実行が遅い。いまごろ映画とか言っているし、愛パッドはつかえないから後回しとかはなしにならない次元にいる。よって、ここで告知しても自分から受信しますって人はけっして多いとはおもえないので、むしろ高萩市長におねがいしたい笑。
高萩市長は大変お若いのできっと、かならずや理解があられるはずであり、こころから県北部全域に、それがデジタル放送の地上波で無料受信できる状態を実現してくださると信じている笑。
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by smartestone | 2011-02-18 05:44 | 政治 | Trackback | Comments(0)

域内のゆとり

域内所得をあげることは、人口密度の漸次な低下とすこしも矛盾しない。磯原所得となづけた値にしても同じく、所得水準の決定的な高さということが前提となってのみ働く。

 教養水準を高めるのは所得水準の決定的な高さよりも、相関するが或いは優先度に於いてすこしばかり低いかもしれない。やばくなりそうな趣の家の姿も全然皆無というわけではないので。言うまでもないが、市政自体の瞬間消費的な娯楽への過剰出費はお話にならないとして。

しかしながら雇用の面、また仕事の面で知的啓発の度合いと多く所得は比例すると考えられ、要するに「よい教育をうけた者はよい所得にいたる」連鎖反応が底流としてある。しかし、よい所得があればよい教育をうけるとは限らない。

だから、域内所得の向上へ決定的な必要条件なのはその地域での教養環境の高さなのだ。これが全ての前提にある。その後、よい所得が多くの場合 連鎖してくるものなのだ。
仮に域内所得の高い、しかし教養環境の低い場所に一人二人まれに金持ちがいたとしよう。かれらが二三世代のちにそうでありつづけられる可能性は非常に低いのが十分予想できる。逆もしかり。
要するに
教養環境は高い域内所得の必要条件
かつ
高い域内所得は教養環境の十分条件
ゆえに
教養環境と高い域内所得は教養と所得との善循環の必要十分条件

 こう考えれば、図書館の設備投資をケチるのは最低最悪のやりくちだと分かる。それは貧困の連鎖につながりこそすれ、すこしも徳がないどう仕様もない劣等生を時が経つほどふやすばかりである。
人口密度をあげようとする市長の判断は、これらをよめば100%誤りだと断言できよう。きわめて単純に人口密度増大は総税収増、という目論みがあるのだろうが、不幸や貧困の連鎖とひきかえであるのを自覚しておられるのであろうか。いやはや独裁者風な暴利の悪意としかおもわれませんね。市が繁栄するのは人口数によってではなく、文明度によってなのである。
鴎にすら悟られている。それより図書館設備と奉仕の充実や、息抜き用に運動場や校庭の全面解放と無償の整備(勿論、民生員などへの税の再分配とかで)を率先行うがいい。なにより市の為に。

あと、ここ最近保健センターの裏手というかあの市民運動場へ抜ける道路の汚れかたがまことにひどい。上述の居場所以外で育てられたトラック運ちゃん共がおバカすぎ、ぽいぽいつぎつぎごみをすててなんとも感じていない。罰金制にし、かれらの毎朝毎晩の現行犯で一人あたま数万円ずつ徴税したらそれらの用費もすぐまかなえるに違いない。通学路なのに。こういうわけで人口密度イコール幸福でもないのがわかろうというもの。かれらが大金持ちならなおさら。
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by smartestone | 2011-02-18 00:10 | 経済 | Trackback | Comments(0)

科学の伝承

この地域でもっとも重要なのは、「高い学力を与える」こと、特に科学へ集約させることだろう。

なぜならそれが最大の弱点なのが明らかなので。科学的な褒章へはどれだけ先駆けてもよいといえる。

(不足分の)医術師の総量も当然 基礎には科学がある。自然科学を習いとること、それを通して自然への理解を深めるのが第一に必要。放っておくと暴走とかしだす、そんな亜種は手を焼いてもあまり効果がない。亜種への教育も程度問題だ。

市内で規定の時間だけ学習した証拠となる履修期間を与え、正式に認可をうければ大学卒業、或いは教えているひとたちの会議決定で修士や博士という学歴は公式に与え得るが、決定的なのは「学力水準」と忘れてはいけない。*1
学歴そのものは符号にすぎず、昔のスコラ学者じゃないが時代趨勢に左右されていくらでも偏るわけで、実際あやしげな新設や既設大学がおおくなって学歴そのものは汎用価値化(つまり価格低下)してきており、しかも大学教育というのは文科省規定の学習指導要項がないのでなにを教えているか不明すぎなかみが厳密に伴うわけがない。
学位製造機みたいなヤユ語もある。日本の大学なぞはさらに入学時点でしか淘汰をはからせないのでなおさらおわっている場合が殆どであり、高い偏差値の有名大学ほど浮かれて遊び歩くので状況は中堅よりひどいともいえる。低い方の偏差値の大学も自暴自棄者や卑屈者、そもそも勉強に全然向いてない血統の新入生が多いので逆に似ているかもだが。
肩書がいくら高かろうと「実証できる真理のわかりかた、知識量」などの獲得程度とは必ずしも比例しない。つまりハーバード大学院博士号取得です、ケンブリッジ大のルーカス教授職です、東大名誉教授です、これらの体面にかまってはいけない。というか構うひまはない。

 決定的に重要なのは『真理を知る』こと。これさえ押さえれば他はどうでもよい。古今の大科学者らがはじめは無名で無称号の平民から現在にしられる知力を獲得し、伝承してきたのをみよ。
 この真理を、つまりは実験で検証できる比較的確かな知識量をできるかぎり多くの在来市民に伝えるのが何より、この市を選良化する方策。

くりかえすが、今のところ知識は後天的にしか獲得できないものであり、学歴はいうまでもない。暴走族の息子が大学者にもなりえるし、大学者の息子が馬鹿にもゼンゼンなりえる。それらの遺伝はない。あるのは少しの生まれついたあたまのできの差と、そして教育環境だけだ(孟母三遷)。
厳格にいえば『知能変異』といえる個人の特性をえり好みしてのこしていくのが、本質的な学界の目標だといえよう。応用技術はこの学界の目標へのっかった世界。
で学問による競走は、それによって優秀さを示し、人々の尊敬をうけて少しでもあたまのよい変異をのこそうとする意図だと定義できよう。

なぜそんな淘汰がおこるかいえば、あたまのよいひとの築く社会はばかもののそれよりましだ、という経験則から。道徳の程度は総合した知識量と比例するもの(要は道を比較検討できる「教養の程度」)だから、学歴へのえり好みなんかも、科挙種の形成にしかつながらない誤った道だとしてもまったくない段階よりは進んだ、中間的な社会選好の状態らしいと考えられる。
いまの先進国の大部分は(符号しかおもたる目安がない移民国の)アメリカのせいもありこの段階にあるが、いずれは脱却する。なぜなら以前書いたが学歴は擬態されれば終わりシステムだからだ。この学歴擬態が起きた時点でそれが知性の第一等の目安になった日はおわっている。*2
実際にはアメリカでも親の縁故とかで普通に名門校へ入学できたり、日本こそは特殊なガラパゴス暗記科目だらけで大学受験予備校の院化しており、どちらにせよ形骸化は進んでいる。イギリスに限っては伝統的階級社会ごと学歴と能力の一般な比例関係やその固定の合理な意味は温存してるみたいだが。

金の偏りとそれに応じた階級再生産が起きたらいまでいう学歴社会には戦前戦後に担っていた意義がもうない。地位とかかわりない出世手段としての福沢的実学概念はその時点で空疎となったのだから。*3

 私、鴎がしるのは結局、もっとも重んじられるべきは能力そのものと。知力も含め。
肩書をえる特殊能力というものもあるのだろうが(少なくとも王侯貴族にはそれしか人生がない。位を飾る箔しか目的はないので)、それへのえり好みは能力とは無関係なうわべな才能の特殊化にすぎない以上、いずれは「実力派」に淘汰されてしまう。

んで日本がイギリスと違うなら、高い学歴への過程が科挙の遺風によって歪んでいることだ。もし科挙的な擬態制度の色彩が払拭されれば、選良をつくる組織としての教育はなりたつだろう。しかし、イギリスのわるいかあまりすぐれてもない点である‘階級の固定化’は、かれらの中に能力そのもの以外(つまり家柄や血統)への選好があることで緩和されているとはいえこっちがまねてはいけない。
僻地では社会内流動性の致命的な低さはさまざまな奇形化につながりかねない。
だから、自分としては学歴階級ではなく能力そのものへの階級化、或いは特別選抜を施せというたちばに就く。高い能力者への差別の一切を撤廃せよ。もし高い能力を示せばかれらが想定といくらか異なる出自でも優遇せよ。かつ、雇用し、積極的に文化素や市民血統にとりいれよ。
 イギリス側は伝統にのっとりうまれついての階級の固定を信じるだろうが、我々がもし能力そのものへの優遇をはじめれば、うまれついての選良をすぐれた能力をも含むものにすることもできるだろう。ものすごく簡単にいえば、「出よりも力を問え」ということ。なぜなら異系配偶の方が強壮化し易いのだから。
もし先祖の形質(文化のそれをも含む)がのちの世代に予想外な表れかたをしても、まったく同一の系統からのみとりこまれた系統よりは生存確率が高まるのが否めない。すなわち、社会構造をあまりに学歴へ固定しすぎない方がいい。

だから市内企業や政府が学歴差別を施すよりも、むしろ実施検査や血統としての先祖の精査で人材を選抜した方がすぐれた結果になる。極論すれば競争馬をえらぶのと同じ手順が最もよい。
そうすれば学歴と雇用費(固定費の最大の源である)だけムダにたかい駄馬をつかまされることはなくなる。

ーーー
*1 勿論学歴社会とよばれる場面につながる雇用差別そのものが完全に禁止されたり崩壊しきったのではないかぎり、統計的偏差値にもとづく特定の学習歴への選好は中庸的にはつづく。しかし、機会費用のほうが高くつきだしているいまでは、学歴主義そのままの教育はぜんぜん賢くない。
そうではなく、学歴獲得への誘引については個々へほどほどにさせておき、本質的な能力、快活な社交力であれその基本にある研究された知識量であれ、能力そのものへの励ましが優先。
たとえば企業や政府に採用されることが人生の目的なら多様な社交界がある場所で育つ方がよい。だから大都会で、しかもできるかぎり様々な人間関係にめぐまれる最大多様な機会のもとでまなんだ方が多分にいい。しかし、研究者については関係ない。この違いを忘れてはいけない。
で、この地域では都心部にくらべれば大規模な社交界づくりよりも地味な研究者づくりの方がどっちかといえば向いていると自分は思う。実際、研究所の内製は先進国内経済の前提となりつつあるのでそういうたちの需要はあるし増えてくる。社交さの方への誘因づけは程々にしておくがいい。
この市は狭く、人口は縮小する(その方が市民の総合的な幸福度向上にとってもよい)のだし、都心の情報は勝手に入ってくる距離なのでむしろ巧みなフィルタリングが優先。

*2 最適化された擬態の才能は自己目的化し、いわゆる僻習や陋習、因習となりかえって習性として足手まといになる。その偏見がねづく当社会外では通らないので。つまり同類の中で最高の評価は必ずしも最高の才能の証拠ではない(無数の客観評価の方が正しい事が多い。)
冗談ではあるけど、人類自身もそれに入るかもだが。鴎界の話。

*3 哲学文脈的にいえばプラグマティズムの輸入は今日において骸と化し、かえって社会的流動性や適材適所の妨げとなりつつあるかなってしまっている。故に「プラグマティズムの脱構築」としての新たな功利主義が求まれ、それは人材が遺伝した能力を厳密にえり抜く、既存の社会体制とは別の体系なはず。
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by smartestone | 2011-02-16 05:57 | 経済 | Trackback | Comments(0)

とどけられる無線のあみ

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観光拠点に無料LANを=空港、自治体に整備要請―観光庁

時事通信 2月14日(月)15時38分配信
 観光庁は14日までに、成田や羽田といった主要空港をはじめ港湾、観光案内所を持つ地方自治体などに対し、無料で利用できる無線LAN(構内情報通信網)を整備するよう要請を始めた。主に訪日外国人観光客の利便性を高めることで、外国人観光客の増加につなげるのが狙い。また、要請を通じ国内の観光拠点へ無料の無線LAN整備を進める。
 スマートフォン(多機能携帯電話)に代表される携帯型端末の普及が進む中、世界各国の空港などでは無線LANによるインターネット接続サービスの無料化が進んでいる。しかし、日本では未整備か、整備されていても有料のケースが多く、外国人観光客からの不満が強いという。そこで、観光庁は無線LANの整備が不可欠と判断した。
 対象は羽田、成田、関西国際など主要空港の国際線ターミナルをはじめ博多、下関、大阪の各港湾の旅客ターミナルや外国人の利用が多い観光案内所の合計約 110カ所。既に整備している施設に対しても、利用エリアの拡大や外国人に分かりやすい表示に改善するといった対策を講じるよう要請。特に他の空港に比べて取り組みが遅れている成田には、早期の改善を求めている。 

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ということで、もうすこし「待つ」方が合理的かも。たぶん、ネットのときと同じ。おそらく図書館へのみ、自力で整備するくらいが財政からもかしこい。
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by smartestone | 2011-02-14 20:51 | 政治 | Trackback | Comments(0)