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北国と南国の気質差

先ず
1.団塊には自由主義者が多い
2.引きこもりの自由も尊重されねばならない
よって
3.華川町で起きた事件への3年求刑は短いのではないか?
さらに、
4.なぜ被告人は引きこもりの自由が尊重される社会への働きかけを怠ったか?

これらを通してみて、団塊の世代の殆どは商形質をかたよって尊重しすぎており、それはおそらく福沢諭吉の重商主義にのせられたままの潮流ということだろう。福沢自身が九州の出身で大阪育ちだから南国気質をもっているのをさしひいてもだ。
出づっぱりというのが反対語だが、この気質は必ずしも万能でもないし決して全世界の普通でもなければ、倫理的・文化的・学術的に有能な証ですらない。あした全地球に大氷河期がきたらこの姿はほぼすべて絶滅が決まる。
 例えばニュートンもケプラーも、殆どの研究者の気質はどちらかといえば、或いは極端に内向的と言っていい。特に孤独型の学者にこの気質は一層つよい。
勿論これらは社会的有用さを伴った引きこもりの姿だったといえるが、そうでない者も無数にありえる。と同時に、完全に社会へは害しかあたえない出づっぱりの数もしれない。例えば日立市街地あたりにもここ数年なのか、南方や朝鮮からのアジア人の流入増大に伴うのかもしれない陸でなしの女が、異様な接待費を要求する倫理的にも公共にも習俗にさえ悪影響の飲み屋が出現している(しかし、経営しているのは大抵やくざ絡みの陸でなし男だから背後には陸でなし連合があるわけだ)。

要は「外向的・内向的の別でその形質を評価しえない」。
一般論として、北国(又は南極に近い極方国)は外界が厳しい寒さで、引きこもり気質の方が普通であり、そうでないといきのこりえない。たとえば北欧フィンランドなどをみると、家の内部はすばらしく充実をしていて炉端に蔵書やピアノ、絵画と備品もしつらえも豊富であり、かわりに外観は簡素でただの箱のごとく一様に表情をもたない。室内で長い時間をすごすのに適応している文化だと理解しえる。
 逆に、熱帯に近い台湾では子供ですら道端の屋台の隅で勉強している。ハワイでは木の実をとり木陰でそれを吸って休んでいる。砂漠では熱い地面へ筵をひいてアッラーの神へ額を地へおしつけてお祈りしている。
事実上、この行動は北国では実行もできない。そして福沢諭吉が幕末に扇動したのは彼が将軍門閥の絶対主義を覆すという野心から、できるかぎり自らの南国気質へひきつけた欧米の、特に英文の書物の意訳だった。これらの潮流が、GHQが去ってからの進路へも援用されてきたふしがある。

 しかし、自分がみたところ日本で起こった小さな反乱とおなじ少数の例外をのぞけば、全地球的には寒冷圏で生育したならわしの方が強壮な傾向がある。
人類史にみて、日本がロシアと戦争して予想外に勝ったこと、そして二度目の十字軍が頑強な抵抗のため西アジアで破れたこと、おもにこの二つの事例しかまれな例外はないとおもえる。それさえ巨視的にみれば、北方出身のアングロサクソンとラテン、ユダヤ民族がほかの地域を信仰流布という名目で侵攻し支配していった流れに含まれるだろう。
特に著しいのがカナダ・アメリカ・オーストラリアという大陸をそこのnativeを駆逐してさえ支配してしまったアングロサクソンの繁栄といえる。日本は辛うじてその既存の同種性の偏在した(つまり黄色で総じて背丈の小さく、文化的には日本語をおもにつかう)民族構成を保ったとはいえるが、かなりの劣勢にあったしいまもそうなのがあやまりない。
 これらをとっても、自由主義、liberalismが本当に摂取されるならどちらかといえば引きこもりの気質は尊重されるべきではないか。分業の一般的効果からいっても、つよい内向性を特定の学識や技術といった才能へ昇華できた個人の出現を担保できるのがその最高の利点ではないかと考えられる。
また、自由主義には以下の類型がある。
       自由意志否定論 自由意志論
決定論者  強い決定論   同胞主義
否決定論者 弱い決定論   勝手主義
ここでいう勝手主義に属する自由主義者だけが、無目的なだけ自由の価値を尊重しているわけだが、プロテスタンティズムの様に強い決定論に属した考えでさえ全面的ではない社会的寛容を有用と認めている。つまり団塊のもっている同胞主義(おそらく国家神道への信仰体系や、ナショナリズムが分化していきのびたもの)がほかの類型に属した自由主義者を弾圧や軽視しても、結局それも「一定の自由」を重要な進展の余地としてのこそうとするところは共通しているわけだ。
 考えてもみればわかるが、最も公害の少ない人口比率の調整策になる引きこもりの形質を無下に弾圧や圧制を加えたがる団塊の老人の目的は何だろうか? ひとことでいえば金ではないか。金目的で子孫を殺す。これは蛮人のふるまい、チンパンジーとかわらない退行といわざるをえない。どこでその内向的かつ特殊な性質をもつ若い人物が人類を救ったかもしれはしないのだ。生殺与奪の権り;はかり を成人後の人間へ親がもつ、というのはたとえ扶養義務をかえりみてさえ大幅なあやまりなのがまちがいない。

 金さえあれば上位にかなう生態や有用なまたは希少な人種がえられるわけではない。共通尺度をともなう信用貨幣の秩序は、単に当時の文明圏で人々がもっていた欲望のはかりになるにすぎない。だからこれらの経済社会ならびに一切の商行為さえ、すべて人類または人種の道具でありその平均した目安としての意味しかもたないと認識されるを得る。
人間が商売につかわれる、とはまさに本末転倒というほかない混乱であり倒逆。実際に、彼らのくらしを便利にするための相利行為の体系としての商業の副産物である搾取量やその結果としての資産は、どれかの気質への偏向した貢献のためではなく、人類の分業制の強化のため、つまり自由にともなう各個性の形質か姿の保持と発展のためのさらなる蓄えで手だてでしかない。
要はこれらのどれをかえりみても、未来のある若い成人を、その自由を破壊して殺害したことは重い罪に該当する。
全く金と違和した生態は単に商業界での淘汰にしか関係しない以上、相続権のある成人男性をその他の人物よりも疎んじる理由は皆無といわざるをえず、今度の属託殺人として判定された事件は単に「責任能力のある老人の刑法犯罪」として情状の余地はないはずだ。

たとえば同等の立場の女性がいても、その老人は殺害を企てたか? この時点で現金勘定にもとづいてのこりすくない老後の利己心から成人男性を殺害したのだから、この人物は3年後に社会へでてきても、語弊がなければおそらくその妻と「楽な」余生を送りかねない。結論をいえばその老人の金への執着は命よりも重かった点で、ほかのどの猟奇犯ともかわらない。
 最も妥当なのは、一家がさらなる北国へ引っ越す事だったのではないか? 青森や北海道、北欧までいけば、一年中家にこもっている人間などそうめずらしくもないし、福祉の充実した北欧では一旦定住をきめれば老人も若者もひとしく税収から介護と医療と教育をうけられる。この北茨城圏は半分が温帯に入っており、そこまで極端な寒冷の土地ではなかったため外出もある程度用意な気候からの誘因があるので、また南方の文化からきた判断がいくらか入り込む余地があったのだろう(にもかかわらず、ここはどちらかといえば全地球的にみて北国なのだが。よって自分の様な内省重視からの気質擁護も十分なりたつ)。
或いは推測ではかれら自身が南方からの種族かその文化ふくむ混血だったとして、別に屋外活動のみが商業でもなかろうに社会的行為に混乱をきたし、出づっぱりでなければ生き延びる意味をもたないとその老人は勘違いしたのだろう。障害者手帳をえられない軽度のそれでも室内でできる仕事など無数に存在するだろうし、これが現時点での共通貨幣と交換されるかは(法的・倫理的・社会的に)特に問題でもなければ、どちらかといえば無産世帯は自動的に淘汰されるのだからこの当分の無用さは平地の支配で地域の人口密度をさげてくれる用をもっていたのだが。過密か過疎かでいえば、過密への動機づけをもたない地方は商業的有用人口をさほどえりごのまないとして。
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by smartestone | 2011-08-30 23:16 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

出し抜く人々

いつものことだが、こうして(http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20110730ddlk35040408000c.html?inb=yt 、下に引用あり)イギリスへ留学させてできるだけ日本の中央国政をだしぬこうとする業が山口県という列島の極西にはある。
 この人たちは幕末に内政においてクーデター兼テロリズムをし、その無益な殺傷をしたことを少しも反省していなければ、むしろ誇りに思っている。この「驕り」があるかぎり、いつか彼らには報いがくる。それにもかかわらず、これらの不正な業を平気で為す人たちに負けているのは少しも賢明ではない。大幅に勝ち越して相手を土俵から放り出す必要がある。
 これらの人たちより先端的な留学を戦勝国のどこか、よりよい場所へ行う必要がある。この萩市という所は、恒常的に裏切りを画策しているふしがある。すべての条件が(特に、家康公がその僻地への国替えをした時代から)その為に特化されている。つねに監視と、その批判的出し抜きがいる地域なのがまちがいない。

彼らに公徳心というものは大きく欠けているか、奇形化されている(倒幕運動、及び幕末史に於けるテロリズム、その他のアジア侵略・政商活動を参照)が、常に部分最適化して日本国本体とは違う運動を画策し、可能な限りその野心をまっとうしたがる。菅直人の行動原理も、彼は宇部市出身ではあるが、かなりその類型を引きずったものだったことからこの特徴的性格も理解できる。
 我々にとって危険なのは、彼らの拙速な暴威を「あたかも日本の総意」かの如く偽装されると、明治テロリズムの時の如くその悪禍を我々もこうむるという点にある。なぜ家康公が彼らの排斥をはかったか、もこの特徴的性格、おそらくひねくれているか狼子野心への気づきにあったのだろう。これは鹿児島の系譜、または実際にある程度の圧力をくわえた京都付近の人々、そして同様に僻地である高知県あたりにも内在している性向だった。

彼らの行動のさらに上をいくには、この市でもイギリスのオックスブリッジ系または秀でたパブリックスクールに選良か大勢を恒常的に留学させるべきだ。最低でもそれくらいやらないと彼らはさらに日本を出し抜く行動をしてくる、今後とも。


引用~~~

山口

英国語学研修:“長州ファイブ”が抱負 /山口

 萩市の中学3年生5人を英国に送り出す「長州ファイブジュニア英国語学研修」の出発式が28日、同市堀内の萩博物館であった。29日から8月13日までの16日間、ロンドン大学のサマースクールで他国の学生たちと学ぶ。

 幕末に長州藩の伊藤俊輔(博文)ら5人(長州ファイブ)の若者が新しい国づくりを求めて英国に密航、国の基礎を築いた歴史がある。市は、国際的視野を持った次世代を担う中学生を対象に、語学研修と長州ファイブの志や足跡を訪ねるため派遣しており、今年が5回目。

 出発式では、中村哲夫教育長が「毎日が非日常で驚きの連続と思う。その驚きがエネルギーになる」と激励。5人がそれぞれ決意表明。椿東中3年、小松陸さん(15)は「文化の違いや、当時の長州ファイブがどんな志を持って歩いたかを学んできたい」などと述べた。

〔山口版〕

毎日新聞 2011年7月30日 地方版

~~~引用終り
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by smartestone | 2011-08-26 23:58 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

水戸以北と教養主義

北茨城あたりで重要なのは、進歩的先進的な学術をよりつよめてつかわすこと。この命題は「人口数」での劣位を個々の所得でおぎなってあまりある手立てとして説明される。

 しかし、高萩市はいうまでもなく日立市やいわき市などとこの命題はかなり共通しているのではないか。地方から流出して都心へあつまってしまう若年人口、というのが基本的な課題としてすべての地方都市にある。
 かつ、少なくともいまの東京都知事の様に過密人口や集積のいきすぎからくる弊害にある程度自覚している者もいる。さらには、この常磐圏でも、例えば現状でいう中国地方の日本海側(山陰道)とか東北地方の日本海側とかよりは過疎さに於いて随分ましな状況にあるともいえるか。

こうして、地域のかかえる社会のばの展望はそれぞれ微妙にことなりながら、場合によっては似たものをもってもいる。
 よって、ある似た利害をともなう地域では行政の分業よりも、おそらくある程度の協調性が有効になりもする。こうして、特に東京都への敵対心や野心から愛知県とか近畿地方(具体的には京阪神の三都市圏)が道州制度とか関西広域連合とかいいだしていたし、後者へは実現してしまったわけ。つまり根っからそれらは権勢欲の顕れといえる。

 総合としてみると、これらのみなもとには太平洋戦後からの世代論でもあるだろうが「経済成長」というkey wordに象徴されるできるだけアジアで覇をはろうとする意欲が在来の日本人、特に幕末以来、倒幕開国側についた西の諸民俗にはありそうだ。
 例えば伊藤博文を批判する声は、むかし長州藩・いま山口県のなかにはほとんどゼロではないか。かわりにユニクロはかれらにとって、東京都に匹敵する企業としてはおそらく誇りではないか(久原財閥への姿勢をかえりみれば)。この種のかたよりは彼らの中からは是正されがたく、そのegoismは資本主義経済のしくみとしてかなりのあいだ肯定されていくはず(少なくともかれらが有利なあいだ)。

この根本義といおうかideologieの源の一つは、この市に重要な関わりのあった岡倉天心の掛け声の政治転用かも。「アジアは一つ」という言葉が行政に、又は商売につかわれると岡倉自身の思想とはズレて、それがあたかもアジアの覇者を当然視する旧来の「日本」思想とかさねあわせてみられる傾向があった。

 しかし、岡倉自身は単に美術、というか技が遠く極東の島までつたわってここが戦乱にまきこまれづらい特殊な孤立の条件のために博物館の様に、すでに大陸でうみだされ失われていった多くの過去の様式をためこんでいる、という観察をそのsloganとしてまとめたにすぎない。
具体的には法隆寺の伽藍の柱のエンタシスとよばれる古代ギリシア由来のふくらみとか(これは花園神社なんかにもみられるわけだ)、水墨画をつたえてきた雪村雪舟などの留学組の古きよき仕事とか、そういうものを西洋美術とはちがう立場で保全していたこと自体、アジア美術の貯蔵庫として希少価値がある、と言っている。なにもアジアで覇を張れとはいっていないから、それはいきすぎであり、むしろ福沢諭吉の様な幕末の外様系下士の深くにあった成り上がりの野望でしかないわけだ。

なにがいいたいかといえば、文化や学術の高下を競うことは一般に(*1)他の地域からの尊敬や見習いをあつめやすい。そしてこの教養と呼ばれ得るだろう能力へのえり抜きが、人口面で衰亡に面した地方社会では最も有益だろうということ。それは、決して‘行政権’や‘商業圏’とかかわりあるideaではない。
 所得と教養の程は必ずしも比例しない、という指摘へは個別ではそうでない例もしばし偶然の機会や特殊な条件(*2)のためにありえるが、統計的かつ巨視的には人口あたりこれは必ず比例している。西洋諸国とアジア諸国の「国民所得:National Income:NI」をくらべれば。
ただ、残念といおうかある偶奇といおうか、近代文明の国家同士は全体とみて人口密度と国民所得は反比例する傾向にある。(つまり貧しい人は人口密度の高い国にくらしている傾向があり、富める人はその逆)。

要は、「人口密度の低さを利点にかえるには、個々の成員の質をあげるために総力をあげて教養を高めさせろ」となる。この命題を実行するためにさえ基礎的理解力がいるというのが難しい冗談みたいな矛盾で、したがって実際にそれができるのは、おそらく有能というか希有な指導者の出現率にかかっている一部ではないか。
 藤原正彦氏が危険思想家なのでまず疑うべきはまちがいないが、『国家の品格』で天才論をぶちあげていたのはいくらか先覚があったろう。この種の突然変異に啓蒙の効果がかなり依存する、というのが歴史にみた格差の真相ではないかとおもえる(*3)。ガリレオやアインシュタインが社会の悪条件のために潰されていれば、近代化を欧米が先駆けた確率も随分低まっていった。かれらが平賀源内の様ななかば無下にされたとりあつかいをうけていれば、とかんがえればなぜ近代の日本があれほど後進の屈辱をへたかも瞭然とする。それは個性を殺すのをよしとした群淘汰からの圧力の強すぎさにあったのだろう。
だから少なくとも常陸圏では、天才・秀才・能才(*4)の出現をできるかぎり最大限にとうとぶ必要がある。おそらく最もこのために有益なのは、褒賞・授賞といった制度だろう。これらが厳密な意味で天才をよぶことはきわめて少ないが(geniusは大抵が同時代の理解の限界をこえているものだから、とおく次世代になってはじめて評価がついてきたことが多い)、最低でも衆目の秀才以上をえらぶ事ができるのは確か。
 そして本質でいえば個人主義の定着が、よりかみ砕いていえば「人それぞれの徹底」がこれらの分業のための専門的特徴を一般的能力よりもとうとぶ習俗として地域をならしていく。

 と同時に、負の天性は大犯罪者とか悪党とか独裁者とかよばれることが多いが、この罰則に気を払う必要がいくらかある。実績はほとんどあげず、政局を優先して4か月被災地を放置した菅直人などはこの種の姿の原質だろう。さらに血が濃くなって源太郎という息子を似た行政に携わらせたがっているが、これらは「罰則」のゆるみを利用してでてきているtypeだと認識していい(*5)。
 だから少なくとも市政、そして通常の県政の範囲で、あるいは関東圏をこえてできれば県北か常磐一帯の自治法の域で、負の個性へは罰則を強化すべきだ。公共福祉に背く個性はどんな些細な偏向でも厳しく罰をあたえるとりしまりがいる。勿論、ガリレオ裁判の前例をとれば言論の自由・思想の自由といった少数者の人権を守る法益が前提として。

―――
*1
あいての妨害という消極的競争さえしなければ。但し、社会生物学からひけばこの妨害そのものが定式というか常識化される生態もある。
しかし、一般にこの妨害工作は「人を呪わば穴二つ」といわれる様、その為に費やされる労力をさしひいてなお生態のmeritとなるときしか維持されないだろう。
妨害行動の維持される条件:妨害cost<生態merit←妨害cost=生態cost
<:よりおおきい
←:ただし
=:ひとしい
しかもこの適所か特殊な類型への適応は、妨害にかかる費用が高くなりすぎると同時に生態のための過剰な費用として(特にいわゆるrunaway processがはたらいて加速度的にこの意地悪な能力傾向が遺伝子のうえで過剰になっていくと)、ほかの適所への再進出を不可能または困難にしてしまうだろう。我々が僻地でおきる奇形化の前兆として、妨害工作をみるのは基本的には正しいとおもわれる。
 尤も、全くそれがない生態というのも考えづらいわけだが。例えば人類社会で犯罪とか嫌がらせとか極端なとき虐めとか、こういう意地悪が皆無の場がそれほど多くないと理解できよう。と同時にこの種の意地悪種が嫌われたり、必ずしも好かれず、また悪役という名義やレッテルをもつのもわかる。彼らの性格がそれ自体として選択される機会は、およそ「ただ乗り」の個体数の出現率に比例するのだろう。なぜならこの個体群を利用して意地悪によって生じる‘できる個体群’の不利益を横流ししてもらう、というのが妨害工作の本質なのだろうから。さもなければ、自らにさえ不利でしかない妨害が異性間であれ社会間であれ選択される余地はまずない。
 こうして「ただ乗り」を社会にうむのは、それ単体として不合理なばかりかめぐりめぐって意地悪な種をそだててしまう可能性がある。しかし、ただ乗りができる余地を社会や生態がどこかに介在させているかぎり、この性悪な個体群はつねに一定数いつづけるだろう。この推論は、なぜ人類があれほど世界宗教や法的罰則で注意をよびさましつづけてきたにもかかわらず、悪さとそれを頻繁にしてしまう悪者が皆無にならなかったかを説明していそう。要するに、原因として「ただ乗り」が社会のつくりとして生じる瞬間、悪の芽が生えたのとひとしい。だから積極的には「ただ乗り」がしえない社会構造をつくりなおすのがよりすぐれた個体をはぐくむにはつねに有益にして有徳なのだろう。

*2
ただし大都市圏へはこのかぎりではない。つまり大都市圏では例外として、所得と教養が正比例しない。
訳は、おそらく商圏の中枢にあるため高い消費が前提とされる生活と地価ならびに物価の高さのため。これは生活程度と比例しないのに注意がいる。過密な商業都市条件は所得による人口扶養力を相殺する。

*3
では何が才能をはぐくむか。これはめずらしさに関するかぎりは異系配偶の正の効果(つまり公共福利についての遺伝的選抜)に、ほか単なる基本能力へは習性にともなう同性間社会競合的かつ異性的選択の効果によるだろう。
特に最後の効果はアメリカなどでは同性婚という自然繁殖不能な例外がみられるが、それですら性別が役割分業の効用にもとづいて要請する才覚をのばす社会的誇示の為に浮動した姿にすぎないはず。結局、「男らしさ」「女らしさ」が何らかの類型をともなって連続的に遺伝選好につながる恒常さが最も長期にわたり基本的な天性への傾向をつける。なぜなら少数派は変化をつけることはあっても標本の母体数になりはしないのだから、それらのcoupleの質は多数派を占め得る条件外ではただの社会的誇示、多くは反逆や反抗を伴って個人生活に埋没するための、となる。
 だからひとことでいうと、習性のよさ、をふくむめずらしい異性とのつきあい、がその地域でとうとばれることこそ素晴らしい。くわしい習性のよしあしはおよそ社会のもつ趣味の問いだろう。我々がうわさによってひろくおこなっている各家庭やその血統への選別や評価はこれに該当するために、仮にその個人差の守秘性をいくらか見透かす部分があったにせよ(これはprivacy権と時にくいちがいをきたすので厳密な意味では「おもいやり」や「倫理的限度」に伴う個人の自由に属する行為だが)、社会からの淘汰の力としては少なくとも善い趣味についてのそれは有益といわざるをえない。
高い趣味が重要とは、交際に関するかぎり真だろう。それが劣るばあい、負の才能、つまり人類やかれらをとりまく諸生態へ悪影響をおよぼす才能へもえらばれる余地を与えてしまうことになる。だから我々がもっている「批評:critic」の能力は、もし定住にともなうかなり共通の利害集団との社会淘汰という意味でなら飽くまで有用となるだろう。
 例えばこれがさほど機能しなくなった‘隣は何をする人ぞ’な大都市圏とか、あまりにひろい大陸やひさしい交通の要所のため同じ住民や同じidentityの個性への評価がなりたたなくなった居場所よりも、規模の功利かその他の個人特定の工夫で趣味へのえらびがはたらきつづける所での方がいい才能が羽含まれ易いだろう。
北茨城市でいえば天心記念美術館や、市美術展などはすでにあるこの繰り返しはたらく趣味へのえらびにつながるよい機能といえる。同様のしくみを、社会にひろく至らせるといい。投稿された俳句を実名で公開していき(有償無償で)報償するとかもこの一つだし、市民栄誉賞みたいなものを複数もうける、あるいは市内在住者か関係者についての雨情記念賞みたいなしくみで童謡その他の学術文化のよき発展へ寄与した証拠をとりあげるなども。
そしてさらに有効なのは、できるかぎりひろい交際をともなって趣味を選択していくということにあるはずだ。4万人に出現するtypeは40億人の中のそれよりすぐれている事がまれだろう。
したがってこの対象者の選考は(定住にともなう社会効果がみられなければ無意味だから、市内に関係か少なくとも定着した記録とひきかえになるとしても)ひろく世界から行うとよりよいだろう。

*4
これらは漱石『文学論』の才能の分類による。能才とは時代を機敏によむ能力の才のことで、生まれつきの天性とか、学習のよさとかとも異質とされている。いわゆる現代語でタレント:talentというのがこれだろう。

*5
その程度のひどい公共心の欠如は、少なくとも利他系の政治社会で長続きできない為に遠からずsect化してさらなる災いのたねとなりそうだ。監視や、場合によっては我々の地域からの排斥か厳罰、又は(危険な策だが、少なくとも一時的)懐柔がいるとおもえる点。
 菅一族のtypeが政治界ではいずれ除去される、というのは疑いがたい。国民を犠牲に肥え太る、そしてその責任を転化する、という能力は独裁者の型だから。しかし、それまでは少なくとも日本という単位ではこの形質が猛威をふるう域で災厄がひろがる、とはいえるだろう。
例えばヒトラーはよく独裁者の典型としていわれるが、彼がドイツ国民へ与えた利益とひきかえに、ユダヤ人への虐待と敗戦でかれらは国際的汚名をこうむった。或いは昭和天皇も形式上で同じ。彼らの行いはアングロサクソンや他のヨーロッパのラテン系民族の植民侵略の非人道さをあばきたてた。
ところが、原理としてみれば日本とドイツの後進さが人道の罪について負担のおしつけがわりにされた、ということだ。さらにいえばよりうまいやり方で、傷つかずに植民侵略の中にひそんだ非人道を断罪できたはずなのだからこの役割のただならぬ損失は単に劣った指導者の失敗というしかない。
要は独裁の気質(と、それへの選択のなれ)はこの行政上の意志決定の遅れを及ぼす為に不幸の源なのだ。究極でいえば、君主あるいは王と独裁者あるいは僭主の違いは「公共心」が「利己心」よりつよく大きいかどうかだ。
公共心>利己心→王
公共心<利己心→独裁者
>:よりおおきい
<:よりちいさい
→:ならば
この公共心には利他心が含まれ、しかも最大限の他者にとっての利害が可能なかぎり平等に含まれる事を要する。
 ドイツと日本の君主がともに敗退したのは、特にかれらが自民族中心主義を高揚させ(さらにいえば昭和天皇の末裔自身は様々な断片から否定したがるだろうが、帝国憲法にさえ日本民族という概念が国家神道という特定宗教とむすびつけられてあるのだから通らない)、ほかの民族体との連携をうしなう事になったのにもかなり依存しているとおもわれる。少数派単体での奮闘でなしえる政治などかなり限られてくるし、基本的にはクーデターのかたちをとるしかない(例えば幕末の薩長土肥と特定公家の連携)。こうして長期にわたる行政圏の安定をえるには、単なる権力闘争上の覇権にともなった公共心の肝要がいるのだろう。
この才覚が欠けていながら小規模の権力闘争にのみ能力をもっている人物は、独裁者気質として悪評の源になるわけだ。我々はおとなりの民族からは目の敵にされている伊藤博文や昭和天皇、内政では古くは明智光秀に裏切られた織田信長や内乱で島流しになった後醍醐天皇をあげられるだろう。
政治家の評価には難しいというか常に完全ではなく時代柄により二分されえるところがあるが、長期間の評価は比較的安定していると仮定すると、公共心のよさを実際の権勢として発揮した彼らだけが名君となって評価が定着すると考えていいだろう。徳政に特徴ある水戸黄門や公平な裁決の松平春嶽の定評、例えばアメリカでいう独立宣言起草のジェファーソンや植民地状態のインドを消極的抵抗で独立させたガンジーへの評価はここからくる。
これらの気質差は、政治の才がもし選択されるなら権勢欲つまり野心自体へではなく、公共心を実践できるそれ(少なくとも公共心を伴った権力闘争の強さ)へのもののみが正しいのだろうと教える。ナポレオンやチャーチル、又はトルーマンや秀吉は見る側によって評価が完全に相殺されてしまう傾向をもつ。これらの権力闘争のみの才能(ここで「鬼才」と定義しよう)は、かなり長い目でみると多分、きわめて強い公共心を発揮できた才能のかげにかくれて見えないほどの光になるのだろう。比べて、強い公共心を実行にうつせた政治家は「英才」とよぼう。
 もし以上の推察が大枠ただしければ、後世、徳川慶喜やワシントンは英才として、西郷隆盛やブッシュは鬼才として評価されていく。この長い目、すなわち正史を見る目は英才育成へ最も必要な教養ではないか。(水戸学はその働きそのものが正しい。よって少なくとも政治の英才教育の為には伝統として維持すべき上等な風儀である)。
我々が例えば司馬遼太郎の小説史観を鵜呑みにしたり、このたぐいの紫式部からきている物語史観を信じ込むのはきわめてよくない習癖だとわかる。それらは娯楽したてにごまかして、史実とことなる伝承の脚色を通してあやまった偏見をあたえてしまうからだ。
自分がしるかぎり、西日本一帯と、特に近畿、そして東京都の皇族関係の居場所にこの風習がつよくある(おそらく司馬遼太郎と、紫式部の影響がとてもつよいのだろう。あるいは、もしそれらが正確なら、さらに平家物語のかたられたとされる鎌倉あたりにも、自分は見聞きしていないが実際に少しあるのかもしれない。且つ、まだ歴史的確証にはいたっていない文化史学だが、鎌倉文士というもののきっかけは、琵琶法師へ浪曲をおしえたのがもともと公卿間の卑劣な誹謗中傷の出世競争をおりた人物(信濃前司行長のちの行長入道)だった、と『徒然草』に記録がある:第二百二十六段。いわく些細な正誤の揚げ足取り(中国故事にいう「年頭月尾」に多少近い話で、7つの内5つまでしか暗記していなかったという部分をからかわれた。科挙の弊害か)、がその京都の風習からの離反の原因だった。それは哲学でいわば形式の止揚として、敗残者としての平家にあった勇猛の徳をあばく物語を、当時の片田舎であった鎌倉の武士側の古都から語らせたふしがある)。
これらは視野を狭窄にし、ある主観的偏見で歴史観をゆがめ、世界の常識や良識を別の奇形な風にかえてしまう習性で、決してすぐれた人生の態度ではない。
 最も根本では口語伝承にともなう女系の風儀なのだろう。しかし、我々はこれと少なくとも縁をきるべきだろう。歴史を冷たく静かにみかえせば、口承にたよっていた原住民はみな、文字伝承による正史をしっかりと理解できた文明民から結果として駆逐されたり実際に劣位に置かれたりしてきているし、今後もそうなるはずだから。日本語話者の少なさも、かれらの口承があまりに土着であるのに由来した奇風の為なのが確か。
 特に水戸のひとがつよくもっている(とされるし実際に、自分の非かもめな経験則としてその傾向が多大にある)「筋」を重く視る理屈の態度は、結局、長期間ではきわめてすぐれて正しい習性であり特徴となる。それを失うべきではなく、少なくとも地域の風儀としては強化すべきでしょう。この推論能力は学識をこえての転用にも十分な可能性がある。
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by smartestone | 2011-08-21 19:16 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

農直市場の再開拓の余地

長州市場なる試みをやりだしている人物あり。
http://chousyuu-ichiba.com/

つまり産直で都心へ農作物を輸出する、という手法。

 で、もしこれをより合理な姿で勝ち抜くには、物流とイメージ計略がポイントだろう。この人物のやり方は決してうまくないと思う。いまのうちなら出し抜ける。
 産直という姿でありつつ、特定のブランド名を冠して(たとえば雪印がメグミルク/MEGMILKという商標で挽回したごとく)まったくイメージをかえて、物流面でより有利な近場の常磐一帯の「検査証明書」のある格安品を、できるだけ消費地のまんなかにもちこむというやつ。

ただし、自分はある程度予想できるが北茨城市の既存の業者にこれがうまくできるとはすこしもおもえない。この人たちにはこの点での才覚が十分ではない。資本の蓄積量をみれば瞭然と。
 だからいざブランド名をふくむ販売計略をたくらむときには、たとえば佐藤可士和氏や糸井重里氏みたいにすでに実績のあるコピーライターを起用してその一切のブランドにかかわる憲章をできれば企業機密に近い形で制定・謀略する必要がある。この点、少なくとも外注が基本的に必然だろう。そのコツを学習するべきではあるが、やはり市場の情報と動向を敏感に察知するという才覚は天性にちかく、必ずしも努力のみで手に入るものではないだろう。だからその時点での抜群の才能のもちぬしと組むなら、福島県や栃木県、県南を含めて農協にでない規格外品のブランドづけした格安での消費地直売の稼業には展望がありえる。

某事業の不利な点は遠すぎて物流費用が嵩むうえ、政治的な色彩が強すぎて疎んじられる可能性があるブランドというところだ。かれらの資本金1300万円をこえた額から出発すれば、よりアドバンテージがあるといえる。人はなじみのあるものの方をえりごのむからだ。「福島」という語についたイメージや、「関東」という語のそれなど、何らかの購買意欲や安心感に直結するそれを工夫することで、農協を介さない資本家または荘園地主とタッグでの農産物の直接・間接な物流にもまだ開拓の余地があるといえそう。
 おそらく己をみあやまり、自力でもこの流行ができるとおもいこめば、どのいなかものにも到底できないだろう。都会のすべての流行をしきっている人物に情報量でまさることはほぼありえない。だからブランドの計算についてだけは完全に才覚ある人物、特に時代の先端をいくコピーライターやデザイナー、コンサルタントといった系列の彼らにたのむべきだ。
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by smartestone | 2011-08-20 21:25 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

Social ecobiology on Ibaraki, Japan

The means of social selection of the species are that preparing for survival fittness? This thesis of human-included society should reconcern at social biology.
The aim of tendency for human being non racism selection was a cultural social selectional it. This non racism presented our material and systematic social comprehensiveness be the purpose of selective calmness, named the liberty.

Generated social sexual more reasonable marriage regime or that tendencies will call as a wisdom of the nation. I saw this selective motivation was the best reason of human society, and its architecture as political economy.
This civilization mind will get some regitimacy and tasteship of their processing generations.

Our cooperative acting were got characteristic humanity on the nationalizing result. Was not the name of country or company, party, nationality that?
We thank cultural diversity for the processing rationalism of civilization. Liberty's aim and some poveties be too. This value ability whomever gets access of division's reason has had an added advantage, but also has brought to gaps at individuals or some associates.
The idea of invisible hand for capitalizing had brought instruction to peaceful far east isles. I used to see non commercial cooperation but today we almost chould not see these irrational acting fazed more minority.
So selective place late was gone old good morality at changing from the population belief.
This was reasonable process for changing out pressured far east isles or, some regional non-religional revolution. We have to fit and recreate the society on our pretend works. Pretend?

Because this social selection is a typo thesis by an age or era. Main work of species would be stable at selective re-adaptation. Pretends of adorn runaway is not the stable process. We have expelled these non profitable changes, todays too.

Why they made a social selective motivation? This would originate cooperation and their marriageness in ancients. On now we saw the capital democrats made their social philosophies for the aim. Of MacAuthur, Perry, or Adam Smithe's universe influences on the liberalism societies.
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by smartestone | 2011-08-19 02:26 | 学術論 | Trackback | Comments(0)

未来のこと

遠い未来、星として地球が滅びるのは一つの仮説だがありえる。地球の公転はその遠心力と太陽からの引力が釣り合った結果だが、長い目で大きく見れば公転軌道が次の二点の原因でずれる可能性がある。
1、太陽の燃え尽きで恒星引力が低下し地球の軌道は太陽系の外へと広がって行く。
2、地球そのものが複数の理由からなる摩擦で遠心力を弱め太陽へ落下する。

その他の例外として、過去にも小さな事例はあったが
3、巨大隕石の落下で軌道が外れるか星ごと大破する。

またそれに類して
4、地球内外生物の侵略や謀略で星が破壊される。
場合もある。むしろ、人類の性を見なせばこれが最も確率としては高い気がする。

これらを思い返せば、少なくとも億年単位では地球は安全不動の適所ではない。そこは、もっと巨視すれば仮の宿りというしかない。特定の生物がうまく生態地位を安定させて永続きした記録は必ずしも上位の生物へ多くないから、「人類」が生き残るかどうかは未知だが、おそらくあまり高い確率ではないだろう。
少なくとも恐竜の前例があり、生態的地位の最高位を占めて繁栄しすぎた生きものへは環境の激変でそれまで食べられた多くの必須栄養価が突然とれなくなる、という報いがあるわけ。人類は「道具」を使ってそれまでにない生態圏にも適応するすべを身につけてきたが、この必須栄養価の致命的不足を栽培や養殖の技術で切り抜けたとしても、そういう時代は甚だしい技術資源争奪戦争を経由するだろう。
 要するに、現時点の資本商社会は来たる技術資源争奪戦の前哨戦というやつなのかも。少なくとも大きな気候変動があれば即座にその戦へ我々人類全員が否応なく突入するはず。

 こうして見ていくと、スティーブン・ホーキング氏がいう冗談としての人類の高技術自滅論は、少なくとも食料資源争奪戦としてはかなり現実味を帯びているのが間違いない。それらの技術か工学で、既存の食料生産物がもうとれなくなってからも食料をつくりだせる場合だけ、かなり高い栄養価を必須とするまで贅沢な淘汰をへてきた人類は生存権を未来へ持って行くはず。
 例えば大規模な臨界事故一つでその地域での既存の仕方でつくられた食料摂取は絶望的となる。これらの人工の災いを含む過酷環境でも生き残る為には、やはり「道具」をつかえるという人類の特徴を更に進化させた高い工学の人類が必要ではないか。

 特定の赤紫の、植物が吸収しやすい波長だけを集中して人工管理下で当てた野菜栽培などが実験されているが、いまの段階の文化では何となく忌避感のある仕業だが、もう少し近い未来の人類は何とも思わない筈。我々は、例えばお菓子だろうがコーヒーだろうが完全に機械生産されたものを日常に食事する状態にある。これも慣れにすぎないのだろう。だからかなり近い将来、米や麦や大豆などの穀物類はいうまでもなく、管理された家畜の食肉や養殖魚介類もより高い技術をつかった何らかの人工的工場で行われる事になるだろう。
 もしこれが果たされない、高い技術と縁のない文明がすみかだったなら、きわめて大きな気候変動や天変地異への適応能力が十分ではない為に絶滅の危機と裏腹でありつづける。
或いは国連の枠組みや貿易構造を通して、一国や一文明圏での工学の輸出入がありえる。故にどの文明も同様に生き残りえる、という仮説もあるだろう。しかし、これまでの人類史、そして生物の歴史を見返せばそれは殆どない夢物語ではないだろうか。人類は、そして生物というものはもっと遥かに冷酷で利己的な存在だ、と認める他ない。我々は日常に他のありとあらゆる生物を利用したり実際に殺害して食べているわけだが、一体全人類の内それへ感謝や罪悪感を担って他のいきものへ譲ろうとしている者がどれだけ極小か。
つまり、草食の人でさえ、何らかの有機体である他の生物を消化した力で動くしかない。動物、というのはanimalの面白い訳語だが。結局この人類は、動物たる為にはつねに他の生物へたよっている。
というか、人の細胞そのものが特定の生物としての状態でしかなく、水を媒介としてたまたま結びついて共通の目的(およそ複雑になっていく細胞の分裂と自己複製による存続という)へ向けた活動をしている。この人体細胞群は他の生物体のいろいろをみな利用して摂取したり排除したり改変したりしつつ何とか長続きしたがっている。

 以上をまとめて考えると、人類の長い間の生存率は工学度により、ある閾値以下ではおそらく高い確率である環境変動後の将来、絶滅する(それがいまの先進国で起きている経済社会の競走へ強いえり好みによる人口減退という和平的なありさまを通して徐々にか、それとも他の文化の侵入や戦争や飢饉ほか暴威をふくむ衝撃で急激にかは場所によるだろう)。
そして人類も含む生物種は本性に於いては利己的(たとえば原始のミトコンドリアが複数の細胞をとりこんで生息を保った時代から)なので、かなり似通った同類の間でも常に食うと食われるという連鎖が拡大していき、遂には人種以上の違いに至るはず。
 我々は過去の地球生物史から必ずしも食う側が生き残るとは限らないと知っているし、特に大量絶滅という凄まじい命の瓶くびを経るときにはそこでの淘汰効果は絶大と分かっているので、現時点で様々な人種へ分化している人類には、単なる民族差をこえて決してすべてがそっくりそのまま生き残るなどという未来がありえないとも推察する。つまり「生き残って次の段階の動物へくりこされるのは、本の一部の瓶くびを経由できた人類の特定種類」でしかないはず。そして既存の人類文化の上か、又はその絶滅後、衰退後かは分からないが、彼らは確実により広くほぼ無限な適所をもつ宇宙世界へ出て行く事ができる。

 ロボットの姿での進出というのはよくScience Fictionで設定されるが、自律した複製と分裂をかなりの生物経験と共にくりかえせる機械が出れば、或いは耐久性が高く過酷な環境でも動ける動物の範畴へ、ロボットは入れられるのかもしれない。そして何より、プログラムが優れていれば、且つ神のミームをのせてやれば、人類よりかれらの方が賢いはずだ。「道徳」とか「情緒」といった回路がくみこめれば、ロボットの姿での宇宙進出が人類の姿でのそれより現実味が高い。意識を生むプログラムも近く開発されるだろう。そうなって、人類が既に時代遅れとなってからは、かなり明るい将来像が描けるだろう。
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by smartestone | 2011-08-13 13:06 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

市内の浸水対策

市発行の洪水用hazard map
一枚目二枚目

では、磯原・中妻・華川町にかなりの浸水がありえる。
 また、こないだの仙台平野にきた津波と同等のものがくれば、おそらくこのmapよりずっとひろい区域が幅広く浸水するはず。基本として北茨城市の半分はうみべの平地なので。

たとえば
津波による全壊 約12万棟
津波に強かった「1階吹き通し」再使用できるケース多く 建築学会報告
を参照にすると(*1)、

a.こないだの津波では高さ4m以上の浸水域ではほとんど建物がのこらなかった。
b.ただし、ピロティ(一階が柱。足だか)造りのたてものではうみべ近くでものこった。
c.2m以上の浸水では全壊が過半に出た。
d.1m以上の浸水では大規模半壊が多かった。

を教訓にすると、できるだけはやく前例と同等級のつなみを考慮した大津波用のhazard mapをつくり、つぎの対策をたてるべき。

A.「4m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ(*2)造りで改築・新築をすれば、その為の経費全額を市税で補填する。
B.「2m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ造りで改築・新築をすれば、その為の経費一部を市税で補填する。
C.「1m以上の浸水」がみられるだろう地域ではピロティ造りを推奨する。
D.市の海に面する海抜の低い平地には一定距離ごとに緊急避難用の3階建て以上の高層避難所をたてる。

また、これらとは別に、
A'.Hazard map上にある土砂・がけ崩れの想定地域へは土留め工事促進用の助成(あるいは町内会などを介して、防災工事の責任がある所有者への工事義務付け)がいる(*3)。
B'.市内では、磯原では市役所付近、中郷では汐見ケ丘という高台に、消防拠点をうつすべき。


―――
*1
参照先の全文を以下に引用。図も添付。著作権法に配慮して©表示あり(なおhttp://homepage1.nifty.com/samito/copyright2.htm を参照にすれば、公共の福祉ならびに法解釈的に広報をめあてにしているニュース記事へは著作権法の例外になっていて、必要な範囲内で広く引用できる)。

以下http://www.s-housing.jp/archives/15171 より
~~~
津波による全壊 約12万棟 2011年8月4日 ©新建ハウジングWEB.

国土交通省は8月4日、東日本大震災による被災現況調査の結果(第1次報告)を公表した。それによると、約21万9000棟の建物が津波により被災し、流失を含む全壊棟数は約12万棟だった。

 津波で浸水した区域の面積は約535km2で、このうち4割超が浸水深2m以上だった。浸水深と建物被災状況の関係性を分析したところ、浸水深2m以下では建物が全壊となる割合が大幅に低下していた。

 全壊12万棟のうち、約7万8000棟が流失、主要構造が損壊した全壊が3万4000棟、残りの8000棟は大規模改修により再使用が可能という。全壊以外の内訳は、大規模半壊が3万6000棟、半壊が4万棟、一部損壊が2万3000棟だった。
d0175562_1105819.jpg

~~~
以上 引用おわり

以下 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110423/dst11042323500058-n1.htm より
~~~
津波に強かった「1階吹き通し」再使用できるケース多く 建築学会報告 2011.4.23 23:49 © 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

 東日本大震災の揺れや津波で被害を受けた建物を調べた結果、1階部分が吹き通しになった「ピロティ型」の建物が、津波に強かったことが、東北工業大学の田中礼治教授らの調査で分かった。沿岸部では、ほとんどの木造家屋が流失している一方で、鉄筋コンクリート構造の建物の多くが再使用できる状態で残っていることも判明した。

 23日に大阪市内で行われた日本建築学会の「緊急調査報告会」で報告した。

「ピロティ型」衝撃少なかった?

 田中教授らは、仙台市など宮城県の沿岸部を調査。田中教授によると、津波で木造家屋が壊滅的被害を受けた地域でも、鉄筋コンクリートの建物は、基本構造に大きな被害がなく、再使用できるケースが多かったという。鉄骨構造の建物も一部は残っていたが、基本構造が変形し、再使用は厳しい状態だった。

 1階部分が主に柱だけで構成されているピロティ型の建物が津波に強いことも浮かび上がった。堤防から数十メートルの場所で津波の直撃を受けながら流失を免れたケースもあったといい、田中教授は「1階部分に外壁がなく、津波の力を受ける面積が小さくなるためではないか」と分析している。

「重さ」で耐えた鉄筋コンクリート建築

 また防衛大の多田毅講師は「鉄筋コンクリートの建物は、それ自体の重量が大きく、津波の力に耐えることができた」と指摘。鉄筋コンクリートの建物であっても、一部津波で倒壊した例があることについては「昭和53年に起こった宮城県沖地震などで基礎部分が変形していた可能性もある」と述べた。

 同学会は今後も被災した建物の調査を進め、地震や津波に強い建築技術などを政府に提言する方針。
~~~
以上 引用おわり

*2
具体的には一階に居住空間をもうけず、壁比率が一定よりひくいばあいに、都市計画法の条例としてそのための工事の費用一部または全額を助成する制度がいる。『ピロティ造り推奨制度』とでもいえる。たとえば今現在、磯原駅の南側にたっているマンションの一階は駐車場となっていてこの造りを採用している。
なお副作用だが、これは足の高くてすぐたおれそうな見た目でもわかるけど、つくりとしてみた耐震性はかならずしも高くないので構造計算のできる専門家にまかせないとあぶない。さらに高齢者のためにはエレベーターとか、或いはかなり大量の人がいつもつかう施設では日用の便利のためにエスカレーター、そして車いすを考慮してかならず傾斜路が別に必要となってくる。
ちなみにピロティとはフランス語の建築用語で
>ピロティ【(フランス)pilotis】
>《杭(くい)・脚・柱の意》建物の一階を柱だけ残し、吹き放しとする建築様式。また、その空間。
>ル=コルビュジェが近代建築の一要素として提唱。
[ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ] より

*3
あるいはこれが最優先か。特に人家が隣接しているばあい、地震や台風でさえ危ういので、最低でも市内全域にこれらの危険箇所と人家の危機的関係をすべてなくす必要がある。
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by smartestone | 2011-08-07 12:40 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

偏見報道への徹底報復

一昨日の時点で、日立製作所と三菱重工業の統合(結局、「事業の」統合しか合意してなかったわけで、経営についてのそれへのふみこみは早とちりした誤報だったと言っていい)ニュースは先ず共同通信社から発されたらしい*1。
 その後、拡散した。そして自分が見た例えば日テレ系列の夕方のニュース番組every.の放送になった。

この一連の動きを観察して分かったのは、記者クラブなるマスコミcartelを通した情報は特定の恣意的方向へ歪まされて出てくる、という真実だった。

 自分が見た日テレevery.では、客観視しても‘利益率の低いテレビの撤退をした日立製作所の経営が傾きつつあり、資本金の少ない軍需がメインの順調な三菱重工を吸収したがっているが三菱重工側はそのつもりがない’といったきわめて恣意的に歪められた、なかば風説に近い加工された情報が流されたのだった。当然これは嘘だ。経営規模でも分かるが日立製作所は電気機械関連事業として順調で過去最高益をあげた直後であり価格低落かつ過当競争で不採算な液晶テレビだけを外注したにすぎず、比べて三菱重工は国内ではシェアも低く戦闘機など事実上の隙間事業にしか適応していない。にもかかわらずそのニュースで切り取られていた映像は、この真実から目を反らさせできるだけ日立製作所を買収者として仕立てあげようとする完全におかしな場面ばかりだった。特に笑えたのはゆりかもめを三菱重工が納入したとかいう、そのニュースの構成では大手柄みたいにみせていた図だ。ならイギリス高速鉄道の受注はなぜ大手柄として放映せず、GEと共同受注にすぎない平和産業である原発をあたかも不実みたいにとりたてたのか。戦闘機とどちらが目的に良さがあると思っているのか、あの愚劣な日テレevery.の無礼者構成員は日製の真面目な平和への貢献の数々の歴史の前に、何度も何度も土下座せよ。
で、それら一切を見た自分は違和感から、記者クラブという組織を介した途端、すべて情報はある東京中心主義偏見で歪まされるというこの日本社会の絶対権力のありかに気づけた。
 最も奇妙だったのは、三菱という旧財閥全体のあしき体質の証でもあったが、「こっちはそのつもりはない」とでもいいたげな若い広報の態度と言動でありそれへ追従した日テレの(記者クラブを仲介したのだろう)報道姿勢であった。*2
当然だが単に水力の事業統合へも、事実上、吸収されたのは三菱重工側の弱体な事業所の方だったのだからきちんとした公正な目が保たれていれば、以前から軍需をやっているろくでなし三菱重工へ好意的に報道する理由など皆無でなければならずむしろその帝国主義と深入りしてきているあくどい不道徳政商癒着談合なりあがり下司野郎資本の部分的解体のゆえに大歓迎されねばならない。

これらから導けるのは、学歴選考による固定化した人事や少なくとも自分が見た日テレevery.の構成をしている社内の教養水準の低さ、並びに記者クラブの悪性ぶりだ。
 これらの悪の根を完璧に摘出し、完全にとりのぞくまで市民日誌者はありとあらゆる手段で偏見報道をする東京資本と死んでも戦い続けねばならない。
公正かつ客観な報道ができないならそれを虚構とはっきり銘打つべきで、あたかも真実かのごとく擬装しつつ東京中心主義でその利潤最適化へ市民を欺く罪はまったくもって看過しがたい。少なくとも自分は報道の正義の一員として日テレevery.ならびに記者クラブが滅亡するまでは決してゆるさぬ。
薩長と悪巧みのテロリズムで儲けようとした海援隊みたいな裏切り者軍需財閥の糞資本と一緒くたにしやがりそのうえ誤解をまねく偏見づけで、なんの落ち度もないばかりか一生懸命日本やその首都ふくむ世界の高技術へ貢献してきた日立と我々を不利にさせる歪んだ誤道をしやがったのだから絶対に、何があろうと敵である奴らをゆるしてはおけぬ。必ず何があろうと日テレevery.と記者クラブへは全滅の致命傷を与えねばならない。

―――
*1
共同通信社は財団らしく会社ではなく記者の協会として成立しているから、どの個人記者が、横浜で発言したとされる中西社長の言をひろったかは不明。しかし、出所もあやしい。しかも次の日の朝には承諾なしで、卑劣な偏向コメントの収録用に報道陣が社長宅へはりこんでいたのだから悪質な漏らしだったのはまちがいない。
この第一原因だった記者の個人名と所属や居場所も必ずあかさねばならない。この人物が第一の悪人なのだから、徹底してマークしてその悪習をあばき出すべきで、さもなくばこの悪人から複数筋が害をこうむるのが間違いない。高い確率として横浜支社あたりの共同通信社に属している人物だ。

*2
ちなみに、産業経済新聞(大阪発祥の、福沢諭吉の‘時事新報’系の新聞社)の記事だが、以下の引用のごとく否定的意見をあつめている。これはおそらく東京資本の一種とみなした敵対心からでているのだろう。かつ、わざわざトヨタ城下町で確証偏見な情報をひろっていることから、彼らサンケイ紙は大阪の資本、少なくとも関西系の資本へ親しむ傾向があるのだろう。相利の事業計画へも反発する意見をわざわざ集めるのはその地風・郷風か企業風土を示していると考えられる。

~~~
「何で今ごろ?」 統合協議に驚きと不安
2011.8.4 10:28

 日立製作所との統合協議開始を受け、愛知県内の三菱重工業の事業所に通う従業員からは、驚きや不安の声が聞かれた。

 空調などを生産する名古屋冷熱製作所(清須市)では、午前7時前から社員らが続々と出社。50代の男性社員は「数年前にも日立との経営統合の話があったが、折り合わずに立ち消えになったと聞いていた。何で今ごろなんだ」と驚いた様子で話した。また30代の男性社員は「テレビのニュースを見てびっくりした。原発事故の影響も関係あるのではないか」と言葉少なだった。国産小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」を製造する大江工場(名古屋市)で働く40代の男性は「ピンとこない。組織風土の違いもあるだろうし、うまくいくのか」と顔を曇らせた。一方で「もっと大きくなって世界に打って出るチャンスが広がればいい」(30代の男性)と期待する声もあった。
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by smartestone | 2011-08-05 23:04 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

日立のみち

総合的にみて、三菱とはつきあわない方がよい。これが判断としては正しいと自分は思う。

自分は傍目に事業を見ているという素人の目算みたいなものだが、岡目八目という事も素人の強みという事もあるかもしれない。

 残念ながら今の中西氏は「順風満帆」の経歴っぽく、世の荒波と闇をそんなに深く認識されておられないのではないか、とも思われなくない。はっきり言って、三菱という資本は教育的ではない。出が。自分の洞察が正しければ、今の時点でも大変な将来性のもとにある。かれらは御用達とかいう次元をこえた泥沼をはじめから出立してきたのでありまこと泥臭い裏事情がある。わりと順調に鉱山用の機械修理を発展させ工業品の製造一本で進んできた日製資本とは雲泥の*1。
 これからうまく流れがつけば、どうやら本日づけで締結された水力部門の統合もできたら再び破談になって、日立は多国籍化された単独資本として「鶏口」にもどれればいいのだが。原子力発電部門も(某勝手な首相私見の発表で)世論へこびた人気取り国の行政上でいわれる、規制か管理かという次元での事業存続性そのものへの変更があるかもといった考えが浮かんできてるのだろうが、かわりやすい行政表層の挙動はきにせず、世界市場での為替だけに注目している方が本質的によいのだろう*2。
この毎日新聞の記事では
>関係者によると、将来の経営統合を視野に入れている日立と、一部の事業統合にとどめたい三菱重工の間に温度差があるという。
という。これが真実なら、中西氏の判断は総合的にみてよろしくないということになるきがする。

 特にやばいのは、出からいっても三菱というのは軍事や戦時調達系を平気でやっている事。これは平和部門に集中してやってきた日立の歴史からいっても大変よろしくない相手です。もし組むとしたら、戦後の各実例をかえりみて最終的には何らかの敵からの疑いの目を向けられての日製系のすべての資本解体や、それ以前にもテロリストを含む日立の工場立地一帯への攻撃もありえる。日立駅前の平和像の誓いを忘れたのですか、中西さん。
 おそらく、かれら経営陣のあたまはいまの不安定な菅直人首相のふらつきで何とか「安定した資本提携」を求めざるを得ないといった地点へおいつめられているふしがある。
だが、菅首相個人の異常な好戦性といった精神的資質・人格的問題と、やはり自律して進んでいく資本経済秩序のことはまるきり別個の物と考えた方がいいでしょう。なにも海外へ本社を移せば、国家そのものが本気で政治色上あやうくなったら、日本と心中する必要は決してないのが資本経済下での企業法人の強み。普段から逃げていると雇用流出とかいう観点で、具体的にはほとんど米国資本化されてるソニーみたく割と評判わるくなるかもしれないが、いざとなる前にそれが予測できた時点でちゃんと本社を外へ移した方がいい。いまの菅首相みたいなおかしい行政人に狂わされた国と心中するよりは、その方が人類みなにとっても貢献度が高いのだから。そのばあい条件が安定したらもどってくればいいはなしだ。
はっきりいって菅首相の脳は相当狂っておられ、平気で市場干渉論をしていたり平気で東電へ介入したり本気で極めつけに危ないが、できるだけ相手にしない方向でいけばおのずと縁が遠ざけられ、おのずと民間企業としては安定するはず。何かの偶奇で水力部門は一時的に共同出資の持ち株会社へ、かれらのもっていた財が流れ込んだかもしれないが、それも子会社の動向でしかなく今もこれからも是非とも『資本本体』は完全に他と分離なさった方がよろしいと思いますね。
ある段階からはあの水力会社も、売却してしまえばきっぱり縁がきれる。採算とは別の勘定、超長期的視野がここには必要ではないだろうか。
 相手は裏がやばすぎる。中西氏は割と平和な技術畑出でしかも横浜そだちの浜っこ的気風で行け行けドンドンって感じなんだろうが全然組む相手をまちがえている。たとえば、ソニーと組むとか、ホンダと組むとか、±0と組むとか、コンランショップと組むとかダイソンと経営統合なら、それは私は傍目にみてても程度あれとても歓迎する。無印良品の電化は全部元請け契約締結とか平和的な産業形態なら。まあ今度の件は相手の広報のはためにもちょっと首をかしげざるをえないくらいの不遜な態度を見ても理解できるが、ある段階でグループのどこかから拒否反応がでてくるか株主が忌避するかどっちかで破談になる気がするけど。
 いっときの提携や同盟ならまだしも本格協働やら立場の統合に際しては、つきあいの長くなるだろう協調相手をまちがえてはいけない。よのなかには善人だけ、或いは根の善良な人格だけ、物わかりのいい人格だけがいるわけではない。

 夕方の日テレ系列ニュースevery.(首都圏版)というのでも、かなり偏向報道で三菱よりになってたから裏にはなんか相当変な力が働いてきてるのが、推測ではあるが、自分の肌感覚としてもなんとなくの気分悪さから言ってもまちがいないとおもう。雰囲気が。うわ、これはもしかしてそっち系の悪だくみにまきこまれてしまう、といった先回りの危機感だ。
ああいうちょっとした三菱よりの偏向報道の起こる時点でヒヤリハット事故の一種だと日立系列関係者一同悟った方がいい。東京のマスコミの底は一種の無法状態あるいは絶対権力が内在されているのだから、かれらに‘偏向の目をつけられる’というのは、その時点でもうそっちの手は撤退するくらいで調度いい*3。
 断定していえばたまたま経営統合とかいう次元ではなく、相手が泥沼出身では組んだり吸収したらそれはそれはやばすぎる。仮に大きな会社になれるとかいう話だとしても、はっきり言って彼らなら縁をきるほどよい。自分は傍目の人でしかないが、この旅路では相手の法人格を見抜く必要があるとおもうが。

 なお軍備へいえば、米英資本との協調か統合がすべてだろう。
 おそらく三菱の旧財閥系支援(特に海運)も中西氏の念頭にはあるのだろうが、おそらく『事業統合』という既存のrailが最も双方に望ましいし、結局菱重にとってもその宇宙と航空産業を含むおもな基盤事業体の被吸収に際してprideを傷つけられづらいので、本体である各三菱資本の株価への影響度から言っても穏健ではないだろうか。要するにflying報道したやつがごく悪者だった。かぎりなく企業機密に類した情報なのだから、何かしらぬすみ聴きみたいにして出した可能性が高く、営業妨害罪でばあいによっては刑事又は最低でも民事にして記者クラブ内の当該人物を訴追した方がいい(記事偏見報道への徹底報復参照)。両社の慌てた対応を見る限り、そいつはかなりのoff recordにちかいかたちで漏らしたはずだ。

―――
*1
とはいえ、山口県関係の特定の業深いひとは、買収した鉱山のもちぬしだった某商人へ相当ほまれを感じているみたいだが(あまり信頼のおける情報源ではない寡占管理された落書き場「ウィキペディア」などで記述の傾向を観察していると)。これも政商なる底知れない野心の根深いおそろしさの一つだろう。
 明治維新の際の新政府軍、特に薩長土肥系の野心には注意深い経過と末路までの観察が必要と自分は思う。それらは、なぜならやはりきわめて急いで欧米の模倣を方針としていただけあって何らかの拙速さを伴うのが殆どではないかとおもえるので。
 経営学でも(たとえば松下幸之助の自説でも)いわれることがあるだろうが、「ゆっくり成長してきた資本」と「急成長した資本」はたちというか、その動向がちがっている。わかりやすい例でニンテンドーとライブドアを比べてみればいい。どちらもエンターテインメント・娯楽分野をめざしたが動向はきわめて違って行ったし、今後も違って行くだろう。

*2
なぜなら退陣する予定の菅首相が居座っているだけでは、その菅氏の言葉に信を問う事はだれにもできないのだから。辞めて行った菅氏が責任をとることもなければ責任を問われることもない。その時点で、あれらのパフォーマンスは芸能であって政治ではない。
 ソーラーパネルの増産も、結局口約束なので退任していく菅首相は国民との間で、例によって平気で反故にするはずだろう。やめたあとで追及しても逃げ口上は「やめさせたやつのせいだ」となり収拾がつかない。後任のひとが経済性の十分でない国策を大規模採用する事はまず考えにくいし、採用しない方がずっといいくらいだ。はっきりいって、予備電源をかねた家庭用ソーラーパネル普及の政策的工夫というならまだわかるしやるべきだがメガソーラーは不安定電源にすぎず、足しにはなろうが本格的産業用には使い物にならない。孫正義氏と菅直人首相共通の権勢欲込みの野心にすぎず、特に大きな企業や自治体なら関わるほど損失をこうむる。さらに、いまの菅首相提出の自然エネルギー買い取り法案は拙速の穴だらけ、もっといえばかなりろくでもないもので、結局、発電費用の最も低い大電力会社が儲けるしくみでしかない。発送電分離やら自由化といえばきこえはいいがすでに同様の事業をおこなってアメリカでもヨーロッパでも寡占が進んで電気代が高騰したとか、停電が長引いて使い心地がわるくなったとか、電力会社の選択で面倒がふえるだろうとか。以前からこの網記でものべてきたが、要は孫氏の光ケーブル敷設権欲しさへこびたいつもの浅い菅首相発の人気取り利権誘導でしかない。スマートグリッドは電力会社間の協定とその後の詳細にわたる(つまり部品や実施工事会社の)競争発注で進められる方が、いきなり出自のあやしい成り上がり者への全国の基盤設備の使用権譲渡契約よりずっと安定した、長期的発展にかなう基盤となるだろう。
いまの時点で知事会などでの早期退陣が求められる異例の事態は誠に時宜にかなっているし、一刻も早く合わない職責から菅首相はおりてしまった方が誰もにいいのだろう。自分からおりるきが決してないという点では独裁者の気質なのだろう。
 自分が直感するに彼ら、菅一族には単なる力不足といった問題より深刻な障害とでもよべるなにごとかの悪徳あるいはすさまじい勘違いが在来していると思われる。息子へ源太郎となづけたのは児玉源太郎・満州軍総参謀長にあやかってというわけで、戦略戦略とくちぐせの様に菅直人がいうのも同じ異様な好戦気質がそうさせているはずだ。つまり彼ら菅一族とその傍系に2度と権力を与えては決していけない。菅一族の(かなり近親婚の傾向ある)血は、日本が再び戦火にまきこまれる突然変異的な火種なのが、どうやらいままでの一連の観察からはっきりしている。市場介入を平気でしてくる全体社会主義者ぶりもまるで戦前の人で、まったく最高権力を奪うまでは善人づらで隠された思想とその謀略にみちた心理に於いてやばすぎる人物だったし、これからも注意ぶかく国民や報道が監視していかないと、実際息子を衆議院へ出馬させてるわけだが本当にあぶない。岡山という西の遠い土地に在来している分だけしか救いがない。

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彼ら東京系のマスコミが偏向報道をしはじめたら、正不正にかかわらず国内ではその問題への深入りから一切手を引くべきだ。すでに過去の第三権力の多くの横暴をみてきた現代知識人へ誤解はないだろうが、調子にのりだした東京系マスコミ(彼らはよくない意味で日本的なので村八分式に、東京の資本という点で大同小異、結託している)への最善の対策とは、悪魔に絡まれたときの対処とまったく同じ事。一切縁を切り、一切の取材を拒否し、一切の関わり合いを避け、できる限り戸を閉めて追い出し、関係者の一切へまったく相手にするなと念を押しつつ、不動の神へその悪霊退散を毎日毎日祈祷するしかない。彼らからえられる報酬は何もないが、彼らは社会的生命体を死に至るまでむさぼりつくし、何の感謝も反省もなく亡骸としてすてていく。
 東京系マスコミがもちあげる相手は有頂天になりがちだが、実際にはその直後におちぶれが用意されている罠が多い。芸能界と一つながりになっているのだから劇場仕立てにするのもお得意だ。
 これらから、今回の日テレ系夕方のニュース番組every.という放映でもすでにかなりの偏向報道がみられたので、この問題は本当にかかわりあいになってはいけない危険の一つだったと理解できる。草の根の近くの土地にすむ一民間人からの推奨でしかないが、中西氏は政府をきにしすぎる資本経済の原理に忠実ならざる挙動を省られ、某資本との提携や統合や吸収合併などはどうかされない事を。政商ということばは、実際、‘犯罪すれすれの大悪党’の別の言い方である。東京系マスコミは根っこに於いて『外部』の目が届かない範囲で徹底して悪質であり、村八分や袋叩きといった旧来の倭人の風儀を引きずっているので、かれらから不当に絡まれた誰かは最大限の力でふりきってその追随からさっさと逃げ出すしかない。想定できる次善の策は「別の国、特に知識と情報と資本に於いて上流にある先進国へと真相究明の正当な報道をさせる、自主的はたらきかけと透明化した真実の情報提供で真相啓蒙の報道を全世界的規模でしてもらう」ことだ。まるで独裁国家からの亡命みたいだが、実際この外部照射でしか、彼らの村社会的悪業は決してやまない。発祥の初期は特に他意もなかったのだろうが、首都でありつつ政府機関の集積もしている東京へ、本来は権力監視が主目的の自由な報道機関が集積してしまっているのがその大きな悪というか、日本語情報からの囲い込みというか偏向報道と村八分的錯誤の根でもあるのだろうが。
 そうして患部をそとから強い光で照射しつつある期間ある遠い時点まで逃げ切れれば、彼らは単に俗受けする話題をほしがっているだけなのだからおのずと別の話題へうつっていく。特に、ワイドショーのコメンテーターや御用学者は本当に心がないというか金と、東京近辺の平均的俗物の空気に飼われているので、まったくその場その場の世論にこびていくだけの品性卑しい煽り屋であり、一切信用してみてはいけないほどだ。自分は震災直後、みのもんたの出る朝のワイドショーで、被災地の悲惨な様子の直後に特集されたAKBなんたらのすさまじく堕落したなんたら選挙だか最低に下らない話題へ、外国人ハーフみたいなひとと、昔からいる男のアナウンサーと、女のちびまる子ちゃんにでてくるこわい幽霊同級生みたいなひとの3人が、こっちじゃ余震の続く中で放映されたのだが偽善な賞賛コメントでお茶をにごす俗悪その下ない解説にまこと吐き気がしたことがある。この点からいっても「わるさに火をともす」という現代のマスメディアの悪習は、いずれ駆逐され淘汰され消滅されねばならない人類の共通命題ではないだろうかと考えられる。この悪風は、おそらく新聞が登場しそれが商業販売されることになってから、起こってきた不安たきつけ稼業、悪の誇大喧伝稼業の結果なのだろう。その邪悪な火は、もし人類がより賢明に進化する文明を辿ればいつか消されるしかない。或いはインターネット以上の主体的選別できる参加型メディア登場が終局に於ける駆逐艦になるはずだ。あんなものをわざわざ自分からえらんで観る人格はありえない。何らかの理由で気が狂っている、純粋に金目当てのみの堕落者がニュース構成をつくりコメントの質を編集していたはず。
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by smartestone | 2011-08-04 21:00 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

放送大学の電波変換要望

放送大学のBS放送(今年10月に開始される)の無料電波を、日立市にある神峰中継局から水戸市やいわき市を含む常磐一帯へと地上デジタルの電波へ変換して飛ばすのが有益。
 またはいわきか水戸にある同等の中継局でもいいわけだが、常磐圏一帯へそれを広めるには「日立市のそれが最も適任」かとおもう。この要望を、茨城県北の各市といわき市が共同で、若干の共同出資で日立市へ提出するといいのではないか。

神峰中継局が誰持ちかはしらないが、少なくとも受信するためには近くの中継局へ、BS電波の地上デジタル方式への変換後の放映を要望すればよいというわけだろう。
この変換作業にしかおもな経費はかからないはずだから、共同出資すればほとんどそれら常磐圏の市への財政に負担はなく、かわりに大きな教育効果があるはずだ。
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by smartestone | 2011-08-04 11:34 | 政治論 | Trackback | Comments(0)