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茨城マキャベリズム論

魅力度を‘愛される’という女性的形質からの評価と解釈するに、マキャベリズムの通り、我々の県政はどちらかといえば政治的優位にあると結論できる。
だからその福井出身の一研究所となのる市井人が調査して毎年発表する確証偏見な調査は、第一に無視してよく、第二にどうしても対処しなければならないなら消極策として「愛されないまでも憎まれることを絶対に避ける」というたちばでいなすべきである。

 県政が何だか対策室までつくってるってはなし。これはよくない。無視した方がいいのだから。根本として嫌われすぎるのは賢明ではない、って判断なんだろうけど、マキャベリズムが現実のあらゆる政治場面で活きている以上それを追求する費用も考慮すべきです。*1
 だから自分がおもうにはあの愛想注力は侍の末裔には無理ってか逆の職能なので(某blogによれば書いてる茨城系男子も自覚してるらしいが)、同じ労力つかうならそれらを完全にコピーライターやらコンサルタントへ外注して、公費を任せられてる防衛者はさっさと防衛力の強化につとめていただきたい。シェルター建設や複数以上の避難路と、国際化された多重な協力関係の構築、そして米軍含め自衛隊などに頼りきらない十二分な武具(戦闘機も情報機器と捜索機関の現代化も含む)や戦時医療の研究開発と輸入。等など。
実際その方が既存の水戸藩的雄藩気質の貫徹でも行革の王道でもあり、‘サブカルでの俗受けあれど比弱で萎えきった、悪い意味で女じみたエコアニとからかわれてきた情けない’日本国全体、乃至有能な中央官僚からみてさえもありがたいに違いない。とか安易に公然いうとヒステリックな江戸っ子マスコミから都知事以外袋にされるからこそっとなのだが。

 最低でも疎まれない品位を保つ程度に芸術家を褒章しておけばよい。その意味ではもともと冷たく皮肉で紳士ぶった尊大な國もしくは著しく残忍か野卑またはフランスやイタリアなど大陸から趣味の格下だとすらながらく思われていた、ショック賞や英国ゴールドメダルをつくりだしたイギリスの近い衰退対策に習うべき点が、水戸っぽは多い。鴎は。

―――
*1 政治の眼でみれば地味さで葉隠れ佐賀と最下位争いしてくのも面白いはなしだ。実際、その方が暮らし心地がよい、というのが定着している人間には間違いないのだから。人口密度も低くとどまるし、どちらかといえば非観光地の地元客への奉仕地域は客層の質を確保できるためいつも綺麗に保たれる。
 もし不利な点だけ改良したくば、「経済特区」構想によって、たとえだけど水戸市・土浦市・つくば市・日立市、これらのどこか又はすべての一部区画だけは仙台や上海、横浜や西新宿、をこえる都市計画の建築規制のレートをかえた超高層ビル群として解放するとかのはなしではないでしょうか。自分の想定だけど、一応は水戸市に行政区の面で含めるとかの場合も含め、大洗町の付近が適切ではないだろうか。自分が知るかぎり水戸っぽは商都向きの気質ではないにも関わらず県都を今はになっているので、この役割分業から政治都市である水戸と、商業都市系のそれを分離するのが合理だから。こうすればいまの県庁あたりが中間地帯となってどちらの利点も得られる可能性が高い。漁業圏とのすみわけさえできれば。元が商業性の高い都市なので霞ケ浦にほど近い土浦もいいけど、どちらかといえば海運があるとあらゆる利点が高いのも確かではないだろうか。だから土浦辺りはむしろ空港との関連づけによって別の展開をとる方がいい気がする。それに、蓮根畑や一面に広がる田ん圃から眺められる筑波山の首都圏人にとってのリクリエーション効果も入る。たとえばIT関連のじか出荷工場やハイテク産業流通拠点の集積策とか、彼らの職住近接化した田園つきのゆとりある居住区、要は空港(もしイバクー以外でも)にすぐいける利点を最大限にいかす都市計画が必要ではないか。
 横浜や神戸や仙台が、神奈川や兵庫や宮城の公的イメージにあたえる力、これはきわめて大きい。だからシンボライズできる超最先端の超高層群と新規開発のみに特化した一大新都市をどこかへ一箇所集中してつくりあげる、ってのは他から全体を違った眼でみさせ得させると思う。上海がない中国は本当に違う國になる様に。
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by smartestone | 2011-09-28 16:40 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

資本主義ぶったくだらない看板

中郷の郊外型店舗ができたあたりの側溝というか、暗渠みたいな扱いをうけつつある水路はなにかしら美化ほどこすべきなんじゃないかとおもう。東京なんか本当にドブあつかいされた暗渠は悲惨だ。花植えるなり。
あれは子供の心象に悪い。人工物の美が自然のそれにまさることはほとんどない、というのがカント哲学の崇高論の本質だとして。
大体、中郷第一小学校のすぐとなりが近隣商業地区系の突如出現した建物でうめつくされえるという現状も狂ってるはなしで、都市計画課の手抜きではないかと思うってか確信系。どっちもくだらんはなしで、団塊加減は手に負えないとしか結論できない。レベルが。

自分の記憶にあるあのあたりの水田は、いまから10年前には綺麗な、小学生の指に乗るくらいのちいさな緑のひきがえるが住んでいる側溝があった。もしくは緑の草葉だった。
いまはたえまなく車のゆきかう誰からも見向きされない暗渠になりつつある。それをなんとも感じない粗野にして乱雑な連中がふえていくのは文化の退化ではないのか?

 地方への郊外型店舗の侵略はとある国法の規制撤廃が原因らしい。そこにはどこかしらの政商的意図が裏で絡んでいるのはまちがいないが、いくらなんでもひどい、という事例が大分多いのも。
例。よかれとおもってるのが一層たちわるいのだが、平和な田ん圃にいきなりマクドナルドの馬鹿目立つ看板をぶち起てる。天心記念美術館へいく道にも起てやがった。わざわざ遠出してくる観光客をがっかりさせてまで世俗へひきもどしたい?
繰り返すが(おもに肥満の原因となったと訴訟したアメリカ人以外には繰り返すまでもないが)、マクドナルドの食い物は全般としてよくない。何かほめられることがあるのだろうか、って次元。すぐ目の前には前からコンビニあったわけで、板東太郎も出現したからにはいまやはやさですらないが?
そもそも高萩駅前にはいまから15年前にあったわけで、わざわざ15年遅れですぐ隣町へもってきて誰にせよもはや飽き飽きして見る必要もない景観破壊看板あたりかまわず出しまくるという人を完全に馬鹿にしているとしかおもえないことを平気でやってくる連中。まことに下劣なる資本主義文化の権化。とはいえかれらはそれをアイデンティティにしてるのが最悪なのだが。

100%景観破壊と伝統軽視と文化破壊しか意図していないマクドナルドやらそれらの郊外型店舗の無際限侵略は、本当に見るも無残にして残念な、軽薄なる大衆化サブカル時代をつくりだしている。

 地方の条例で、無理にでも看板や立地に相当の規制をかけるしか有効な対策はないだろう。この時代はあと30年から15年以内にひとかげのない廃墟と更地だけをのこしていくはず。そうなってから再び農地へ回復することが難しそうなかぎり、広大な土地をもつ者の節操はその地域史を長期でみて左右する。
あれらの店舗跡地はいまの海側の国道沿いの荒廃地とおなじ宿命をたどるだろうし、避けようもない。少なくともその(解体されない店舗含む)転用もはじめから視野に入れていなければ、あれらの虫食いじみた乱開発は文化としては決してほめられた将来性のもとにはないはず。
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by smartestone | 2011-09-25 04:41 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

おおきな都市公園による復興計画

大津や平潟、磯原の雨情記念館あたりはもし居住放棄者がでれば市が買い取って海の見える砂浜公園みたいにすればいいと思う。*1
ただし、また住みたいという人は、建築条例でピロティを義務づける。
こうすればここにもう一度住む人は広い公園にかこまれて住み心地はずっとよくなるだろうし、市から補填される買い上げ資金での移住よりあやうさをとってでも再び自分の土地所有権を守る魅力もでてくる。
 そもそもこの方式が有効なのは、海岸線の後退(つまり陸地の浸食)がおそらく、これから数百年つづくからどうせ居住放棄はしなければならないか、またはインドネシアやヴェネチアみたいにどうしても住みつづけたいなら海上住宅化するしかなくなる確率がこれからさき高いから。温暖化でかもめも大迷惑。というほどではない。

 この計画(読んで字のとおり磯原公園化計画となづける)は、さらに「有料公園化」すると一層、都市公園として効用が高い。
 一般に有料公園は中がごく綺麗に保たれる。当然、毎日清掃と美化作業をひとを専用に雇って行えるからだが、それに加え施設や花壇などの増強もでき、なかにちょっとした休憩所(喫茶程度か、自販機と展望できるデッキスペース)などをもうければ市に定常収入まであるのだからやった方がいい。入場料は子ども一人100円学生300円大人500円とかで一帯は海水浴場と隣接させ、夏はそっちと行き来のゲートも開くとか。日用できる地元民のためには年間1500円のやどかりパスポート、基本的飲み物と駐車券自由で3000円のかもめパスポート発行とかだ。これは運動場や憩いの場が少ない狭い市にとっては救いだし高校生もサボってつまらんサブカル買い物映画いかなくなるわおおうなばらをながめ心が広くなり多少荒れなくもなれば、災い転じてこういう機会にしか、GHQ農地改革以来のきわめて広い公有地はもてない。

一部には(可能ならばデザインを公募して、また審査は公開か投票させ、この市の不透明指名発注な土建票型公共物ではそうありがちだからできるかぎり野暮ったくならない)津波慰霊碑をたてればいいだろう。これは観光客にも「なぜ公園ができたか」「どうして天皇が震災直後お参りにきたか」を教えておとずれたひとへ過去におもいをはせさせ、次世代が津波と原発事故を伴う大地震による被災の悲惨を安易に忘れその貴重な場を悪用させないためでもある。

―――
*1 現物の砂浜じゃなくても(砂丘みたいになるだろうから)それに似た素材でもいいが、東京のお台場埠頭や大川端リバーシティ21の公園などでの実例があるけどにせの砂浜というものはあまり気分のいいものではない。
波の浸食での砂浜のかたちの変形、その洗い流しの効果によるまっさらな海岸線のたえまない復活という現象が、いまの段階では再現できていないから、もある。だから人工の砂浜まがい素材での偽物海岸線というのはきたなくなる、とかんがえていい。中郷の足洗や大津の風船爆弾跡あたりの「無垢な」海岸が最も参考になる。
現磯原海岸はテトラポッドで波をよわめ海水浴場化したのであの程度の砂浜の状態だが、完全に放置するとこのあたりの砂浜は理想的に綺麗になっていく。
この「砂浜を放置することによる美化」というのが磯原公園化の最も重要な骨。だからそういう工事のためには、防波堤を国道がわまで後退させ、むしろ砂浜のがわを広げるといいとおもわれる。海浜工学として。
 さらに、テトラポッドは座れるくらいの椅子がわりに使える。これは一つの「なにもない綺麗な砂浜」をつくりなおすわざとして。なにかしら海岸線に段差とか降りていける階段とかそういうのを、土木のみの業者はコンクリートでつくりたがるけど、どちらかといえばなにもない海岸の方が人々の心をまっさらに洗う。そういう場所は、人が入れる場所では全国をめぐると意外や少ないというか、無意識的ケインジアンだらけの土建国家ジャパンにはほとんどないものだ。
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by smartestone | 2011-09-19 22:32 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

教育と分業の社会生物学

人類の社会でいとなまれる文化は、ひとことでいうと「好み」の問いにかえる。いわば趣味のよしあししか社会の本質はない、ともいえる。
 これは生物学・社会生物学的にはこう説明できるか。まずいまの生物学の用語でいうランナウェイ仮説ってのがある。これは性選択(つまり結婚相手のえらびかた)に、特定の好みが加速度的にあつまっていく、という有性生物の傾向を仮にいいあらわしたもの。孔雀のとべない羽も鹿のつよそうな角も、このrunaway、つまり特定の特徴的行動に至った形質の暴走と性選択をとおして繰り返し強調されてきた結果、という説明。
 だから人間界を(宗教の目をわきにおいて)もし単に大脳のかなり発達した哺乳類の社会とみなすと、人種といわれる特徴やある人達にみられる強められた性質は、このランナウェイの過程によりえり抜かれてきた、とも仮説できるだろう。
 これらの実証には十分な議論がなされたとはいえない。ダーウィンが『種の起源』の素朴な進化論を発展させ『人類の起源』で展開させた論理(人の特徴も性選択の結果である)は、もしそのまま結論をおしつめると人種差別や民族偏見にもつながりかねないため、少なくとも道徳面では否定されたり逆のことをいわざるをえない場面がきわめて多い。しかし、次の観点をかんがえればよい。
 国際分業や社会分業の過程に、すべてのいまいきている人類がまきこまれているか少なくとも参加を欲していると仮定すると(さもなければ無人島で孤立してくらすほかないので)、かれらのなかにある現時点で社会的職業とか個性とよばれている特徴へのさまざまな変異は、この特定の社会について分業の進み具合とよりそっている。
 我々が走れない速さではしる人種がいるかもしれず、我々が解けない問いを易々と解く明晰な民族がいるかもしれない。これらは差別のためではなく、単純に国際的分業をすすめようとしている自然からの意思なのだ、とかんがえてみると都合がいい。勇気のあるたみも繊細なたみもいるだろう。力もちも秀才もいよう。逆にほとんどいいところのない特徴の薄いひともいるだろうし、わざわざ他人に害をあたえる悪さを習慣的にまでして人々の反面教育に寄与する変異もときたまみられるかもしれない。これらのすべては‘人種間の絶滅戦争’のためではなく、‘実力主義的な所得格差による競争的淘汰’のためでもなく、単純に仲間の能力のちがいを有効に活かしてできるだけちがう持ち場をしっかりと守り抜くためにあるのだともいえよう。*1
 この発想を、自分はいまここで「特徴の分業」となづけておく。これは社会学や人類学の面へ任意にあてはめたり、ここで印そうとした道徳的慈悲的・普遍愛的意味さえ失われなければなんらかの(できるかぎり実証できる肯定した文脈でのみ)形而上学にも将来的には応用できる可能性がある。

 人類は社会でしか生きていないし、完璧に孤立すればほとんど何もできないし熊や狼にすら無力なほど弱い。例えばいじめが発生する理由も、強すぎる社会淘汰の圧力がかかりその分業集団内でいわゆるつかえないやつに過剰なちゃんとやれコール(励ましか強制)がかかってきた結果なのではないか。いいかえれば「ゆとり幅」としてのつかえないやつのための仕事場や居場所が、どの社会でもいじめの様な残酷で非人道的なわるさがはびこらないためには必要不可欠なのだろう。はっきりいって、自分も経験してきたこの市の域は、こういうゆとり幅がかなり少ないといおうかほとんどない傾向がある。*2
 問題はすべて報道機関や警察庁や文科省や先進国の報道機関や国連とその関連機関や教育福祉系のNGOへ上告しつづけ、といっても最も単純には、どういう腐敗したことがあるかそれを解決するにはどうしたらいいか不満を手紙をかいておくればいいわけだが、不良教師もふくめ不品行とおぼわしきものをすべて文や言葉にして上告や外部通告しつづけるべきだ。
 教員の悪質はできるだけはやく別の地域、特に教育県とか教育性のたかい先進国の相談先(できたら英語圏、またはフランス語圏。国連での地位と実力のため)へどんどん暴露してしまうしかない。すこしでも疑問におもったらすべて細大もらさずそうやって上告しつづけるとよい。世界には「よい教師」や「すばらしい教育者」や「高い志をもつ理想的公務員」が無数にいる。このために、その不良教員は、みずからが適材適所でない‘まちがった特徴の分業’の地位へはいりこんでしまっただけの社会的エラーなのである。別のすばらしい、心から尊敬できる、そして我々の知識と社会の善を増進するための決してめずらしくない本来そこにあるはずあたりまえの教員は、この特徴の分業のことわりさえ生徒にわかれば、人材をとりかえるだけで、そしてそういう教師をこころから待ち望み行動するだけでかならずや数かぎりなく実在している(そのための教育学部が本来あるし、でもしか教員を丸除きなければならない)のでかならずや来るのである。どうしてもこなければ自分がはらった税金を教育詐欺による不当廉売として返してもらい、いるところへ行ってしまえばいい。まちがった地位についている不良教師は、市民の義務でもあるが、首にしなければ税収が誤用どころか悪用されているだけのはなしとなる。
 社会的分業の経過は、いずれ社会はよりよくされ、合理性とそこですごすことの幸福の程度が上向くとしらせている。なぜなら適材適所で努力すること、立派に(それぞれの能力と才能のかぎり、公共福祉に、人々の善としあわせのために)つとめを果たすことはほかのすべての社会にとっても、最も効率よく、さらにかれらの活動でうみだされる楽しみと喜び、立派な職業人への一層の敬いをますはずだからだ。*3


―――
*1 現実には真逆の、生存闘争としての暗い場面がいかに多いかわからないとしても、理想的にもしくは微視的には。なぜなら家族や会社といった全人類というほどのあたま数の多さをもたないかなり小規模の集まりでは、この職業分化というものはかなり普通にみられるのだから。「職人」とか「職業」、「役割」とか「仕事」、「委員」とか「ポジション」また最も卑近な俗語でも「キャラ(characterの略で仲間内の性格に合う役割分業につかわれたりしている)」という言葉はこの特徴の分業にかかわっている。それが固定化したり、流動性が低下したため適材適所ではなくなり一昔の言葉で意味している身分や門閥、門地とまでなると社会の合理性が阻害されてくる側面がある。だから特徴の分業はある程度の流動性と交代可塑性がつねになければならず、さらには試験や実地によってたえず適性のすぐれた人物をのぞみつづけねばならない。

*2 特に自分が磯原中学校時代、八重樫という社会の男の教師は竹刀で問答無用に子供を密室へとじこめ殴る蹴るを平気でしていた。この男は上述の「ゆとり幅」としての社会学的な特徴の分業が、ちっともわからないかしらなかったので、ちょっとくらい教育テレビでみたアメリカの学生のまねして授業中にガム噛んでみただけの少年たちを、死ぬか生きるかのすさまじい暴力、内部出血するほどの力で殴るける脅す、最後にはこれはどう考えても卑劣きわまる反則技だが膝であたまをけり、これは中野とかいった新任の体育教師だったが「クズだな!」と大声で威嚇し怒鳴りつけ、履いていたスリッパを生徒へ叩きつけ永遠に癒えない傷を心にも、この僕をふくめ言い分をゆるされなかったゆえ拷問にもかかわらず精神的なプレッシャーのため、おやへも黙っていた繊細にして純朴なる少年たちに負わせたのだった。要するに、磯原中学校という場所では数十年前に体罰がはっきりおこなわれていた。結局かれら八重樫・坊主あたまのジャージ姿の中野・女の教師だが高野というこれらの不良教師は、なるほど人類史のなかでみれば単に反面教育としての役目しかになっていない風にだれもに思えるかもわからない。実際のはなし、黙秘権を蹂躙して虚偽をふくむ自白を密室で暴力により強要した罪は永遠にぬぐいされないし、さらには威圧によって冤罪を被疑者の罪意識へ転嫁させようとし事実上は脅迫罪を未成年の子供へ侵してその口止めをしたにひとしい悪辣非道ぶりは当人らが永遠に償えない罪科を暗に背負うという人類史のかたすみで起きた因果応報のことわりしか示していなさそうだ。

*3 知的能力をかれらが自覚するならば、もし力仕事であれ、より高尚にして難度の高い課題へ挑戦していく知性をもつかれらの手助けであれ、そのみずからの故郷からそだった同胞の輪またはいくらかの協調性の本能を互いの善をそだて悪を責め合いより尊重されるべき人類の仲へ向上していこうとするちいさな努力と形質であると認識できるだろう。はっきり確認されたとはいいきれない、猿としてのむかしの経験からつながっている、もはや個人主義の時代にはほとんどほめられもしない群れつどう社会的いきもののありきたりなさがだとしても。
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by smartestone | 2011-09-18 13:38 | 学術論 | Trackback | Comments(0)

ごくすぐれた発明と実証例

http://www.amnh.org/nationalcenter/youngnaturalistawards/2011/aidan.html
http://megalodon.jp/2011-0823-0854-26/www.amnh.org/nationalcenter/youngnaturalistawards/2011/aidan.html (ウェブ魚拓、ミラー)

この記事は本当にすぐれた人物と発明・研究をのせている。
 フィボナッチ数列(1、2、3、5、8、13、、と一個前の数を足し合わせて行く数列)が自然界のあちこちにみられるのはよくしられているが、それを樹木の観察から応用してソーラーパネルの傾きにしてしまった。というのは本当に感心するすぐれた発想だし、この参照先にのっている実証したデータもシンプルだが説得力のあるものでこの生徒はきわめてすぐれた学習知能をもっているとわかる。
 13歳というのは日本では中一だから、心から感嘆する才能というほかない。これからもこの子には期待がもてる。順調に才能がのびていくのを願うばかりだ。

 昔、セザンヌという画家がこの樹木の葉が光を乱反射させる効果をうけとって初期のキュビズム絵画(印象派とよばれている流儀の発端)に応用したことはあったが、まさか実用主義的な思想がこういう方面に応用をみつけるとはおもいもよらなかった。こういう才能がいる、ということはアメリカは発明にすぐれた天性を蓄えたりそれをきちんと表明させ社会的賞賛や公的発表に結びつける土壌があり、なおかつ一部の個人には数学であれごく高い理解力を仕込んでいるのがわかる。
現状の日本、かつ常陸の國の間ではいまだ及ばないところだ。こういう才能も爆発的に無数にうまれたとき、我々はアメリカからも日本本体からも仰がれるはず。

 この発明が実際に大規模商品化されるかは不明だが、特に日照条件のわるい北国ではかならずや実用の余地があるだろう。特に日照時間の少ない冬をみこし屋上庭園の一部や庭に設置させたり、いま日本ではひろくみられる照明器具の上部にデザインさせて十分な電力を確保する、といったことはある程度の資本が興味をもてばすぐ実現できる。特許権や商標をも長らくとったりするためには「広く公共の工学雑誌」に名前入りで掲載するのも手だろう(勿論この程度のかなり権威ある公募雑誌をもつ学問・学術の風土があるのが前提で)。それで仮登録状態となり名誉は確保されるだろうし、類似の商品は模倣とみなされる公式見解があらわれる。そうでない学術文化の未発達な風土では猜疑心の為に発表をためらうかもしれず、あらゆる面に社会損失が膨らんでしまう。
 理論そのものには独自の価値があり、すぐれた理論そのものも(あるいはそれこそ、最も)ごく価値の高いものだが、アメリカのもってきた実用主義的傾向には技術方面の革新をなしとげる別の利点があるとおもわれ、実際にそういう風土から出て来たろうこの一つの実例はシンプルさといい独創性といいこころから感嘆する発明だった。このAidan少年がなにかの機会に茨城県や日本国を訪れたら是非まねいて(茨大工学部か日立市内の学校など、どちらかというと学群構成で研究主体っぽい筑波大も)、何か経験則としてそこに至った原因や勉強方法をききとった方がいい。この少年は現時点でまちがいなく、人類史の偉人に匹敵する超秀才の部類に入る。
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by smartestone | 2011-09-17 22:31 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

高萩署員の手抜きと違法広告のこと

「RETREAT」とかいう名前を掲げている、磯原の1000円カットのとなりに今年はじめたらしい店(どうやら女が経営しているらしい?)の、二階へあがる階段の場所へ違法営業広告の貼紙あり(2011年9月14日時点)。これは風営法16条(広告及び宣伝の規制)に違犯した歴とした犯罪である。

 市内で自治警察がいないことが原因かしらんが、本当に手を抜いている。あんな違法の広告許可して、高萩署の警察官はろくでなしとしか言い様がない。法律もしらないで警察官になれたのが不思議でならないが。
見回りもできない、取り締まりもできない、法律もしらない、なぜか不公平にも違法な広告を放置(しかも小学校や塾の数十メートル以内で公然と掲げているのだから当然、この点でも規制条例に抵触している違法行為だ。見逃す理由は一切ない)、なら税金の無駄だから即刻首にすべきだ。やる気のある人材はいくらでも控えている。税を喰うだけ、存在するだけ仕事にならない老害警官はすぐ辞めてくれ。
 北茨城市の警邏をまかされている責任感がないのなら、高萩市そのものを吸収してでもかれら無能な警官を首にしていくしかない。さもなければ市に住んでいる人間自身が市内の違法行為を取り締まることすらできないのだから、市民の公権力が阻害されているにひとしい悪質な状態だ。
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by smartestone | 2011-09-14 01:24 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

水戸とロンドンの地政学

水戸市が高層化させない市街地の高さ規制は、人口に比例した金の多さを統制された景観のために否定する道でもある。

 様々な日本のお國事情を見ていくと、この列島の人々の関心はほとんど金に集約されていると思えてならない。
福沢の富国強兵時代から高度成長なるもののあとまで。この期間に犠牲にした文化や風儀も多いか。

 しかし、厳正な現実としてこの利害打算の商人気質をありがたがる力が大政奉還以来、一貫して国民性を蝕んでいった又は国民の行動指針になったのはまちがないし、これからも「人間のさが」はそれほどかわらないだろう。何も大阪だけの話ではなく、権力闘争そのものも大勢はこの富の格差を利用して行われている。
 関西連合が矛盾しているのは、この富の格差を否定するつもりで首都圏を敵視し侮辱しているが、実際には関西圏は富の力で権力を奪い返そうとしているわけだ。だからこの論理の背きは彼ら自身を自滅させるはず。司馬偏見と同じで。

問題は天職を通じた「社会奉仕」の結果としての富が現実的な文明の最も目立つ指標でもある、という事実だろう。

我々がなにかにつけ見る、横浜や神戸への贔屓目はその富の為というより単に貿易港の開放性に由来している。そしてこの偏見は必ずしも精確ではないばかりか、間違いを含む。これらの地域の治安の悪さや風紀の悪質さは見逃しにできない。

 こうして水戸市が高層化をあきらめることは、必然に県都が人口比からくる商業的覇権をほかの地域より弱めることでもある。なおかつ内陸部のためどちらかといえば無限の開放感をうしないやすい土地柄は、富についても無限の進展を約束しなくなる。
つまり「学術文化か政治経済か」という選択肢のうち、前者へ集中しやすい県都の意向があるといえる。
なるほど水戸市は(ほかの訪れたことのない日本人が想定しているより)はるかに美しい、緑や都市公園の不断な珍しい、事実上の首都圏の利便性も高い住みよい都市であり、この地位を維持するのは計略も含めてかしこいことだ。茨城県民のおよそ経験的に遭遇できる全般が(たとえこの現在の最北部でも)いくらか水戸っぽい気質に感染している意味でも。

要するに、茨城県の策略として最も合理なのは「学術文化」側に世界へ威を張る事で、人口比ではなく市民の文明度の面での高度さをはかるにある。ただでさえ弱体な連中はこのバリアの為にびびったりおっかながって入ってこれなくなる上、自然に知性選択的な(魅力の面での*1)吸収効果もあるだろうし、人口密度をかなり抑えながら富を維持するにもそれしかないというか、それが最善。
 現時点では筑波大学、鹿島アントラーズ、(愛県民や日本史好きは別として辛うじて観光客にしられてるほどしか知名度はない)弘道館または水戸って名前か水戸黄門ならびに納豆像、あとは日立駅か日立という企業法人名(ただし本社はもごもご)くらいしかこの面での見込みは発揮されていないが、当方面で東京や京都などはるかに追い抜き世界と先を競う地位に至るのが必要だ。この地位によってのみ、県都が高が塔一つに配慮して低層で我慢していても尊敬を勝ち取れるだろう。まずはこの面で東京を追い抜き、そして古都のプライドにうずくまった京都をこえていくしかない。
(これらの面でも地形そのものが常陸の國に似ていることもあるが、地球で最上位の先輩格であるイングランドの諸都市が最も参考になるだろう。彼らが近代史において事実上、オランダ無敵艦隊を打ち破りドイツ軍からの侵略をふせいだのも何らかの地政学的有利さの理由があるはずだ。ロンドンという都市のつくりは、現時点でも水戸に最もよく似ている。
那珂川とテムズ川沿いにつくられた城塞を起源とし、どちらかといえば寒冷な温帯で、しかも高層ビルが特区をのぞいて少なく緑が多い。現皇太子もオックスフォードでテムズ川の研究をしてきたので、この点、好学性のある水戸市とわかりあえるところがでてくるはずだ。)

内陸部で、数々の実例からも同族意識が過剰になりやすい水戸市ではなく、より開放性の高い大洗町の側(太平洋を一望できる位置)に県都の本部を移動させる、という将来策も考えられるが、これより先に上述の計算をねりあげて着実に成果をあげていかねばならない。


―――
*1
都道府県魅力度調査ごときにびびりすぎて磯山さやか氏起用とか、愛想よくしようって魂胆なのだろうがあまり性格にあわないことをしてもうまくいかない。どちらかといえば「控えおろう効果」が茨城県域にむかしから住むひとの癖といおうか気質として散見される事が多いからだ。こっちの伸び幅の方が、普通に考えて女性の人気を買うことに注意する必要がある。県政のなかの戦略的男がなぜか美人としての磯山さやか氏(当然、仮に複数の実例からもしその女性の「たち」に、ある種の気づきのある者がいるとしてその美乃至美と目されるべき特徴それ自体がそれらの事例によって否定されるいわれは寸分もないわけだが)をたててるわけだが、これはかなしくも似た様な主観をもつ男性(要は茨城県内の同質な県民のひとびと。特に‘ミトッポ的人格’)しかひきつけないというおかしな話になっている。当然、これらの方針ではさらに同質性をたかめ、県外からの批評にかなうとはいいきれないことになるはずだ。客観的批評をひろく世界、すくなくとも先進諸国に求めるときに、適切な県民の魅力を我々以外の者から仰ぐことができるのであり、我々の主観がそのまま魅力度に直結するとは限らない。
 助さん格さん役をできるだけ格好いい俳優にやってもらう方が現時点では、茨城県らしいadvantageを多いに生かす宣伝効率がある。
 さらにいうと、北茨城市あたりのこまやかな自然からそだつ人の気質は(土台が戦闘的環境とはいえないいわき市からの血の流入もあって)、水戸市出身者よりその愛想よくふるまうって面で役立つばあいが多いはずだ。ここに土着している人の中には、しばしばこういう気がききすぎる性格、異常な繊細さがある(詩人が出ている時点で)。勿論そういうひとは少数だが傾向として時たま実在するのを自分も経験則として知っている。彼らは、むしろ人々に好かれる効果しかもっていない。
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by smartestone | 2011-09-07 08:19 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

ということで壊さないでください

このままだと数年以内になくなってしまうかもだけど、いまの市立病院のたてものはあれでかなりすごいものだから、もし持つ耐震改修をほどこすならなにも壊すことはない、って真理にきづいた。あたらしい病院を「公共事業投資」としてつくるのは、何もしないよりは不景気の中でいい(勿論、もっと福利耐久性の高いなりわいへのそれ、なら猶更いいのだが。教育水準もそれに入る)。
 だがまだつかえるたてものを壊してしまう、というのは、あかねひらのときもそうだったが、まことに勿体ないしいきなり思い出が消えるので全然よくない。何だったんだあれは、くらいのかなしいできごとになってしまう。Scrap&build、はよくない考え方、又はあまりになりあがりでbubblyな姿勢だ。特に、それが持ちのいい種類の投機だと、ますます不経済となっていく。欧米、特に戦乱からはなれていたイギリスの古い城郭や地震の心配のない建物は、くりかえし使われる中で風格が高まる、という「経年優化」(要は「趣」)が見込まれていくので、観光資源にもなれば人々の精神的安定にも寄与している。他方では旧態墨守が欠点ともなりえるが、これはすくなくとも経済的にはあたらないということができる。使えるもの、特に構造のしっかりして手の込んだ建物は維持された方がよい。

たとえばあの病院をそのまま市立大学の建物にしてしまえばいい話ではないか? 病室はかなりまじきりをとってあたらしく塗りなおしたり、時のたつ風格のでやすい赤煉瓦などを表面に張って広い教室にすればよく、庭というか、テニスコートあたりを駐車場の場所につくりなおせばそれだけですむわけで、このテニスコート用の設備はすでにいまの北茨城高校あとにあるものをもってきてとりつけるだけでいい。あるいは教壇とか机とか体育館の中身とかプールの設備、これらも新病院建設のまえにすべて一時的に別のところへ保管し、この市立大学の備品として転用すればほとんど経費がかからない。というか、新病院建設の費用の一部をちょっと補填するくらいで寄付すらいらないくらいで済むのではないか?
 あとは講師を、募集した生徒から集める学費で雇うしくみをつくればおわりだ。まことにいいアイデアを思い付いた、とテトラポットの乱立で砂浜がへりおちこみの激しいかもめ界ではもっぱらの大騒ぎというかおまつりさわぎである。磯原だけに砂浜ってか磯の原がないと元気がない。
教育委員会とか市議会、あるいは公聴会や市民アンケートで教育内容を精査し、特に一流の学者をできたら英米系の一流の大学または筑波大・茨大・東大から”adviser・supervisor”として雇い入れ、かれらの忠告を入れるべきだ。自分がおもうに、これは大それたのぞみとおもうかもしれないが、スティーブン・ホーキング氏かリチャード・ドーキンス氏に意見をききたい。彼らは超一流すぎてやばいとアカデミズムからはいわれるかもしれないがしろうとの強みで何でも体当たりでやるべきだ。そのくらいこの地域は知識に遅れている。
日本でいうと、岡ノ谷一夫氏や筑波大つながりのあるノーベル賞受賞者の方々か。どういった学部構成にしたら世界の学術界についていけるかをききとって、その方針をとったらいい。ただ京都大系のひとは土着化されているほど、自分の推察や経験則では京都が一番と思ってるから東国へはあまり素直なアドバイスはくれない可能性が高い。そして懸案の美術関係施設、って構想があったわけだが、この市立大学と関連させて講座なりアトリエなりを大津駅前からあのできる道路で天心記念までひっぱってけばいい。

 一般に、成功する大学は「市街地から離す」必要がある。これは学生を学際環境へ閉鎖あるいは幽閉し、若者特有の血気から遊べなくするため、学業へ集中させるためだ。この点、あの市立病院あたりはほとんど遊び場所がない。ただ一つの懸案は、国道に面してゲーセンやらショッピングセンターやらパチンコやらが建つ余地があることだけだが、これらもパチンコだけを未成年入店禁止の条令でもつくればそれほど強い求心力をもつわけではない規模なら、彼らを堕落させる可能性は低い。
 この市立大学の学生の対象は、おもに地元の高校を出た生徒ではないか。それが今の段階では妥当だ。彼らを事実上収容する高等教育機関が有徳なのだ。ここらでテキトーにあそんですごすだけでは本当に人類にとってよい影響を与えることはできない。そのくらいの人というのは、日本を含め無数にいるからだ。
特に日立圏の技術力をおしあげるタイプの学生、つまりは理系のつよさを鍛えてから社会に出すなら、風評や放射能で第一次産業の全盛にはあまり将来性のとざされてきている、このあたりの工業力はより強化されていくとおもう。さらには美術や芸術の土壌はもとからあるのだから、純粋に地元から従来の日立マン的なキャリアが順調に育てばそういう郷土人たちはたとえば日本にとって才能が欠けていると言われる(つまり需要が高まりつつある)工業デザインの職能のよさ、へひとりでに結びつく可能性が高い。

これらの改修工事をおもに緊急雇用制度として手に力をあましてる漁師たちを使って安価な報酬ででもおこなってもらえば、難局ものりきれるし、松本氏の道徳感も立派に結果になるだろうし恨みっこなしで調度いい。
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by smartestone | 2011-09-05 18:05 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

英語公用化の先取り

流れから突飛にきこえるのでこの市では鴎一匹しか納得しないだろうがというかもっぱらききながすだろうが、この市はもう英語を公用語にいますぐするしかない。しかも第一公用語に。
 日本語圏ではまずすぎる。その僻地言語っぷりはかなり抜き差しならないところまで追い詰められている。こんな経験則や勘にたよった非体系的なわけわからん言葉は、日本でそだった人たちをのぞけば余程のものずきな、しかも何かしらかたよった研究者(要は変人)へしか通じえないのだ。『日本語とは勘違いされつづけるにすぎない』。
できるかぎり、地球の事実上の標準語である英語を公に、大々的に、生活圏で最も先に採用するべきだ。無理にでもやってれば慣れる。それを強制せざるをえなくするには英語圏の人物を様々なポストへ多数導入するとかも有効だろう。
我々の方言のたちばからいっても、東京語を習得するよりはむしろ英語をとる方が我々へ有利だとしるべき。
この様な「通じない言葉」をわざわざ習いとる意味はほとんどない。
ただでさえ内向きで冷たく風変わりな民族に、ますますおもいやかんがえやしったことやこころやあたまのなかみの表現力が欠如しても何一ついいことはない。万に一つ得したとしても、「へえ変わってるね」級の反応で永久に世界から忘れ去られる。どちらにしろ我々旧来のだっぺ方言は文面上は覇権をもってはいないうえその見込みはまずないのだから、進むことはできても退けない以上、できるかぎり先に進むしか道はない。

今、藤原正彦氏ら保守論客が日本語イコール国語 復興論みたいのをはじめている。しかし、はっきりいってこれは間違いである。国語など、厳密にいえばどの時点でも固定されたものではありえない。この「国語」なることばそのものが大日本侵略主義にともなう悪である。漢字廃除運動すらしていないのだからほぼ100%、倭民族中心主義の狂信洗脳でしかないのだ。
くわしくいえばどの社会にも国語などない。あるのは「事実上の公用語」だけだし、そのどれも常に進化や展開のさなかにある。
 さらに、現時点の日本語は弱小勢力のとるにたらない方言でしかないし、同類の決して地球中で最高に強壮や文明的科学的ではないたちばからいって今後ともそうなる。
第一言語が英語である人達に比べれば、日本語という方言の土壌は事実上、ハンディキャップであり負担なのだ。完全に無文の社会よりはましかもだが、それでも決して最上等とはいえないたちの。
なぜなら、はっきり言ってしまうと和文なるものはろくでもない文献(いわゆる倭歌物語小説の卑猥な、もしくは感情表現とフィクションにかたよった文芸のたぐい)が相対的に多い言語なので、総合してみると自分よりずっとすぐれた言葉、特に科学的な原文の多い英語からまなびとることの方が、それらの方言体系(ならびに古文の再習得)を旧態墨守るより利益率はずっと大きい。

仮に日本語もしくは茨城語という方言が完璧にはなせなくなる人が過半数より出たら、このときはじめて方言のよさを部分的にルネサンスるくらいで調度いい。しかもこのばあい、孫世代とコミュニケーションをとるために祖父祖母世代は英語圏の言葉といくらかの文化を習得せざるをえないだろうから、ぼけ防止とかをこえ中高年への定常的教育効果がある。
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by smartestone | 2011-09-05 08:56 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

市民の自治権

どういう訳で茨城新聞のひとが豊田稔氏と組んでるというか近い言質をひろってるか不明だが、当人に善意志が、こころざしとしてあるとは認めるにせよ、この人物は割と独裁的な傾向をもち(全員協議会なる密室非公開議会が、市議の直前にある)、さらにいいづらいが決して知恵のものすごい方というわけでもない感じだ。こんなにやんわり言ってるのはよくないのかもしれないが。
 震災直後の災害対策本部というところの連中は、柄がわるかった。まあ単にひとあたりというのをしらない野生ということで、いつものごとく根は善意もなきにしもあらずという世界だろうが。
さらには、東京や大阪や、ばあいによっては水戸からさえその点ましなのかもしれないが、官尊民卑もしくは上位下達の傾向がある。自分はあのとき感じたのだが、日本に在来している人は、つくづく社会の作り方も性格もアメリカ人とは大きく違う。口で民主政だかdemocracyとはいうが、実際の民衆は儒教と仏教で教化されてきた時代の長さからか従順で奴隷のごとく大人しい。これが長短どちらの面でもあるわけだ。

よく日本は集団主義的でアメリカや欧米は個人主義的な傾向として類型化されるが、本当にそういう性質があると思われた。おそらくは水田稲作の協同作業と、儒仏の思想がそうさせたはず。アメリカはご存知の展開なので狩猟民のたちの方がつよいのだろう。

 で、しかし、もし地球人類が狂暴かつ狡猾な紳士ぶった獣類道でしかないなら、豊田稔氏はよく吠えるが小さな獣類ということができるかもしれない。というのも、この市ははっきりいって防衛力どころか警察権力すら殆どない異様に平和な農村社会の延長だからだ。吠えども吠えども、東京やニューヨークやロンドンの足元にも及ばない。
市、いちというのがcityと訳されるから外国人は都市だと思うひともいるだろうが、最大の目抜き通りでも街というレベルだ。それが気に入って定住しているひとが多いのはたしかだが。そういう風に大都市よりも、田園側に共感している人が集まり易い条件にあったということができる。

 結局、この田園好きという面でしか北茨城市という地域がとうとばれる余地はあまりないきがする。まあ慣れにすぎないともいえるだろうが。
 要はこれらすべてをとっても、身の程しらず的な言動は慎んでほしいな、誤解されると困るな、ここ単独でできる事なんか殆どないですよという感じだ。或いは自分もそうだろうが。具体的にいうと誰が首相になっても同じとかでかそうなことかます軽口を茨城新聞記者から取材されて、豊田氏はぽろっと記録にのこさないでほしいわけです。時の首相に喧嘩売ってるにすぎない。
しかも、精確にいえばだれが首相になっても同じなんてことは基本的にないわけだから、「期待できる優秀さを示して早期復興に才覚ありそうな人はどうやらいまの国会議員の中には数少ない様ですね。どちらかといえば奉仕活動にきてくださる外国の方や、地方や省庁の中に多いのではないですか。ここはここでそれなりに深刻な被害があったので」、というのをいなかのぶっきらぼう省略すぎる朴訥弁にまとめすぎているきらいがある。繰り返すが、ただでさえ怒りっぽいと水戸っぽの影響をとり糾される水戸藩下なので、喧嘩売ってるだけとあちこちから誤解されるのはおおよそまずすぎる。
 もしかその意図が「市民主義」とでもいおうか、市民の利害を一国の首相の意志よりも重視するといったある種の公徳心からでてきている特定の立派さなのかもしれないし、それ自体には一定の尊重の理由というか理念があるのでしょうが、単独では殆ど国家へなにもできない程度の実力をよく自覚した方がよろしい。そして公共の場に出る発言は、公人ならばなおさら本当に注意した方がよい。というか徹底的情報管理しなければならない(おもうに、実験にすぎないが、広報はいまなら副市長がやればいいだけではないか? 何だかんだ言って比較的ぶっきらぼうになりがちな水戸系井中とはいえ女性の口から暴言が飛び出す確率は、人格にもよるが、幾分低いのではないか?)。
さらにいえば、巨視すれば我々の全員は一国の首相からみれば本当にかなしいくらい小さな集団であり、石原慎太郎都知事のいう「我欲」のかたまりとして働くエコアニ団塊ってか近代人、は縁もゆかりもないこの市を潰そうがその全員がどうなろうが金、金である。または軍事バランス。このどちらかしか評価軸がない、ってのがいまのこの星の国際社会のレベルなのがむなしすぎるところだが。

 菅直人が震災のあと、予算委員会かなにかのどこかの答弁で規模が数倍もちがう阪神大震災をひきあいに、「神戸市という力のある自治体が」とできるだけ東北のひとが不利になる様に、自力で復興しえない自然災害は自業自得でしょ俺たちがお前の払った税はとっちゃうからねと暗にいいたげな、ケチの下をいく人でなし発言をした。しかも血税暴食しまくっていながらにして、震災孤児は無視、義援金配布も促進せず事実上おくらせ、金勘定で特定営利事業者と公然癒着しながらにだ。
神戸は大阪のとなりなんだから人口が多く財政規模がかなりあるのも理解できるが、要は西日本由来の一般性向として華夷思想または明治テロ成功思想があるわけで、この二つを結びつけると手に負えないまで悪増長する証拠は白虎隊の墓というわけだ。
菅直人の行動は、かれが山口県の出という自称の野心をさしひいても東日本冷遇の時間かせぎだったと言うしかない。まあ天からみれば「旧敵に奉仕する」という役割を与えられ、強制された分だけ世論から無理にでも反省させられたという側面があるかもしれない。そもそも、毛利氏の敗退を根にもっている様な側面も、タモリ語でいう根暗であり、やはり西のはての日の沈むところだなという話になるが。

で、ニュースによると、神戸は関西連合とやらから直通の、(中央政府発の大阪のとは別の二重目の)災害対策本部をもうける場所になったらしく、関西都市圏は単独でやはり利己に動きたがる傾向を示している。
 ネット上で関西圏の庶民らしき人物らが、電子掲示板でかきちらす繰り言をみていると、それはそれはひどい。はっきりいってしまえば民の度合いとしては心底が下劣なひとたちだと思う。かれらのうみだしてきた文化や歴史からもそう信じる。華夷思想そのままで他地域と人種差別をありとあらゆる罵詈悪口でほざくばかりか、東京都やそこで住む人々への誹謗中傷は人間業を下回っている。あげくにはノーベル賞受賞者は全員が関西人だとか捏造まではじめている(現実には過半数以上が出身を東日本と満州にもっているノーベル賞と出身の関係参照)。
だから立派でない人達の盤石の地位は、全体として日本の足をひっぱる結果になるはずだ。もし彼らが海外からも同等の批評眼にさらされれば、我々が得てきた信頼も失われるだろう。もしそうでないとするならば、遅かれ早かれ京阪神もその他の地域も独立していくだろう。
ドナルド・キーンというアメリカから帰化した日本文学の教授は、古い文字記録が高い搾取率をほこった宮廷に偏在しがちな条件から、日本国内のほかの市民文明の高い地域をも単に文字記録がのこっていないとかその豊富な変移が継続的持続的に観察できないという「文芸中心主義的差別史観」を平気で、英文ってか米文で全地球に流布しまくってるから純血倭民族以外には大変な危険人物である。かれはおそらく単なる好奇心からあれらの一連の業をはたらいているに違いないが、同時に当人のアングロサクソン系の自信過剰な性格からそのかたよって書かれている偏在した文の理解がそのまま、日本やそこで在来した人々の理解であると誤解しているふしがあってますます危ない。
あんな最低最悪な頽廃宮廷のよみものなど人生で一度もみたこともきいたこともなく、知れば怒りのあまり倭の皇室をうらみ憎み廃除したい人間が日本にどれだけ多くいるかはかりしれない。自分はこの「不文の御霊」がドナルド・キーンを祟るきがしてならないが。本当の話。日本の大昔の有文階級、いわゆる公家はその点で確実に東日本や東北や、あるいは九州や中国地方を裏切ってきたのだ。
けど帰化したみたいだから、いずれ彼自身をそれがおそうことになるとおもう。自分は飽くまで在来の日本のひとだからこの力をこわさ、歴史の鼓動といおうか、業のすさまじさを肌で感じ取ることができるのだが。特に水戸藩史をしればますますそうおもわざるをえない。
なぜ元冦以来、それまで中華思想や朝鮮人技術者の輸入で在来日本の人種を貶めたり貢がせたり暴力で侵略してきた倭の王が実権を失ったかみれば、この島の是政者の業はある古典的道徳に誘導されているのがまちがいない。はっきりいうと防衛者の義務と、実際の防衛行動を必死でおこなった武士への義理を怠った倭王への報復の為だ。
それをいいあらわすのに水戸学は大義名分という朱子学からひろった言葉をあてたが、要は「是政者を立てている」のはやはり、ほとんど奴隷の様に従順にみえる民衆の無意識なのだ。
この正義感の平衡が鎌倉幕府と戦国時代とGHQを招聘したのだ。あてつけという側面もあるといわれそうだが、少なくとも一定の巨視で歴史をみかえせばそうなっていく強い潮流がある。

こうして豊田氏が「だれが首相になっても同じ」と発言するのは、特に北茨城市という関東極北の小さな彼の行政統治権の及ぶ範囲に積極的なよい影響を与えてくれる何らかの奇特な人格はいないだろう、という諦念まがいをふくむはず。ことだまという意味では、私を含めてあの震災の当時とそれから続いてきた余震にともなって起きた好ましいともいえない恐ろしい変化は、その後に起きた数々の南方の人々、特に東京以西の人々の心ない発言や実質上、逃げ出す道をみつけだそうとしそれを画策させた是政者(被災者のたましいを差し置き、神戸に関係して都知事へ副首都構想をふっかけた某議員と大阪府の知事、想定をこえた自然災害で弱っている隙につけこみそれに便乗し天罰発言とかおそらく倭王の移転まで謀略していた石原慎太郎自身。どれもこれも相手の弱みに付け入るという卑劣で、スポーツマンシップのかけらもない卑劣な業)のおこないのすべてをみて失望し、傷つけられ、ある腐敗にまきこまれているとしか感じなかった。
 自分たちの中には神道という信仰の体系がしばし見受けられる。実質上それは祖先崇拝という維持された農園領主への素朴な信仰に端を発している。中国語では報本反始というそれは、もともとは自然崇拝、animismであった古代の観念を農村での保守道徳へおとしこんだものだった。(倭人がそうおもいこむのとは違って、多くの地方、少なくとも山深い農村では人々がまだこの倭人の王朝へかこつけた新しい思想をもってくる「以前の姿」が生きている。彼らは天皇やその祖先を拝むのではなく、土地に雨と慈愛の恵みを与えてくれる自然の四季の循環をカミサマということばでその最も素朴な道祖の姿に祭っている)。
 自分がこの市にやってきた倭の王の末裔にみたことは、かれらの思想は決して普遍的道徳ではないだろうという見解。かれらは朝貢によって栄えるという中華帝国の類型をまねて日本という島の自立を偽造した。だが、我々は進んで朝貢したとは決していえない。
事実上、それは暴力団による市場の寡占にすぎなかった。この類型を理解すれば、なぜ帝国主義化した倭の王族とその指揮下の軍部があれほど蛮行をアジア一帯で働いたかは(その王自身のいいわけにかかわらず、)はっきりしている。かれらの祖先そのまま、その形質は暴力団長なのであり、他の職能はもっていない。だから国家神道として明治テロの際に統一化されてしまった土着信仰は、決して聖なるそれともいいきれないだろう。特定の民族の人種崇拝を祖先への素朴な信仰にかこつけて固定化させたのが、明治憲法ではっきりと国教にされた国家神道だった。

こうして倭の自己崇拝の体系は根本として欺瞞であり、そこには決して普遍的正当性があるわけではない。我々が西日本の勢力の懐柔により倭を横暴しえなくしてきたことはそれ自体として、防衛者としての行政の義務の啓発でしかなかった。
同じく、北茨城市というこのちいさな適所へも倭の支配正当性がない、とはっきりさせる必要がある。いわば我々自身がみずからその自治権を、倭による古典的専制支配の朝貢体制から奪い取り勝ち取るしかない。自治権を確立する事は事実上、市の役人の意識と体制をもかえることだ。驚くべきは震災の際、かれらは上位下達を盲信し、市民からの陳情をいれず、びくびくしながら上司の命令を待っていたのだ。仕事は市民奉仕そのものなのに、だ。
この理性の致命的退化は、結局、みずから自治権を獲得してこなかったという歴史の深層に原因があるのだろう。だから今からでも遅くない、市民自身が倭の偶像を象徴とする日本国から離脱すべく、完全な自治権を獲得すべきだ。腐敗した日本国政から外に出る必要がある。その為には、特に十二分な防衛能力を発達させきる必然性がある。
 三菱重工業は、三菱財閥のもとが海援隊など高知出の下士の将軍権の増強に意図があった。ゆえに軍事産業の意向がある。しかし、すでに米英系の軍事能力は、内乱も外患も少なすぎる実戦をへない日本をはるかに上回るのがあやまりない。ここから、米英の兵器を購入し参考に軍事力を習得し、あるいは三菱重工業を将来的に活用し、倭系の文化や国に依存しない判断を大幅にできる、交代可能な君主をふくむ体制をつくらねばならない。倭王の君臨体制は上述の如く、その祖先崇拝をかねて自民族か自人種中心主義をともなうので遅かれ早かれ致命的に危険だからだ。
というのも、この倭民族(広域でいう日本民族)が地球内でも少数勢力なうえ、一般に能力の面で他の民族から劣る面も多い以上は、この少数民族集団に依存しているかぎり我々が広域に於いて防衛をまっとうしたり十分な才能をはぐくむのは事実上不可能だ。
 しかし、おそらく最も有利なのはほかの関西圏や西海圏の諸国がなんらかの動きで日本国を離脱か部分的に行政権を分割しはじめたあとで機を見計らっての実行であり、これ以前に拙速なことをするのは賢明ではない。特に石原都はもっとずる賢い意向をおしかくしている(というか、具体的には関東の全勢力を分割し、できるかぎり自身の出自である神戸へ首都圏の財源を植え付けたがっている)うえ、発言にもしばしみられるがより広い適所をほしがっているので、少なくとも茨城県や栃木県、群馬県の全域がそれぞれ単独で関東圏の共通性へ反抗してしまっては効果がないか逆効果にすらなる。当然、県政の側では百も承知な事情でしょうが。
要するに、東京都の石原都知事とその関係者の裏切り(これは政治としては100%ありえる)にだけ注意してそれをすべての手だてから一切封じ込め、あとは準備を完成させていればよい。その後、周辺国が追随してきた場合だけ協調し統合をはかればよい。それ以前に軍事上に最も有利になる契約と実践的盟約を米英の軍事拠点と結ぶ必要がある*1。

また次の様な反論があるとする、この市にかぎっていえば独立などよりも広域連携の方が得があるだろう。なぜならただでさえ財政規模も市場のそれも小さいので他の地域へ単独で対抗は無論、匹敵できるはずがない、と。
これには一理があるが、問題は上に書いた‘自民族中心主義’の悪影響(それにともなう少数派としての退化)の方であり、これを改善できるなら規模は問題ではなくなる。倭は決して抜群に優秀な民族ではない。彼らの利点は単に和とかれらが自称している融和政策のたくみさ、にのみある。我々がかれらにのみこまれ短歌という形式をとりこんだのなどはその一例だ。この形式で最も大量の資料をもっている倭が最も有利になるそれを広める意図も、やはり自作の宗教神話にもとづく自民族崇拝でしかないのだから。
 また別の反論があるとする。イスラム勢力とのバランスの面で、いまさら米英と結ぶのは危うくないかと。
しかし、イスラム原理主義の勢力すくなくともアルカイダ含む過激派と結ぶ事は、当然それより危うい。なぜならこれは事実上はテロリズム肯定教の洗礼なのだから。日本のなかでも、薩長系の社会は過去の経歴からもこれにかぶれやすいのはまちがいなく、将来的にはかれらの特攻terrorと、東日本のどこかが何らかの衝突が皆無とはいえないだろう。たとえばスペインがイスラム勢力で一時期支配されたのは、日本ではそれによく似ている熱気的同質性な山口県系の社会がそれに近いたちばにおいつめられる可能性がたかくある。萩市は特に僻地で同質性が極度なので、歴史にみてもこの可能性が最もたかくある。
さらには、これらをさしひいても、なお日本から行政圏としては離脱した方が宗教を可塑的に容認させえる面で有徳である。国家神道の象徴を硬直憲法にさだめている日本国は、はっきりいってよくない社会であり、麻生氏のごとく現皇室と近縁すぎるばあいこの人種差別観は極度にいたる。
繰り返すが、我々の在来種にほかのすべての民族をはるかに上回る能力の持ち主が、ほかのすべての民族を自動的に駆逐してしまうほど圧倒的多数で存在するとはいえない、という社会勢力上の劣位に自覚せねばならない。逆にこれらの圧倒的優位者が過半数を占める社会こそが本来のあるべき文明の度合いなわけだ。
米英や仏の旧連合国側ができるだけ別の人種へ門戸をひらいているのは、こないだのノルウェーの事件の様な少数の例外はあるにせよ、この「社会的な選択によるより優秀な人種とそこからなる文明」の形成へ積極的でありなおかつadvantageというわけだ。これは北茨城市についても完全に真理と考えるしかない。
自分は、正直なところ米英、特にイギリスの系統にはいい面を期待しているが、朝鮮系の人にはあまりいいきをもっていない。これは飲み屋とかパチンコ屋というそれ系のろくでもない仕事へ朝鮮人が多い(さらにはろくでもないダンスの歌手も多い)という経験則から言ってるただの趣味だが、それは多かれ少なかれ東南アジア圏の出身者にも共通なうえ、結局は社会選択にまかせるしかないところだ。もし本当にそれらのろくでもない行動系列が劣悪なら、条件がととのった社会の側がひとりでにそれらをうみだす種を除いていくはずだ。万が一にも朝鮮系の人の中にきわめて有能にして有益な英才がまぎれていないとはいいきれない(もし確率がいくら低かろうと)のだからだ。

―――
*1 より詳しくは、もっとも注意深くそして最大限の対策が要るのは裏切りうる都知事(つまり、関東勢力ではなく、単独で関西連合のどこか又はその概括勢力と結びその他の関東諸地域を裏切る可能性が言動のはしばしからある、一種の道義的不安定性をもつ今の都知事系列)ではなく、その傘下企業とも半分はいえる「東京のマスコミ」である。これが最大の注意のいる勢力であり、他ではないと認識すべきだ。彼らの偏見報道はすくなくとも国内で最大の権力状態下にある。だからそれらを刺激や敵対してはいけない、この勢力と反する事はほぼ賢明ではないはずだ。
 したがって、事前例からとれば「多様なメディア、特に他の言語圏、特に先進国とアルジャジーラなどの海外の国際ニュース」と完全に親しむのが有効だ。かつ、視聴者数からいえばBBCとCNN、が事実上の二大勢力で、非英語圏ならびに英語圏ではアルジャジーラがそれに次ぐとかんがえるべきだ(それらの次に、中国語圏のメディアが入りえるだろうが、こちらが言論統制を経由してくる以上、あまり信頼をおかれていないのは確か、たとえ華人の間ですら)。これらの勢力は英語圏一帯に強い伝播力をもつ。比べて、NHKはおもに日本語圏にもっともつよい勢力として、実在する。だからこれらの名をあげたマスメディアとはいくら親しんでも親しみすぎは決してない。それらを主体的に操作誘導できる地位が必然。これらの上にネットメディアがあるが、いまのところ支配的ネットメディアはなく、ツイッターなど「個々人の情報網」にしかその的はない。だから世論を読む事は次善の策となるだろう。そして、日本国内にかぎっては「記者クラブ」が重要な役割をはたしているのが(すくなくともマスメディア業界の集団主義としては偏りがちになる傾向が戦前の過ちを含めて批判的にならざるをえないとしても)現実だ。
なおかつ、日本内についてだけいえば、関西の資本家は関西のみに有利になる偏見報道をできる為だけにさえ、基本として関西限定で放映される番組、特にニュースへの資本投下を今の時点ですらしている(福島原発事故の際も、省庁をあからさまに攻撃する内容はここから発されていた)。この勢力は一定の注意と、事前の掌握がいると思える。ここを野放しにしておけば関西圏から、ほかの関東諸地域とおなじく我々も東京資本や中央政府と完全一緒くたに誤解されて攻撃される可能性がきわめて高い。つまり、ここの資本へ向けては直接に現金を「垂らし込む」のが最も有利なのだ。
彼らの過半はたとえば、関東というか中央から見て、和歌山(紀伊)と関西圏と同じくらいの位相でしか、東京圏にあるかなり性格の違ったほかの地域をみることができない。しかし、具体的に和歌山県も福井県も、算段といおうか商圏共通の現金さという面で似てはいるが、特に道徳感へかなり決定的に、大阪とは違う行動原理を秘めているわけだ。そしてそれは中国地方で岡山と山口くらいの大幅な気質差もあって、見分けのつく人のみが各々のかなりの行動観を予想することができる。

 これらをかえりみ、さらにできるならば今現在のオバマ政権がつくろうとしている「政府の統制範囲とは独立した」情報網を技術的に、まず県内に流布させるべきだ。このシステムは他のすべて、たとえばマスメディアへの上記の注意よりさらによく偏見報道をいさめる効果が期待できる。情報戦の上では必須の技術なので、何らかの本部が独自開発するか、日本で最も先にできるだけはやい段階で米国から輸入するべき。
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by smartestone | 2011-09-02 15:34 | 政治論 | Trackback | Comments(0)