トップ

<   2011年 10月 ( 23 )   > この月の画像一覧


いばらきでの教育のこと

『日本人はアジア人か』クントン・インタライ著、1986刊によると、世界の大学構造には二種類があるという。いわく、私立が多数を占めるのはアメリカ・アジア型で、逆にヨーロッパ型では国立が一つしかないことが多い、ということだ。
 それによれば、茨城県の大学のすくなさ、は日本でもっともヨーロッパ型に近い一つだとおもう。それは儒教の風土がかなりうらづけてきた。

 ジブンがおもうに、浪人というものがあるのはこのヨーロッパ型の社会だけだ。もし私立が多数ならタイテイのひとは希望すればどれだけでも容積がある。かもめの寝床よりだ。
 しかし、浪人は決して合理的なものではない。なぜなら受験技術みたいな科挙の弊風をひいて、まったく役立たない試験のためだけにつかわれる奇習をおぼえこまされている期間、その労力などはない方がいい。それを実用的・乃至は真理の探究につかえれば全体のはばひろい学識としごと能率がはるかにあがってくる。

 そこでジブンは浪人というのをしているひと、そして県内のすべての高校にいいたいのだが、「放送大学」というものへはじめから全入すればいい。これは入学試験がいらないからだれでも入れ、しかも単位をためることができ、のちにどこかの大学にはいっても継続できるし、そのまま単位がつかえる。そもそも脳のかたまった教育の被雇用側にはこれが理解できないかもしれないので、もしそうならカッテにジブンから放送大学の資料をとりよせて経歴をかいて送れば、15歳以上のだれでもはいれる。そのあいだ、無益な受験のためだけの奇習をつめこむ必要がなくなり、単位をためながらできたら英米のどこかへ留学のみちすじをつければもっともいい。日本のは制度疲労している(*1)。
こうすればもし茨城県がヨーロッパ型の大学構造をつづけていったとしても、民衆の無知につけこんだ極端な官僚制のわるい面や、それにともなう無知からおこった衆愚政への危機を事前にさけられるはず。浪人というものも日本特有の矛盾しきった制度疲労でしかない。試験の回数が一年に一度しかないとか飛び級が機能していない、電子計算機や辞書がつかえない、年頭月尾のくだらない問題がほとんど、奇妙な自己目的化された予備校産業の大繁栄、入試に際して専門にとって汎用的知識からの負担が重すぎるというのもその側面だろう。こういうものはたたかうべきではなく、さけることの方がかしこいとおもう。改革するのは大部分の固まった脳がこの世を去るまで不可能だ。

 また、できればこの期間にみにつけた方がいいとおもうのは英語論文をよみかきできるだけのEnglishだ。これをみにつければ基本的にいまの地球のどこでも学問的にやっていける。

―――
*1 http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819695E0E4E2E6EB8DE0E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2 のリンク先(したに全文引用した)によれば、
ニホンの修士のレベルは今後ますます下がり、その希少価値は日本全体でみてますます下がっていくだろう。雇用が冷えているので、いわゆる隠れ蓑修士がおおく出現するのがまちがいない。このニュース記事の趣旨も、その層を保護しようとする文科政策ということ。しかし、これは決して応用力にはつながらないのでおどろくほどすばらしい成果とはならず、どちらかといえば国際的水準とみた日本の院の格を下げるはずだ。
よって、ますます英語圏の上位にランキングされる大学での修士以上の格があがっていくとおもわれる。一般社会でのシグナリング理論からみたとき、国内での雇用をかんがみても、「英語圏の修士以上の学歴は(おもに雇用者のシグナリングへ)国内でもつかえるが、日本語圏のそれは国外ではつかえない」という格の一方通行状態はこれから最低でも何十年かつづくだろう。逆に研究水準という意味では受験戦争による淘汰のため、おおはばに国内大学がほかより劣ることはないだろうが、教えることはどうあれそこで学ぶmeritはかなりへっている。非常にジブンの適性にあった優秀な教授をみつけたとき、いわば師弟制にちかいかたちでならおうとするとき以外は特にニホンで学び続ける根拠はないだろう。以下ニュース引用

大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査 2011/10/26 22:07

 文部科学省は26日、大学院で修士論文を作成しなくても修士号を取得できるよう省令を改正する方針を決めた。博士号取得を目指す大学院生が主な対象で、論文の代わりに専攻だけでなく関連分野も含めた幅広い知識を問う筆記試験などを課す。大学院の早い段階から専門分野に閉じこもるのを防ぎ、広い視野を持つ人材を育てる狙い。来年度から適用する。

 現在の大学院教育は、2年間の修士課程と3年間の博士課程に分かれるのが一般的。省令の大学院設置基準では修士論文を提出して審査に合格することが事実上、修士課程を修了する条件になっている。

 文科省は同基準を改正。「博士論文研究基礎力審査」と呼ぶ試験に合格すれば修士号を得られるようにする。審査は筆記と面接で、博士課程で学ぶのに必要な専門分野と関連分野の知識、研究を自力で進める力などを判定する。

 修士課程2年の春から夏に筆記、冬に面接を行うことを想定。博士課程は別の大学院に進みたい場合、入試も受ける必要がある。博士課程に進まず就職する大学院生も多いことなどから、修士論文の提出を条件とする従来方式も認める。

 修士論文を実質的に不要にするのは広い視野と能力を持った人材を育てるのが狙い。従来の修士課程は論文作成のため早い段階から特定の研究室に所属して研究テーマを絞ることが多く、博士課程を終えても産業界から「専門分野には詳しいが応用が利かず、使いにくい」と評価されてきた。

 同省は審査の導入に合わせ、修士課程の教育内容の見直しを各大学に促す。院生が分野を超えて複数の研究室で学べるようにし、専門だけでなく関連する分野の知識も身に付けさせる。将来的には5年一貫教育で博士号の取得を目指すコースを普及させたい考えだ。

 大学院設置基準の改正案については年明けにも国民から意見を募集。その結果を踏まえて来年3月までに改正したい考えだ。

[PR]

by smartestone | 2011-10-30 11:55 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

新暫定基準による被曝量と危険度の分析

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111028-00000609-san-soci によると、

 食品中の放射性物質の基準値について、厚生労働省は28日、現在の暫定基準値で定められている放射性セシウムの許容上限の年間5ミリシーベルトを、今後検討が予定されている新基準値では、年間1ミリシーベルトに引き下げ、来年4月をめどに適用すると発表した。現状より厳しい数値設定となることから、今後は各食品に対し、どのように許容数値を割り振るかが課題となってくる。

ということらしい。もしホントウにこれがおこなわれるとすると、http://kamomenome.exblog.jp/14668449/ で まえに計算した危険度はすこしさがる。

1mSv=1000μSv
∴1000/365≒2.74μSv
∴一日あたり2.74μSv以下が新暫定基準値(予定)の内部被曝量。
http://kamomenome.exblog.jp/14668449/ の追記:『国が設定した暫定基準値安全精度の検証』でのリンク先資料から、
500(Bq/kg)=0.011(μSv/kg)
∴500:0.011=a:2.74
0.011a=500×2.74=1370
a≒124545.45
∴124545.45(Bq/kg)のうち、一日の摂取量を2kgとすると、124545.45×2=249090.9
249090Bq=249.090kilo Bq
つまり、一日あたり249キロベクレル以下の内部被曝量におさえれば、年間1ミリという生涯でも100ミリをこえにくくなる値をとれることになる。

さらに、おなじくhttp://kamomenome.exblog.jp/14668449/ の追記:『暫定基準値食品を継続的に摂取した場合の(チェルノブイリ事故時では強制避難域にある地域における)健康被害の精度ある数理予測』より、
初年度である今年、これまでの外部被曝量は最低でも2.4mSV、たす、今年の暫定基準値ぎりぎりに汚染された食物を摂取したばあいの内部被曝量は7mSv。つまり9.4mSvがこの市のひとが被曝していそうな初年度の量。
 これに年間1mSvという来年度からの基準を、ニホンでの自然放射線による年間1.5mSvの被曝量(出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D)をくわえ、あてると、
(100-9.4)/1+1.5=36.24
20歳の成人では 20+36.24=56.24、つまり56歳のとき に生涯100ミリシーベルトをこえることになる。
 もし今後もありえる外部被曝や、X線による撮影、航空機での移動などをふくめると、これよりすこしはやく到達するだろう。ただし、これもまた計算によるが、一日あたり249キロベクレルよりずっと少ない内部被曝量を継続すれば、56歳より遅れて生涯100ミリシーベルトの閾値をこえることになる。

 この新基準値でも子どもの危険さはあまりかわらないだろう。
なぜなら、もし成長し続けているかれらの感受性をおおめに6倍とみつもると、さきほどと同じく
(100-9.4)/1×6+1.5≒12.213
つまり、かれらの12年後には100ミリシーベルトをこえた被曝がありえることになる。
当然、このばあいも、(もしこの子を0歳とみつもっておくと、)一日あたり249キロベクレルよりずっと少ない内部被曝量を継続すれば、12歳より遅れて生涯100ミリシーベルトの閾値をこえることになるはず。

 これらをかんがみると、すべての条件は、もし来年度以降の1ミリシーベルトという新暫定基準による汚染食品の被曝がつづけば、「放射能に弱い個体」をとりのぞくか決定的に傷つけ、かなり放射能に強い個体をいきのこらせたがる環境条件下に、この市は入っているとおもう。そもそも、チェルノブイリ事故のときでいえばここは強制避難させられた相当ひどい汚染地なのだから。とはいえ、その健康被害はこのウェブログでもしるしてきたが、われわれの全員を死滅させるほどのものではなく、ありえる最悪の事態でも(http://kamomenome.exblog.jp/14825315/ より)今後50年で50000人の人口のうち139人ほどの障碍児をあらたにふやし、新生児については12歳以降の甲状腺癌の発生率が上がる、という程度だろう。このどちらもただならぬ公害の結果で途轍もなく深刻な事故だが、同時に、この二つは個体の全体を死滅させるほどの傷つきではない。単に、巨視すればうえにかいた、放射能に弱くうまれついた遺伝子をとりのぞく効果、いわば放射能耐性淘汰の方がまとめてみればつよいのだろう。とはいえ、この害をうけた個体やその家族のための東京電力株式会社による賠償、そして公益機関である政府による最大限の補償というのは必要だろう。さもなければ、なぜこんな大公害に「無関係な第三者」である市民がみんなまきこまれたのか説明することもできない。
[PR]

by smartestone | 2011-10-29 22:42 | 学術論 | Trackback | Comments(0)

ことばの進化

経済さからいうと、日本語をつかってくらそうとするかぎり英語の単語とかさなる日本語の分量はあたまをムダづかいしていることになる、と かいた。
またこれは日本語そのものへもあたり、まったくおなじ意味でつかう単語がいくつもあたまにいれられるとそれだけ脳のCPUとしての力がおちて、おそくなってしまう。

 いまのところ日本語にちかいことばをつかうひとは多くはない。もっとも多いのは中国語というか、むかしの漢字やその省略文字にたよっているひとで、つぎが英語(出典)。日本語はそれらよりずっと下の順位。ということは、日本語でかいたりはなすかぎりそれをそのままわかるひとはかなりすくない、ということ。
またわれわれはあまりきづかないが、日本語はとてもむずかしく、そだってしまってからふたたび十分につかえるほどならおうとするとほとんどムリにちかい。はっきりいうと漢字をとりいれたカコの関西人のせいだとおもう。
そのせいでニホンゴはわざとむずかしくする、科挙文人の悪風にそまってしまった。いまのほとんどの試験というものも、ニホンゴ圏だとイジわるをしているとしかいえないものがごく多い。それらは、はっきりいうと害しかない。どちらかといえばひとびとを無知なままにしておくことになってしまうからしまいには弱い文明、まける社会におちいってしまう。

これらをかえりみると、ニホンゴをより英語にちかいことばでおきかえるのもかなりきくとおもわれる。平易なことばが英語には多いからだし、漢字をわすれられる。いまのひとびとがまったくしらない漢字は何万とあるわけだが、それをすべてちがうしるしでおきかえればより簡易なことばのままでもモンダイはない。

こういうことをかんがえると、文部科学省のつくってきたお固い教育方針にのるだけ損かもしれない、というほかない。特に、はじめはむずかしすぎる漢字をダイタイおぼえさせてから、つぎに英語を(5、6年生から)おしえこむ、というのはシッパイだ。この逆を、カッテに各おやがやってしまう方がいい。
 そうすればたとえあまりにむずかしすぎる漢字はつかいこなせなくとも、脳はよりなめらかに回ることになる。そして一部の子はこの分量のあたまを理科につかった方がいい。そうすれば地球のひとについていく、ばあいによってはかれらをさきにたってみちびくしごとができるはずだ。

むずかしすぎる漢字で中国の古典にしたしむ層。こういうひとは多数でなくていい、とわかる。このひとたちのモンダイは、科挙のわるいくせのためにひとびとをバカなままにしようとしてあることないことわざとむずかしくかきつけて威張るというところだ。
しかし一理あることをいうことも、きわめてたまにだが、ある。たとえば漁夫の利、とか仁義忠孝ということばはこういうひとがかんがえついた(しかもこれらはくせやことわざであって、かならずしも真理、シンジツといおうか、ホントウではない。いいまわしを工夫したものでしかない)。
けどそういう確率はおどろくほどひくいから、どちらかといえばむずかしすぎてよめないためにことばを立派につかえないひとがおおくなってしまうことの方が損がおおきい。

また、注意すべきことは単純に漢字がよめない方がいいというわけではない。むずかしすぎるそれより英語がつかえた方が「人々全体の結果とみれば」いいし、さらには漢字の希少価値より科学のそれの方がいまのところ高いので理科系の研究者になった方がありがたいってわけだ。おまけに、いまのところはほとんどの科学の文献は英語でかかれているし、会議なんかも英語でひらかれている。
まったく学習しないひとたちにとってはどっちにしてもおなじみたいだが、そういうひとたちにとってもどちらかといえば英語をしっている方が得しやすいはず。

そしてすべての科学者にとってのおなじことばといえば数学だ。だから数学は必修にした方がいい。小学校だと算数とよんでいるが、これは数学のなかでもさらにキソとなるところ、もっともカンタンなところといえる。しかし、ニホンゴやニホン文化の弱点が補強されるともっといい。*1
 和をもって尊しとなすをくにのかけごえにしたカコの弊害、つまりほかのくにのひととくらべたとき議論でのよわさというなれからよい点だけをうしなわない様に、ということは「やさしさ」「おもいやり」とかのどっちかといえば文学的なこころ、感情のこまやかさをなくさずに、おなじくはなしあいのうまさによってよりひろくさまざまなものごとを知る力、ことばの通じるいろんなくにのひととの極端な論争にならない適度なやりとりの力をのばすのはできるとおもう。要するに、いまは高校でおしえてる論理という分野はもっとはやくから習わせていいとおもう。

数理論理学の初段といえる集合と論理式、いわゆる →∧∨¬⇒⇔∀∃∴⊂⊃∪∩⊆⊇∋ こういうしるしをつかって必要条件などの式をくみたてる分野は小学生の段階でもそれからの応用ができるのでむしろ詰め込みしていいきがする。算術、つまり +−±×÷=≠<>≦≧√∫∞ こういうしるしで計算する分野は、実はうえにかいた論理との両輪だ。日常でつかうのは論理だし、算術はそのなかの数というものだけをあつかっている。このふたつをあわせたものに解析幾何学(≡∥⊥∠△⌒こういうしるしをつかう)といわれている分野があって、それをいまの文部科学省の下部組織がつくっている教科書はさきにおしえているが、これはそれらのあとでいい。タブン、理想的な順序でいうと
論理→算術→解析、なのではないか。
いまは
算術→解析→論理、となっているが、これだとこどもが混乱のままに勉強することになって、のびがない。はじめに論理をおしえれば、それを便利につかって算術も解析も自在にできるカノウセイがたかい。

しかも、いまのレベルですでに「計算機」というドウグがつくられているので、これをつかわない手はない。算術のめずらしさはかなりこの計算機、それとそのしくみのキソになってるオートマトンという理屈でひくまっている。しかし、解析はかなりコンピューターでかわりをできるみたくなってきたが、論理はまだできない。つまり、論理のカチがいまのところすべての知のなかでもっともつかえるのでもっともたかい。
おまけには、とてもなのある哲学者で、自分もいいこというので尊敬しているひとだが、ジョン・スチュアート・ミルというひとが自伝のなかでいってたけども論理は哲学、というかものごとをふかくかんがえることにとっても一バンつかえるということです。

で、もっともキホンの計算のしかた、たとえば筆算のやり方がわかれば、もう手計算だけでやらない方がいい。この計算機(いまでいう電卓)のしくみというのは算術のはたらきをキカイへやってもらっている分、脳があくのでそれだけあたまがよく回るというわけだ(ザンネンなことに、このことがわからない、あたまのよくないひとがトウキョウあたり、また みと あたりにはかなりいて、そういうわるいひとは学問がすすむより脳のムダづかいの方がすきで、ドウグのつかいかたがわからない。だから計算機をつかわずに手計算しろといってくるけど、それは二本足であるけるのに四本足であるけ、といってたおさるとかわりない。ムシしてしまうことだ。学校でもそういってくる先生がいたら、そんな授業にでるかわりに、ジブンでさっさと勉強して、できるだけはやくイギリスやアメリカなどに留学して飛び級するみちすじをえがいてください。その方がみんなにとってもいい)。
 あたりまえだとおもうけど、どんな立派なカガクシャもみんながほとんどを電卓やそういう専用のプログラムをくみこんだコンピューターで計算していますし、それがもしこわれてしまったとき、てもとにない、あとカンタンすぎていちいちもちだす手間がムダなときだけ筆算で仕方なくやる。「数学そのもの」のしくみをかえていくとき、つまり代数をつかわないときも、それだけで経済生活をしているプロといおうか大学教授や研究員、印税でくらしている著作家のあいだでも電卓をつかって数値計算はすることがほとんどだろう。
どんな数学をつかうひとも、キカイの方がおなじことのくりかえしがはやくて得意ということ、だからキカイの方が人間のタイテイの頭よりどっちかといえばこまかくはやく計算できるらしいということをしっている。人間のあたまがいまのところ得意そうなのは、タブン、概算といわれるダイタイの予測だけだが、これもまちがいやすいのでどうせいつか計算機でたしかめないとならない。どうしても手計算やどうしても暗算がすきなひと、もともと計算するのがすきだからカッテにやってたい算術すきのひと(ジッサイ、こういうシュルイの天才もたまにいる)、あとすこし時代遅れになってきてしまったけど、いつまでもソロバンをつかいたいシュミの人(このひとは、なんらかの電磁波環境の変化ですべての電卓がダメになったときのために希少ではある)、こういうひとだけが計算機をきらえばいい。というか、ソロバンもむかしの型の計算機でしかない。みんながみんな計算機をきらう必要はゼロだ。もしどうしても計算機きらわせて、どうしてもこどものあたまをムダづかいさせてみんなのあたまを空回りでわるくさせたいなら、なんで現場ではそれで日々計算しているのかってはなしになる。もっと便利でつかいやすく安価なドウグをしっててそれでいいものがありますよ(タブン、論理もできるコンピュータープログラムの一種か)、ってことだとしたら、それを早速みぢかなひとびとへおしえるかベンチャー企業としてそのわざを独占して売り出した方がいい(どちらがいいかは、それをつたえるひとびとのほしがっている度合いによる。だから日本国内ではタブン子どもやまわりのひとびとにおしえる方がつたわり、たとえば英語圏にはかずおおくの研究者がいるから売り出した方がよくひろがる)。脳のムダづかいをやめることが人類のことばの進化だから。


―――
*1  これは初期の天皇家と聖徳太子のせいでもあるが、和を以て尊しとなす、を中国語からもってきて国是としたために、議論をして合理的な結論をだす、という風習をなくしてしまった。
おどろくべきことだけど、ニホンジンとよばれているひとびとはほとんど議論ができない。このとき、議論ということばをすこしかえて、論争とし、これを英語とくらべてdebateだとすると、なるほど、あいてを打ち負かすためにする議論はかならずしも長期で見て利口なstrategyとはいいきれない側面がある。たとえばもっともむかしにアメリカにわたった人らのひとりで、こっちでいう1万円札、むこうでいう100ドルのかおになってるベンジャミン・フランクリンってひとの自伝でも、議論のくせはきらわれがち、あまりよくないとある。さらにうらづけると、『徒然草』にもいくつかこの点から過剰な利口ぶりや、議論による勝利の目的視を、作者の人生経験からだろうがいましめる文がある。吉田兼好にとって教養はむしろ人格の修養のためだったのだろう(二百三十二段百三十段)。
したがって、どちらがかしこいのか、ディベートをホンのおさないころから叩き込んでるアメリカの子とニホンのひとが論争になれば、たとえそれぞれ得意なEnglish、日本語のやりとりだったとしても9割ニホンのひとがまけるはずだ。
しかしこれもいかにも徳川的なはなしだが、負けるが勝ち、いくらか負担が重い方がえらいという評価基準があるところもしばしば、いきものといおうか人類の社会ではないことはないのである。モチロン、いまのグローバル化のなかではいまいちそういう感じではないけど。コテンパンではまったくよくないというのもたしかであって、惜敗つづきくらいならまだゆるされるし、天下統一じゃないがすこしずつひそんだ応援者がおおくなっていくかもしれない。だが全体とみれば勝った方が多くを得る、というのがありとあらゆるいきもののなかで当然なかぎりこれらの負け助けとはときたま起こる例外のばあいへのいいおよびである、とおもうのが自然だ。なぜかって、いまあなたが家にあらわれた害虫をぶっ倒して、負けるが勝ちとほざくだろうか? 単にこれらの論点は「政治的長期戦略から、いかに惜しくも負けたふりをたくみにしつづけ同情する仲間の数をふやせるか」の群淘汰(という、ありえないと科学上は否定されている生物戦略の、過去の知識人らによって偏見づけられた)問題でしかない。要は、議論に勝つのは当然だが、勝つのを目的にする必要はないというわけ。
だから、すこしこの論争ずきというありがちだが尊くはない特徴をゆるめて「はなしあい、討論」のイミでconversationまたはよりやわらかくtalk aboutだとする。ときには必要な能力であり、特に海外に適応したければ必然的な能力である、ありとあらゆるおしゃべり、おもいの口語による自己表現能力をきらいすぎる、といってもいい。ケッキョク、はなしあいというもの全般、これがニホンジンはあまりできないというか文化環境としての過去の淘汰効果からもとっても苦手としている。これをすこしできるのはどっちかというと主婦やら独身女性やらであってむしろムダばなしというか、私語といおうか、井戸端会議くらいのはなしで、それも真剣な意見交換ではなく、ただのうわさのやりとりでしかない。しかもこれは生物学的には理にかなってるっぽいのがこわいところだが(うわさばなしによって「私生活」への性選択効果をはたらかせているか? 女性の脳幹の太さと、ことばの流暢さにかかわる知能や翻訳能力は比例する、という生理学的知見もある)。
で、からだのおおきな男がなにかをまじめにはなしあっていると喧嘩とカンちがいしてとめてきたり、逃げだしてしまったり、いやなかおをする。だからますます体育会系の負の側面みたいななんでもいいからちからでおさえつけるみたいなわるい風、まちがった野蛮さにまきこまれる。こういう なれ は 第一に不条理なよのなかをつくってひとびとのうまれもったよい性質をゆがめる。まるくおさめるというイミでは訴訟や裁判をすくなくした一つの功績はあったかもしれないが、かわりに論理をよわくしてひとびとが自然や社会のこまかなことを分析していく力をうしなわせてしまった。あれほどひどかった第二次世界大戦へさそわれていったのもこれができないひとたち(いうまでもなく天皇家もその代表者だ)がこのしまをしきってたせいがかなりおおきいとおもわれる。はなしあいのなかですこしずつなんらかの知ったことをよりそとから見ても変じゃないものにみがきあげていく、という集団研究やなんちゃら協会、いわゆる興味にそっておこなう研究会、クラブ活動みたいなものがすくなくなってしまうのがつねにやばい部分だ。このしまのアカデミズムのせまいすきまでおこっているいろいろなわるさ、いやがらせやあしのひっぱりあいもかなり、こういうなにか不満を根にもって、正々堂々はなしあいで解決しないというふるい風習がまさに一つの原因だろう。いうまでもないかもだけど、市政での議論のよわさもまさにこれ。本質や重大事はいわず一般市民へは公開せずに根回しやら人間関係のごたごたでなんとかおのれの利得の為にしてしまう、というのはものごとを根にもつ、ある公徳に劣った悪どい者やそういう邪悪な手だてをどんどんはびこらせたがるわるい風儀をいつのまにかのこしてしまう。当然だが、そういうあくどい者はある長い期間でみわたしてみれば小さな居場所にしか適合しないし、地球人類の表舞台から去っていく宿命の下にある。すでに社会主義国というものがどういうたちばにおいこまれているかをみてとればいい。
モチロンそれ以前に「はなしあい」で当事者間で解決すべきなのだが、すでに裁判というしくみがあるのだから、不服でもくりかえし上告する以外には紛糾の解消のしかたがない、と人類が経験的にみいだしてきた。それをこえて人類はいまのところきめにくい問題にきりをつけることはできない。だからこの人間界で最後の土俵際以外では必死に論争するイミ、かつ、ものごとを根に持つことの合理性などほとんどゼロだ。だれもかれも損しかしない。そもそもそういういつまでもあいてをうらみつづける性根の悪さ、乃至はどうでもいいことに必死になって些細な不満に目くじらをたて争いを不断に誘発するおろかしさが文明社会に適合しないためひとりでにきらわれてきえていくか、僻地へと退散させられていく、というのが常識的にあちこちでおきている社会現象であり、日本でも まずもって例外ではない。
[PR]

by smartestone | 2011-10-29 07:01 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

常磐線のつくりなおし

常磐線北部は、ある程度迂回しながら地下鉄化すれば建設可能だとおもう。
 放射能シェルターをかねた技巧だから、東海村をかかえた県民が出資するきがあれば、専用の公社などとのジョイント ベンチャーがつくられれば災い転じて福となす、って点で経験値が将来もいかせるはず。

 都知事はホーキングの科学文明自己崩壊説、を事実として信じ込んでるらしい(ある記事によれば)けど、
現在しられているこの宇宙の年齢やその果ては今後も更新されるし、どちらかといえば観測限界がひろがる可能性がたかいので、
地球とほかの知的生命との接触がすくないのは単に我々の文明が若すぎるか孤立した位置にある、またはそのどちらもであると自分はかんがえる。

で、そうするともし地球人のいくらかが原子力の利用をこれからあきらめていったとしても武器や、ほかの文明でのことなった目的への応用という部分は大いに ありえつづける。放射線治療という医学と医療での それも つづけられ さらに きわめられていくだろう。
 よって「工学上の放射能対策への高い適応力」は人類文明のなかでも先進的で貴重な技能に属することから、自己と子孫の健康をそこなわない被曝への多くの優良な技術の一貫として
合理的なshelter地下抗またはそれを応用した空中敷設の わざ を もっているのは これからの ためになる。
[PR]

by smartestone | 2011-10-27 05:27 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

(再掲)東京電力株式会社が終生責任を負うべき人数

 この記事は以前より精度を高くして再掲する。過去のはhttp://kamomenome.exblog.jp/14688316/

 おもな変更点は、
・東京電力株式会社の遠い将来へおよぶ大公害によって先天的に障害をうけたと定義できる、今後うまれてくる市内人口の予測を、5万人の全市民あたりこれからさき50年間で160人増加だったのを139人増加(21人分減)と、資料から推察できる精度を高くした。
・ダーウィニズム(進化論)の観点からかれらへの最大限に慈悲深い社会体制が、同時に世の中の役に立つ、という面での社会的選択効果をはたらかせつづけるべき、という人類の中の心身の不健全への過保護を戒めた。
・追記に、上述の増加わりあいから年間約3人、つまり市内で想定できる新生児の数全体のうち毎年1%の先天性障害の発生率上昇、についての算定を記した。
・結論として、「線量をすべての食品へ表示すべき」。そうすれば幼く若い者は線量を注意深くみずからにとっての安全度からえらびぬけるし、壮年以後や老人はあまりそれをきにせずとも農耕地方を支援できる。販売業者は無論、市及び県、国も積極的にそうしなければならない。つかった計測器の種類や計測方法もつけて。

 再計算部分を変更したほかはまえの記事とほぼおなじものなので、これらの点をみてとれれば、以前の記事を読んだ方は(計算のたしかめ、詳細をみたい等のめあてなければ)もう一度以下をくわしくよみなおす必要はない。

―――


資料1. http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
資料2. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )


ここで、http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、
37 000 Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/㎢) ∧ 1000bq=1kilo bq

15Ci(Ci/㎢)=37 000Bq(Bq/㎡) ×15=555 000bq(Bq/㎡)
555 000bq(Bq/㎡)=555kilo bq(Bq/㎡)


37k Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/㎢)
555k bq(Bq/㎡)=15Ci(Ci/㎢)

上の二つの資料をみくらべると、
北茨城の広域は 資料2(15ページ、参考4) より、セシウム137の沈着量について最大で100k bq(Bq/㎡)。
つまり、北茨城(及び、地図上で青色のある地域)は1Ci(Ci/㎢)~15Ci(Ci/㎢)の範囲内。

千人あたり (3.87+4.57)/2= 平均4.22人から (6.90+7.07)/2= 平均6.985人 へと、事故後の頻度増加 (51+83)/2=平均67% の新生児についての先天性障害頻度の上がり、がおそらくこの市内でも起こる可能性がある(‘おそらく’、というのは、今回の事故以後は除染や、地産食品をよけたり暫定基準値食品などでのなんらかの対策をしている人民がいるかもしれないので、情報の不足したベラルーシ共和国のときよりは被害がすくなくなるかもしれないからだ。)
ただし、今回これからもとりえるあきらかな対策として、過去の記事の中の計算によれば、初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめ、受胎後8~25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という二つの対策を確実にとっていればそこからすくなくとも知能遅滞については確率が減ることになる。
 もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、上述の値の平均をとって、そのうち
50 000人=1 000人×50

6.985×50-4.22×50=349.25-211=138.25≒139人、の先天性障害の人口増が想定できる。

 この139人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの139人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。

と同時に、この139人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ偏見をもたず優しくすべきはうたがいない。多くの社会条件のつくりあげ、たとえば車椅子をつかった生活の為のまちづくり、電車や交通機関、周辺自治体含む各種の公共機関を立派に整備すること、該当する医療福祉と各種養護施設へのおもに賠償からきた投資、もおそらく必要だろう。運行されるバスの低床車への買い替えをお願いし市民一丸でうながし、店のいりぐちや道路の陥没やすきまのゆるい傾斜路化、駅ホームのエレベーター完備への募金、これらは今後必要性がたかまるはず。
どの個人も集団の一員であることからこれらの公共費用高への強制的発言は偽善的ではないかという観点へは、もし冷たく現実的なダーウィニズムにもとづけば、彼らのほとんどは他者の擁護なしには生活していけないかもしれない不具とそのために集団にとってはおそらく負担がかさむゆえ、その血統を我々全体が他よりあえて優先的に維持する必要はないかもしれないが、彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない、とみなすべき。そして万一にではあるが、彼らのなんらかの五体健全に比べれば不具合に該当する特徴の為に、かえってそのための栄養と神経が集中した別の器官に宿った特別な才能がいちじるしい社会的有用性をもつばあいがありえる。

―――
追記: http://www.city-kitaibaraki.jp/uploads/fckeditor/04/tokei/H22toukeisyo/uid000004_20100910091524fda32087.pdf (市民課、常住人口調査)の9ページ、「人口動態」を参考にすると、現行の新生児は市内で毎年約300人、今回の震災で転出がふえたという統計はいまのところはないが、かりに目算で50人分の出産人口が市外へ転出した、とかんがえると、

平成23年(2011年)度の産児を 250人 と仮定
上述の 50年で139人の先天性障害の増加率は、139/50=2.78(人/年)つまり年間約3人と算術できる。
よって、市内で懐妊された産児のうち
(2.78/250)×100%=278/250%=1.112%
≒1%の増加がみられるはず。

つまり、確率でのみいえば、過去の人類の歴史経験からみちびける最大のばあいでも、新生児全体数のなかに毎年いままでよりも1%の先天性障害の発生率上昇がみられる、ということになる。このpercentageそのものは全体主義的な眼によれば深刻な印象をあたえない解析結果だが、現実にあの公害によってたしかにその数の増加がみられるはず、というのはおそらく疑い様がなく、したがって今のところ「大規模公害」以外に一つの名前のない大企業による犯罪だろう。
より微視的にみれば、(現在~2041年または2061年まで; 最低でもセシウムの半減期がおとずれる30年間から、5万人の全人口が世代交代ですべていれかわる最大で50年間のあいだ)、毎年2、3人ずつ新生児のなかに先天性障害をもった子がふえていく、というのは決して万人から見ても軽い事由ではない。そもそもそれ以外にも身体被爆による甲状腺癌などのかなりの発生可能性とつねなる精神的抑圧がある。
市にとってもそれらの健康被害にたしかにあたるおおくの想定できる事象があった場合、かなり深刻な打撃なのはたしかだろう。どれほどの賠償があってもこの痛手そのものは広域にわたる除染の著しい困難さから、農作地の除染をするまで、あるいは山菜や家庭菜園など自然由来の食物を摂取した市内の人々へかなり長年にわたってつづくはず。
 よって、個人は無論、市及び県、国はその提供する農作物や食品へ計測器や方法を含めて線量表示を義務付け、想定できるかぎり簡単な除染法を紹介し、それを即刻おこなってできるかぎり内部被曝量を最小化する必要がある。
[PR]

by smartestone | 2011-10-26 02:34 | 学術論 | Trackback | Comments(0)

磯原言語学

 ちがう言葉をつかうためにおぼえねばならない単語数の重複は、それ専用のmoduleを脳へinputせねばならないかぎりCPU非効率をおよぼす。
 単語そのものが一個にきめられればこの損失はおきない。*1

 だから、日本人が全員bilingualになれ、といった教育方針はこの時点で矛盾している。重複の省力化をほどこしたCPUが処理できる情報量は同程度の性能、つまり同等の大きさの脳同士でもより多いはず。

 文法事項は語順問題へ返る。それらのならびかえで生じるすれちがいが熟語表現をとるので、かならずしも語学が脳やその思考回路をゆたかにするわけでもない、となる。いわばこれらの文法的多重事項は脳の中のinput programの冗長性にすぎない。
 おそらくこの場合の冗長性は、ちがう出自の者へ解読しやすいならびかえを行える、という「翻訳回路」を言語setにくみこむだけだろう。そしてある科学的達成や、それに類した単純性の数理的分析だけをするかぎり翻訳回路はそのCPU性能の目的最適化の為には負担でしかないだろう。

 これらの推論に誤りがなければ、文科省の方針な英語の必修化は単に教養的な選択課目でしかないべき(きわめて幼児の際から)、となる。
 英語の国際語としてのいまの覇権的地位も、英語を母語とした使用者らにとっての利己か便宜でしかない、と単に科学上からはいえる。*2

 そしてこのprogram言語の効率を参照にした、ことばの真理から、みずからの体系とはおおはばにちがった相手とのやりとりは専門の翻訳者や通訳をつかい、教育のなかでは子女の親にとって外国語学習を自由採択としできればやらない方がよい成果をあげられる、ということがわかる。その方が脳というCPUの効率があがるのだから。*3
 ちなみに、日本語のばあいは視認性や省略をのぞいて、発音setの単位となっている「五十音(いわゆる仮名)」の単位で仕事をするのが最も効率的という面白い理論がでてくる。このばあいのみ重複が最小、かつ単語が一つだからだ。つまり、漢語や英語の思考回路は仮名によるそれより日本語にとって一段効率が落ちる。それらには子音や文字としての不確定さがのこるからだ。これらのしばしば日本語へ編入される既存で外来の要素は日本語にとっては装飾的なものなのだろう(おそらくカタカナが利用される場合も)。
 だからある極点まで効率化が日本語の中ですすめば、むしろ最も単純な仮名ことば(これからつくられたりおもいだされたりするものふくむ)が過半以上になるだろう。そして分かち書きとよばれる英語でそうしている文字と文字のすきまで単語の区切りをしらせつつ記述する手だてが、漢字をつかうより効率面でもよい場合が(きわめてすくない非常に単純な略字、つまり月や山くらいの絵文字にちかい象形字の出現確率のひくい例外をのぞいて)ほとんどだろう。
 ちなみに、自分は磯原にある図書館で小さな女の子が紙芝居を一文字ずつ結構大きな声でかなりゆっくり朗読しているところから、これらをひらめきとして導けた。幼稚園かその前の年齢だろうけど、あの子には感謝する。

―――
*1 かつ、意味の最少最多則(最も少ない発音の量と表記のbyteで最も多くの誤解されない意味をとる為の言葉が経済的)からできるだけ簡易な単語がえらばれるといい。

*2 英語によるやりとりは付け加えられた能力としては(特にイギリスの旧植民地とそこから独立した各国圏での仮のcommunicationへ)しばしば重宝だが、必須ではない、という発見は日本語使用者へまったく新しく、これまでつくりあげられてきた明治維新組の下士層によってうえつけられてしまった自らの母語への劣等文化視というあしき偏見からの解放を約束している。翻訳文化はこの翻訳回路をもつ脳をつかった情報貿易業として栄えてきたが、単に科学の意味のみに限っていえばどの言語で説明されても同じものとなるはずだ。それらの間に生じるlossはすべての異なる単語間に翻意が存在できるかぎりありえず、一種のゆるやかな期間内でのとりちがえや勘違いの差延でしかない。たとえばrevolutionは再回転、という字面の単語だが「進化」にあてたためすこしのとりちがえや既存の単語がその文化内でもっていた意味との干渉が起きるが、ひとしい物事をさすかぎり結局は同じことにすぎない。

*3 こうして、なぜ外国語学習をしないアメリカとイギリスの人達のなかに高度な科学力をもった脳が多いかが理解できた。同様のことをすれば北茨城人の中にも想定できるだけ無数に天才的頭脳をはぐくめるはずだ。はじめから通訳者なしにおおはばにちがう言葉のひととやりとりしない、とそのinputをできるだけ捨てれば、そして同時にそのための労力を理数へ注げば脳がおおはばに効率化する。そしてこの点からみると、文科省の教育方針から自主的に離脱し、わが子へは英語で0点をとれ、漢文漢字もできなくていい、そのかわり数学だけは満点をとれと教えればいいことになる。ただし、このひとはもしひとりきりなら母語、この国でいえばおおよその日本語が通じる範囲でしか深いcommunicateできないかもしれないが、脳の効率として各国で必要とされるそれにまさる効果がえられるのはあきらかだ。同時に、英語圏が広いという有利さは英語が母語のひとたちへのみ通じるのだから、すでに母語が英語でないひとたち、またはこれからも英語だけで暮らす予定のないひとたちが科学的思考を効率よく行うためには英語学習は損失といえる。そして驚くべきことは、この英語学習の不要さを翻訳可能なすべての言語圏でおしすすめた方がかえって各地の効率的科学からえられる恩恵を英語圏の人々すらえられる、というところだ。同様に、かなり政治的な問題につながってしまうわけだが、薩長土肥や天皇家などの明治テログループがクーデターによる悪意ある転覆で周辺侵略を方針とした際にことなる体系のことばの人らへ日本語教育をしようとしたことも、この世界の思考効率という面から誤りだったし、今後もそうなると結論できる。同時に、いまや日常語も方言がきえつつあるのですこし些細なことでもあるが、方言での思考の方が英才教育のためにはよい、となる(ただし、本をよめるという能力については書かれた言葉、文語だけを標準語でした方が効率的という部分はいまのところ流通シェアの面からかなりそうかもしれないが。これも将来的には、単に効率達成という経済力学のためだけにばあいによっては標準語から方言への翻訳業のおかげであたらなくなるだろう)。「他語での学習は不経済」だから。
[PR]

by smartestone | 2011-10-25 19:53 | 学術論 | Trackback | Comments(0)

茨城学

 典型的な水戸っぽ気質。日本全国でみわたすと、以前御三家が置かれていた地域はこれにちょっと近い民俗の性質があるみたいだ。他の民俗も茨城とはすこしたちがちがっていたりして、部分的にはかなり重なるがかならずしもまったく同じ性質ではない様だ。
 が、自分が茨城県の地域でかなり長く一連のできごとを観察していてわかったことは、彼らの行動原理は「その同質性の高い仲間うちの利益」だけをはかっているということだ。
 ものすごく単純化すると、仲間同士の利益をはかろうと同質性行動をしてしまう習癖こそが、この根であるということができる。もっといえば、もしかれらがほかの地域国家と比べても良い仲間といえる非常に学識深く知能の高いひとびとと普段から人格的親交をむすんでいれば、もともとかれらがある同質性行動をする可能性は低まるといっていいかもしれない。
 要するに、かれらの大部分はただ周りのひとと徒党を組んだり適宜に協調しあっているだけなのだが、その周りのひとのために、自動的に悪さといえる失敗行動にふみこんでしまう可能性がある、これが哲学性の欠点と結論することができる。勿論、このなかまがよい仲間であったばあいは確実に成功に到達するだろう。

 この茨城的点、つまり在来のたちといわれるだろう部分を改良するには、「想定できるかぎり最大限に人工の流動性を(できれば選良的に)高め、その異質性を広域に均衡させて低知能なひとびとの為だけの社会行動を消失させていく」のが最善の手だ。これによって、茨城とそこに住み続けているひとびとのもっている同質性はかなりつよく緩和される。
 人口流動化の例から我々が先取権をとりたければ、可能な限り選良を導入した方がよい、となるだろう。しかも想定できる限り大多数。これが行われるためには、もしそれが可能ならだが、全世界で最も多い大学数というのが一つの目安かもしれない。これは現在にとっては高すぎるハードルかもしれないから、それより一つ目標をさげれば全国で最も多くのノーベル賞受賞者数(出身、在籍どちらも含む)、というのがあり得る効果への伸びではないかとおもう。これさえもむずかしければ、自分にかんがえつくかぎり次善の策としては(現在覇権的な英語圏を第一とした)海外留学者数の最大多数さ、かもしれない。
 これらにくらべはるかに最も簡単なものとしては、英語圏をおもとした「英語を主とした国際語による。できる限り優秀な、できれば博士か最低でも修士以上の経歴を伴った各科の)教師」をきわめて多数、またはすべての茨城圏内学校の主要なポストへ導入、できたらそれを各校に義務づけることではないか(すでに日本で第一外国語の地位にあるEnglish Assistant Teacher枠を含み、それをこえて。この枠そのものもたしかにかなり重要だからそういう人数以上を死守すべきだが。なぜならつかえない英語、いわば科挙英語というのが受験社会の日本では衆目一致する国際化の弱点なのだから。
 おそらくもっともよいのは主要な戦勝国としての英米からだろうけど、たとえばカナダやニュージーランドほかの英語圏または基本的な国語の通じる諸外国でも非常な厚遇条件を前提にその中でもかぎりなくよい人物をえらんでの雇用契約を広域ですれば、彼らが外国人であって在来のもの、在来種のみによってはぐくまれ得てきた性質とかなり違った血統であればこそ、茨城のひとびとのもってきた同質性は彼らの用いる文化のみならず定着での混血によっても容易に改良されていくだろう。
[PR]

by smartestone | 2011-10-24 05:35 | 学術論 | Trackback | Comments(0)

北茨城の詩

隠してしまえばどんな悪さもほしいままにする
無宗教の蛮族が住む邪悪な北茨城
神の眼があざむけるとおもうなら
なぜお前たちが地獄に堕ちたかも知れたろうに

そのちょっとした高台、汐見が丘で驕りたかぶり
お世辞に有頂天となった途端発狂し
勉強好きなカモメの日誌へ名誉毀損の書き込み、後をにごして逃げ出す
邪悪の底なし下劣判断力の北茨城土人によれば、「世界のリーダーに最もふさわしく」「正義の師」らしい卑劣きわまるゲス犯罪者だ

いつものこと、こんな邪悪きわまる僻地に
すこしの救済の余地もあるまい
世間から冷たい風をあてられて
全員死滅するがいい

不正な判定で市民干渉
違法は放置で悪魔裁判
すさまじい無恥と隠れてなす罪業の数々
死んだ方がいい邪悪な土人の住む腐敗の地、北茨城だ
[PR]

by smartestone | 2011-10-23 20:06 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

かば氏とのやりとりの経過2

これらの事態(http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548に詳しい)の進展について、ふたたび一連のできごとを省察してみるに、

結局、かば氏としては「できるかぎりカモメの善意からの忠告は耳に入らなかったことにし、その後のカモメからの誤解をとくための話し合いもパスし、できればすべてをかばが全面的に正しくカモメがまちがっていることにして済ませてしまいたい」というある安易な手順でやりすごそうとしているのかもしれない。
 まあ、(相当に人間関係へ誠実な者でもなければ、*1)ありそうなことだ。
 そして自分がおもうことには、「相手へ人格毀損を働くことは(公益に類した、人格ではなく公務についての指摘でもなければ)全般として自己の人格の尊厳への毀損でもある」って真実だ。これは人格権とでもいえるだろう。この権利を他人について尊重しない者は、当然、社会のさまざまな場面でその者の人格権も主張できない場でしか生きていくことが出来ないだろう。

 わたしは豊田稔氏という個人は、はっきり言って信用している。この人は非常に若いときから懸命に市のために働いてきたのであり、その祖先も同様だった限り、きわめて市を益するための利他的行動について信用性が高く、そのために我々の大多数はこのひとをいまのところ市長の座にえらんでいるわけだ。(*2)
 しかし、自分が再三指摘しているのは、きわめて急速な情報化・知識化の、どっちかっていうと都心・都会での進展に比べ、どんどんとその趨勢からとりのこされつつあるこの市政および市場がまきこまれている資本主義系の世界観からすると、この豊田氏のかんがえかたは幾らか時代遅れになりつつあり、したがって「公務の責め」に十分応え得るかというとはっきりいって疑問符だということです。これはあの震災の一連の記事を参照にしてもらうとわかりやすいかもしれないが、第三者その他の観察者の眼にはかなりはっきりと映っていたことだった。彼が市民主義や利他性のもちぬしだと仮定できるとしても、その高齢などの要因のためにその既存の地位へのしがみつきもしくは任期継続がかえって市の損失となりえる可能性があるとおもわれざるをえなかった。5人が亡くなったことは、わたしにとっては悲痛のかぎりでもあったから、これはもっとやりようがあったろうという意味で、やはり最終責任は防衛者としての行政の現長に求めざるをえないのが現実だ。
その職責に耐える能力がお歳にして十分なら、もっと迅速かつ優良に市内のさまざまな落ち度は改良されていいはずなのだから。

もっともわかりやすくいえば、おそらく世代交代が必要だ。その速度が遅すぎる。これが社会そのものの混沌と衰退の原因でもあるのだろう。定年退職がない行政の責めは、それがゆえに新陳代謝が一層おそくなる傾向を持つ。ひとことでいえば自主引退、ご隠居という水戸黄門イデアがあまりにこの国から忘れ去られ、欠落している。結果として持たざる若者が非常に追い詰められ、深刻な世代間対立の一歩手前まできているほどだ。くわえて、この土建的風土が残存する地方の政治風土では一層その遅さ、遅れの面がきわだってきてかなりとりかえしのつかない状況におちいりつつある――すくなくとも、自分がカバ氏という市民活動家的(もしくは、一般的に職種または仕事の種類をみなしてそれにかなり類似している活動を含むだろう)ひととしばらくやりとりしてみても、この方も随分と努力はしているみたいだが、大勢の文明から遅れていることはどうも疑えそうもなかった。権利や法益や人格さらには批評という概念を、おおむかしの野蛮時代のサル山での共闘なんかに比べてそれほど認識していないのだ。一歩の遅れではない。

 これらすべてをかんがみ、わたしが「公務の責め」という面から、市民の自由な創作活動にイデオロギーを注ぎ込む様な子分作りをしようとしているふるい型の遅れた政治家もしくはそのたちを含む扇動家らしき者を、市の足を引っ張る劣等因として指摘し、進度をむけかえ励ましたのはおおよそ正しい判断だったとおもえてならない。第一、それですら豊田氏本人の人格的尊厳はわたしにとっても重要なことがらなので一向に触れるきがないにせよ、大変に流動性の低く失業率の高くなっている閉塞的資本空間の市内でめのまえでおきている風営法違犯の悪辣な子女壊乱さわぎを放置しながらまったく無関係の一小説屋をほめたてるなどという逸脱は、もし公務員の代表者足るべき地位にして万一あるとすればだが公衆の高覧に値する事例だと確信している。かれらの大多数は貧困ラインに届くかどうかというところで自らの個性をもっとも社会福祉に益したかたちでいかせる生業をもとめてさまよいつづけている。もう任期は確実なんて浮気加減で遊んでいるばあいとは、到底おもえないのだ。
 農林漁業がどうなるのにせよ、国家の先導層として正しく世界の公益と神の恩恵に合致した盛業を志すのが、もっとも古くから大国としての関東圏にあって、首都の一角を担う者の使命だ。仮に大多数の国民にとって検査を十分にしたとして、なおかつ一切の(外部からのコピーライターやコンサルタントの招聘と手助けを加えてなお)心配と危害のおそれのためにそれらの必要(*3)がないとすれば、広域の県民がみずから鋤をタブレット端末にもちかえて産業の興隆に貢献できなければならない。いつまでも風評にこだわって大多数の国民ならびに世界の諸民族諸国民にとって安全への懸念のある品物を売り続けようとしても多くの人が感心するとはおもえない。より重要なのはみずからの力で仕事を興し、その公益への報徳のために世界の人民がより安楽に暮らせる様はかることではないか。

―――
*1 我々はしばしば地方人の人間性へ期待しすぎる。おそらく、古代の高貴な伝説を中国史書から勉強してきたのがその原因だ。どの世界であっても非常にまれな例外でなければ、隠者らしき地方住みの人物に公徳に類した大観またはその時点での国際常識の定着を見ることはできないし、彼らの持っている知識や技能も決して飛びぬけて利口と言うほどではないだろう。
然るべき能あってなおかつ相当に人間関係へ誠実な者でもなければいざこざへの適切な人格的処理を期待するのは彼らを取り巻く環境とそこではぐくまれ得る才にとって過度と言うものだ。自分はこの市内のある人物に期待をかけすぎていたのだろうし、彼の一見誠実そうにみせているものは、論語でいう郷原(地元の偽善)にすぎなかったのだろう。
 ある現実主義者が述べる様に、自然の長は最も枯れた土地である都会に才能を集め、最も豊かな地方の風土には敢えて悪種を集めてしまったらしい(犯罪率などを見返せば、総体とみてあるいはこの分析も、単なる教養に落ち度のある地方者との接触に際した一連の事象への便宜的合理化にすぎないかもしれない、多くの実例をとれないかぎりこの一般論化はまだ危険だが。少なくともこの社会的分類学は「適応性にまつわる地域間民俗差」へ少しの予備的観点または正否どちらかの発見を与えるかもしれない。おそらく大きな原因は、特定の情報量の集積度ではないかと思える、したがって移動費がますます節減されていく情報化では文化越境についての多くの予想外の事態が生じ得るとも推察できる。この事例もその一つ、知識及び情報格差から来た摩擦だった可能性がある)。
この状況を仮に説明すれば「幸福の平衡」として、都会のものには人間づきあいよさを、田舎のものには土地の清浄さを分け与え、それらの両立はなり難くなっているとかんがえることができる。しかし、多くの場合に人はこれらの両立を求めて努力を重ねているのだろうが。
――なおこれら観点へは自分の観察から経験的知見がある。御茨城県知事殿は、自分の見る限りきわめて博識で能力もごく高い。海外からも褒賞されるのは当然だ。こういう人物をみるにつけ、旧常陸の国と言う首都圏に入った領域は地方と都心の両方の特徴を兼ね備えているか、少なくとも両方が急速に混合し易いという条件下にあるとおもう。或いは自分もそういう社会構成に関わっている一人かもしれない。

*2 そして実際に一市民もその点、つまり市の利益の為に彼が行動しやすいだろう、って観点の真実性については吝かではない。勿論これは大抵の地方の長と同じ土地か地場資本の固定性が原因の一つだろうし、それが新世代から見ると地縁を軽く見て広域メディア戦略を駆使している様な斬新な型に比べて若干古びれても悪びれてもいるので新鮮味に欠け、革新的行政人たる先進性はないのだけれども。
この点で、めだった革新首長としてかなり果敢な判断をつみかさねてきている高萩の草間市長は、この市政にとってはかなり参照や参考に足るとおもえてならない。代替電源も用意しなければアナログ的時代遅れの防災無線設置で元の木阿弥にならないんですか、ってレベルの出遅れた後進性を現職の北茨城市の市長自身ならびにその行政機能は構成員らの高齢さも相まって悲しいほどもっている。しかも平気で、というのが日立の北にあって末おそろしいことなのですが。

*3 つまり、茨城がかなり長くそうしてきた首都圏へのもっとも安価で流通費用の低い、安全な食品、それらの加工地を含む原材料の提供先。もしこの為に需要よりかれらの機会損失が高くなれば、我々にとっても所得の高度化がみられるはずなのだから、我々自身の緊急時の食料源の絶対確保という条件つきで助成による産業構造の大胆な転換をはかれる。
[PR]

by smartestone | 2011-10-23 00:58 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

かば氏とのやりとりの経過

かば氏のコメント欄は自主的に閉鎖してしまったらしい。

 しかし、かれのツイッターの発言「成りすましによる投稿」という言い分によれば、T橋 11/10/17 17:54のコメント投稿は彼の手によるものではない、ということになる。

 そしてその自己申告が正しく、我々が投稿について類推することになった2011年10月17日(月)の以下のツイートが全く無関係なものであるとすれば、T橋氏による某記事の執筆者の職業について、ならびに人格についての発言は高橋正志氏によるものではない、という可能性もある。
ーー
IPアドレスが分かると相当たどれるんですね。ちょっとたどってみてビックリしました。今後は気を付けて行動しようと思います。
posted at 20:10:16
高橋正志
kaba_2308
ーー

 どちらにせよ、(かもめができるかぎり続けようと思い、実際にそのために記事の意図と私の側の悪意なさについての説明の努力をつみかさねた、参照先http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548)話し合いによる解決の道を捨てて、誤解を増幅させる道をえらびとるかば氏は、その点ですこしも賢明ではない。そして曖昧なままに誤解を残したまま、事態を放置するのもかば氏にとってよい結果をもたらしはしまい。それらは「善意ある者を誤認し、悪意ある者につきしたがおうとする悪業」でしかない。想定できるかぎりすべてを公開し、想定できるかぎり一連の意見交換から生じた誤解を解き続けねばならない。その結果、自分の側にある善意はだれのめにもはっきりとみてとれることになるのだから。
(はっきりいって、自分はかば氏にとって最も利益もしくは善事になることをしてきたつもりだし、実際にそうだったとおもう。恣意的イデオロギーの植え付けらしきものを最も先に見つけて啓蒙的照射をしたのもそのひとつだ。この世には悪人というもの、ある悪意から誤解や偏見を植え付けようとする勢力がありえるのだから。)
 仮に説明についての彼の持っている理解度のせいでかば氏自身がどの程度の誤解を生じたにせよ、すくなくとも善意、つまり他人に利益を与えようという公的意思で動いている者(勿論、かもめのことだ)には、相手の人格をおとしめるなんの要因もないはずだ。文明人としてできるかぎりの働きをしなければならない。物事を解決せず、いつまでも荒野の奥の洞穴で呪文を唱えてのろってくらすのなど我々の本性に適合しているとはとてもおもえないのだから。

追記: 一連の手続きを見返してみると、どっちかといえばかば氏が一方的に狂乱し、相互の話し合いの余地を狭めて行った風に見える。
この点で相手(かば氏側)に悪意がなかった、ともすこしいいきれないかもしれない。このT橋というひとの書き込みは、すくなくとも悪意で埋められている風に読めるからだし、その後のツイッターでの内面吐露も、どっちかといえばかれ(かば氏)の無謬性と後悔という言葉でわれわれの公益に類する通報を評価しないものだ。
(市民の安心にとっても最も重要なのは科学的な精確性、実証的・実験的に確かめられる事実の理論的分析であり、決して特定のわがままからきた曖昧で間違いやすい風説ではないはずだ。そしてそういう「得難い真理」は、われわれの思想の中やその言葉の綾の内にしか存在しない、いかなる政策的イデオロギーからも外にある。)
 よって、すくなくとも私らカモメの側としては、もしそれが某権力者のイデオロギー的扇動(たとえば祖先崇拝によって地域の過剰な人口密度からくる税収を増幅させ搾取したい、といった)のためにかば氏とかもめの間に不和を生じさせる策略のおもうつぼであったとしても、どちらかといえばわたしの側にとっては悪人とのつきあい損失(悪意あるまたは判断力の欠けたわるい仲間との機会費用による労力浪費)がよりますますなくなることは明らかであるから、かば氏のウェブログへのリンクも切り、彼の活動についても極力関心をもたないことにしよう。それが最善であることは、このウェブログの読者の諸賢にものちに十二分に知れるでありましょう。おわり
[PR]

by smartestone | 2011-10-22 18:42 | 経済論 | Trackback | Comments(0)