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化学物質のおそろしさと先見的対策

このあいだの山口県の事故でもはっきりしたのは、行政はつねに「最悪の事態」を工場などのあたらしい工学的設備へ想定しておき対策を十分ねっておくべきというわけ。いわゆる先憂後楽だ。
 で、市内の工場が最悪のばあいどんな事故をおこしてしまうのかを十分に把握しておき、その対策を十分にねっておくべき。これはどうも選挙対策とかしている行政または議会にはあまり心配されてない様に見える。馴れ合いというのも前々から指摘してるがよくない。議会ははげしい議論が行なわれたほうがいい。そうでないとき、なにか致命的な欠陥が隠されているとかんがえていい。議論すべき問題、つまり社会の欠陥なんか無限にあるはずだ。

化学物質の排出率とかそれが生態へ長期と短期にあたえる影響を公表しろなぜ調査しないのか、と議題にもちだすだけでも啓蒙のききめがある。市長となれあっているばあいではないのだ。市長に牛耳られている議会などただの行政組織の一部になりさがっているのであって、そんな議会は必要もない。それなら純然たる王政のほうが組織が簡単でおそらく長い目で安上がりな分まだましかもしれないのだから。
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by smartestone | 2011-12-29 17:45 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

清掃員をやとうことのわけ

市内の清掃員は市税からたとえば1人あたま1ヶ月1万円で100人くらい雇えばいいのではないか?

特に、公園をつくったからだろうけど中心市街地のかわぞいにすてられているゴミがひどい。Moralに期待するだけでは限界があるんだろう。

ひとりあたま1万円で、100人だと、月に100万円、年に1200万円だが、市長の懐手にくらべれば安いものではないか? 総合病院の新築にあたってご自身の土地へ市税を投下した分がいくらかはいうまでもないけど。

 あたりまえのはなし、市税は「公共の共有財産」であって、市長のもちものではない。
そこからいくらかを差っ引いてもゆるされているのは、まともに公共奉仕をしてくれるという期待のもと、いいかえると全体のために犠牲になってくれる長のためにその自己犠牲の精神を信任しかりに預けているのに代えた、当人がほしいという賎しい分の報酬にすぎない。それはpremiumあるいは手数料であって、無代で働くものがもっとも尊くおよそ効率もいいのはあたりまえだし。利己的で性悪の人類はすぐ相手をあざむくわけで、理想の相互奉仕がなかなかならないので「共通の交換価値」をもつ財貨がいわゆる人質みたいに用意されてきた現実の人類史がある。
市内消化の原則からいえば、おそらくどこかの銀行にあずけっぱなしになっている市長の家の財産は、市内で流動資本状態になっている資財にくらべれば、不況時には価値の低いものなのだ。
選挙にかかる費用高を増徴させてしまうという面でも、二重に時代遅れといわざるをえないだろう。日本の弱点は、土建票で談合や裏金による財政赤字がすすむ行政にかぎっては、特にそこにあるんだから選挙費の節減しすぎは今のところないだろう。
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by smartestone | 2011-12-29 17:26 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

村社会の中でどう都市社会を築くか

自分が経験してもきたことだが、また素朴な観点でもあるが、「いばらき」となづけられている地域一体、あるいは常陸の国といわれてきた一帯の在来種にはつぎのあきらかな傾向がある。

 それは、相互排他規則、とでもいえる傾向。
 とても幼い頃からこの地域でそだったひとには明らかだが、この地域ではできる者を高めるより、その足をひっぱったり嫌がらせをしたり間接的に貶めたり悪口を言ったりする傾向がかなりある。だから首都に程ちかく、さまざまな好条件は整っているにもかかわらず非常に質の高い偉人が無数に出現する、という道を漸次に閉ざされてしまうところがある。そういう優秀な種はたしかに少数いる。しかし、こういう人をとりまく勢力が、残念ながら今書いた傾向をもっており、域外で活躍し広い評価を待つ以外ではその出る芽を摘まれてしまうところが大いにある。

 この原因がなにかはまだわからないが、たしかにこの傾向の為にいばらきあるいはひたちの全体が大変に損害をこうむり、また将来を暗くしてしまっているのがまちがいなさそうだ。
 その大きな理由の一つは人口流動性の低さであり、そこに土着してきた在来種がもっている旧村社会の規則らしい、というのがまず実験的に得られてきた知識。この集団は、遺伝というよりは文化という面で、同種的集団が都市の規則をもたずに狭い仲間内の利害損得だけでくらしているかぎり、巨視的な善とか大きな意味での偉業に向かうことができない。そういう人を啓発的に動かそうとたとえば自分もしようとはしてきたが、事実上これも難しい様だ。この作業は、残念ながら、ほかに自由な流動性の高い地域にくらべればいばらきあるいはひたち一帯が後進的とならざるをえない多くの不利さを抱えている証明にしかならなそう(なぜならほかにはより人口動態のはげしい多くの適所があり、そういった手動の操作にくらべてはるかに大多数がつねに交通しているのではるかに啓発的効果がおのずと大きい。多くの政令指定都市や東海道などははっきりそういう部類に入る)。
かつ、これらの在来種がへてきた過去の淘汰の過程で、おそらくあまり学問的な条件付けが多くされたともいえなそうなかぎり、これらの啓発的作業のために単なる文化の旧態依然さをこえて、種の単位でさえ彼らがすばらしく感化されるという現象もどうやら起こりづらいらしい。

 こうなってくると行政の問いなのかもしれないが、およそ人工的に人口流動性を高めてしまう、しかこれらの解消法はなさそうだ。つまり移民か都市開発で、できるだけ文明の高く学問ならびに芸術的水準の高い、文化のすぐれた地域から多くの市民を意図して導入するべき。自分が数おおく経験もしてきたことだからはっきりしているが、在来種たちを説得して上に書いた村社会の規則を捨てよと教えても決してすぐそうはならないし、どちらかといえばすぐ旧来の規則に帰ってしまう。話題はいばらきあるいはひたちにかぎった話だからこの解決策らしきものが広い応用をもっているかは不明だが、ある群単位で過剰に流動性を与える方法を実行する以外で、そういう閉じた村社会の中で無益な相互排他性を持ち続ける、という管理された人々のある種の農奴的な態度が改まるか改められる事は難しそう。多分ほかの農村を多く持つ地域でも事情は少し似通っているのかもしれない。
 また、しかし非常に長い目でみればだが、なんらかの条件で複数の啓蒙者がその地域一帯に出現し、より都市的な規則を持ち込んで相互の名誉や仕事を褒めあう規則の様なもの、いわゆる褒章の制度を手にすれば、人口の人工的移動によるものよりも根付いた形で今よりは状況が改善している、といった事も考えられる。しかし、この場合は大多数の中では規則が大幅に変わる事もないだろうし、そういう地域の後進集団の中では依然として村社会的相互排他則がはたらきつづけるだろう。なぜなら種も文化も地域に出現したその特殊な一帯以外では、前とそっくり同じはずだから。
自分の信じる限り、後世これらの啓発の役目に否応なくまきこまれた人に忠告できるのは、こういう後進集団はおのずと僻地へと後退していくのだから、そういう人々に向けて本気で啓蒙をしなくてよい、という訳。いわば物分りの比較的よい人たちにしか高度な教育の立派な効果はない。そうでない場合、辛うじて最悪を避けさせる程度の効用、義務教育による法施行最低限度の引き上げのききめしか期待できないだろう。こういう意味でいえば、ある意味では信仰でもある過去の道徳論(形而上学、哲学、宗教)や、基礎的な法律・法学を教える事はいまは過半が通っている高等学校でも、その学問水準が相対的に低いほど高い効果が見込めるのかもしれない。文部科学省の教科書では現代社会や政治経済の中ですこし触れられている程度だから、なにか積極的な発明発見の業績による技術発展の系列という点では見込めないにせよ、特に「法律」はそういう科学の進展度に対する逆傾斜方式で、もっと教えるべきなのかもしれない。そうすれば社会で法を侵す恐れはより少なくなるはずだから。
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by smartestone | 2011-12-16 03:35 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

ことばのえりぬき

 発見したことによると、以前この日誌でかんがえた「ことばの重複、かさなった字義」の不効率というものはこうすれば解決できる。およそすべての文化圏でつかえることだから普遍的でもある。

 それは、どの由来でもよいから最も単純なことばを一つ取る、ほかはすてる、といういわばえり抜き。バナナは南国椰子といわなくてもいい。タバコは煙草とかかなくてもいい。すでに英語としてはいっているものは、わざわざ日本語化しなくてもいい。たとえばテレビは電子机とかいわなくていい。
表記もできたら一つにまとめていい。TVと書くとティーヴィーと発音するが、テレビかTVかどちらか一つでもいい。もしなんらかのわけでつかえなくなったらまたことばをいいかえればいい。そういう例は、あるからできる。

 これをほとんどのひごろの社会でつかってることばにあてていくことがいる。そうすると、効率はあがり、結果として生産性もたかまるから、まわりまわって幸福度もおそらくあがる。

 つかう漢字はできるだけすくなく、筆画がすくないものの方がつかいやすいし、目へのいらぬ負担もよわまり、のぞましいのはいうまでもない。日本語のばあいは、というより日文では、発音がカナで表記されてるので、特に英文表記するとカナよりも効率はあがると思われる。
 たとえばピザとかパスポートとかはPizza、Passportと書くと文字はより単純になる。アルファベットは日本語でもよくつかわれるけど、カタカナはひらがなと重複しているので見分けるため以外にはあまり意味がないから。

 これらを実行していくと、その社会のprogramとしての効率はかなり向上するだろう。日本語、その文法や語順や語彙を一切すてるのでないかぎり、少なくとも当分はこれでやっていくしかなさそうだ。
 英語が必修教科なのはしばらく文部科学省の方針としてかわらないとおもうから、それができるといろいろな本や人や媒体で英語がつかえる世界をしれてよりいいのかもしれないが、できなくともこの「ことばの効率化、えり抜き」をすすめれば頭は混雑をもたらさなくなる。意味がないかさなりがきえ、論理のはたらきとしてよりすぐれていくだろう。
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by smartestone | 2011-12-08 16:10 | 学術論 | Trackback | Comments(0)