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釜石市のNHK特集を見て

早い者勝ちということで、北茨城市の復興計画、そのmaster planは妹島氏に一任すればよろしい。まちがいなく。
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by smartestone | 2012-02-26 16:20 | 政治 | Trackback | Comments(0)

つくばareaのnewsのうつし

つくばエリアの子どもの夢、男児の1位は「科学者」
 関東小学男児の将来なりたい職業1位が「サッカー選手」なのに対し、茨城県つくばエリア(つくば市・つくばみらい市・守谷市)在住男児の1位は「科学者・研究者」であることが、子どもが育つ街研究会事務局が発表した調査で分かった。

 同調査は今年1月、つくばエリアと関東1都5県在住の小学生の保護者計700人を対象に実施。関東の平均では「サッカー選手」が25.0%、「野球選手」が12.5%だったが、つくばエリアの男児では「サッカー選手」(21.4%)を上回り「科学者・研究者」(25.0%)がトップだった。

 つくばは研究学園都市として知られ、教育施設や研究施設が数多くあるだけに、科学者や研究者の存在を身近に感じているようだ。

 なお、女児は「お菓子屋さん・パティシエ:パン屋さん」が関東平均(37.0%)、つくばエリア(32.5%)ともに1位だったが、関東の2位に「芸能人」(14.2%)が入っているのに対し、つくばエリアの女児は「芸術家」(15.0%)と回答している。

オリコン 2012年02月14日 18時23分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120214-00000335-oric-ind

~~~

こういうことをかんがみても、陸でもない東京資本であるつくばTVとかほざいている名称はつくば市が訴えでてかえさせるべきではないかと遠目にみえる。事実上、売却された資本なのになぜもとの名前を維持しているのか。これは名義のなりすましにちかい状況で、放っておいてもそんなにいい結果になりはしないだろう。
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by smartestone | 2012-02-26 06:18 | 経済 | Trackback | Comments(0)

身体の美と雄性形質の関係

 地域性の話題が出る時、大抵、いばらき乃至は水戸の特質として美人がいないという風評がある。秋田にながれてしまったという伝説も。

 これは、自分の感じでは事実ではない。というか、東京は人口が過剰なので当然審美的と評価されやすい個体もおおいだろうことをかえりみれば、どちらかといえば水戸や茨城圏に質の高い美がある傾向がつよい。概して、神奈川と東京の美というのはかれらがきづいていなくともそれなりに低俗な感じがあるので、わかるひとにはわかるだろう。
 おおよそ、関西圏では京都がになっている「伝統的な」役割を、むしろ関東圏ではいばらき乃至は水戸がになっている感じがする。地政の保守性がその原因なのだろうし、たとえば、それぞれ独自の哲学体系をもっているのでもその理念の深さが知れる。武蔵学派とか大阪学派なんてきいたことがない。ないのだ。東京・大阪というのはおお昔からの商業地だからそういった金にはなりそうもないものが甘んじてはぐくまれにくかったのだろう。

 なにがいいたいか。
 美醜もそうだが、性選択の結果としてある形質は集積するのだろうというはなし。
なぜ水戸には美女が少ないと風評されるか。これは武士の本丸だからなのだ。御三家として侵略や破壊されなかったというのが真相なので、その場では厳しい風儀といおうか、ある保守的徳義が重視される雰囲気がのこっている。だから性選択の方向が、たとえば東京・江戸にあってむかしから歓楽街でおこなわれていた様な「女性の美」へは向かいづらかったのだ。 *1
逆に、水戸であきらかにめだつ姿というのはある威風堂々とした男性陣の形質である。高校生一つとってもそうだ。
これは同時に、東京圏の男子高校生と、水戸あるいはいばらきの男子高校生を見比べてみるとはじめてはっきりする。まこと質実剛健としか言い様のない姿がかなり保守されているのは水戸の方なのだ。具体的に比べるために、ここに学習院高等科の男子と水戸一高の生徒を任意に何十人つれてきて見比べてみるといい。風紀から仕業から立ち振る舞いから体格から志からまったくちがっているわけだ。*2

 これが真実、「なぜいばらきでは女性的な意味での美人、つまり美女が少ないと風評されるか」の根源因なのだろう。性選択される余地が比較的すくないという土地・政治あるいは市場と社会、要は環境の条件がつづいてきたから。実質、自分もそのはしくれだからわかるが、ある照れ隠しという性質の古風さもあって、いばらき圏の男子というのは美女そのものをその美的であるという意味だけで人前で堂々と褒めたりしない。いや、できないのである。勿論できる人もいるだろうが、これをよむひとにはたしかにそういう傾向はないだろうか。
むしろ、性格のよさというものに仮託して間接的に褒めるくらいが関の山だろう。*3
しかし、これが武士道のなかの性的選択の方法論だったし、いまもいきのこっている古きよき日本の、いわば侍らしさのかけらなのだったろう。これらの土地でそだったものは知らずしらずその風紀にのまれていく。
――おおきくみると、封建道徳というもののなかにあった宗教感覚らしきもの、つまり一夫一妻的な堅い価値観、貞操観念やいわば良識的であれとのぞむ家庭観が身に着いているかそう導こうとしたがる傾向がつよいというわけだ。
そしてここは、実に関西圏で、或る意味では対蹠的だが、公家風がしみついた京都とのおおはばな違いでもあるのだろう。公家は「暮らし向きのきびしい武家とはちがって」家庭的なのを理想とするのではなかったから。

たとえば、いばらき乃至は水戸がくにがらとみればアメリカよりもイギリスの方がちかいふしがあるのはこういうわけなのだろう。保守性がのこっている場所には、上に書いた旧来の封建道徳のなかの特定の資質をそれなりの程度もしくはそれ以上に無意識であれ前提にする文化の素があるから。そしてどちらかといえば、無論一般市民に関してはだが、厳格な一夫一妻制度にちかい資質をもっている。

 これらの要素から結論づけると、美女の性選択というのは秋田や京都にまかせて、水戸は男性陣の佳さにかぎってものごとを推進していければとりあえずいいということになりそうだ。雄々しさのよい特質を守り、あるいは高めていけばいい。いいかえれば、英雄性をもとめ、それを尊ぶ風儀を守り抜けばいい。*4
一般論として、女性からの選り好みというのは男子の見た目よりその能力にあてはまりやすい。

このおおきな理由はY染色体が生物学的にみて、母体としてのX染色体に対して「付け加え」という位置にすぎないことにあるのだろう。(たとえば女子がうまれたときこのX染色体が父母どちらに由来しているかは不透明でわからない。しかし、男子のときはY染色体の系譜というものは確実に父に由来する。これらから単純に類推すれば、ただの人類学的な一学説ではあるが、地位の高い男性との配偶からは男児の出産率がたかまる傾向というのもこの雄性系統の着実な遺伝にあるのかもしれなかった。より緻密にいうと、「男児の出産率の高い系統」がいきのこりやすく、かならずしも配偶まえにはわからないわけだが、社会淘汰の結果としてえりごのまれやすいとされていくのだろう)。
またいいかえると、Y染色体は有性生殖のしくみのなかでは副次的であって主体性をもってはいないということだろう。健康な男子との配偶であれ、母体が不健康なときその子が健康である保証はない。つまり全体としての個体性ではなく、ただそのなかの特徴のみが雄性的なのだろう。この意味でも、特徴的なほど(なんらかの、できればより一層のこと実利的な)優秀さを高めていくことこそ水戸らしさ、いばらきらしさを極めるみちのりなのだろう。*5
選良的な優秀さをもとめよ。これが結論だ。

―――
*1 旧水戸藩の地域にすんできたひとにはわかるだろうけど、水戸の吉原と東京の吉原(あるいは江戸の吉原)というとまったくはなはだしい意味のちがいがあるのはこのためだ。

*2 衣服は少々着古しているが、他人にもたれかかってなよなよとした者がいないのはどちらだろうか。

*3 あたりまえだが、こんなことをしていれば恥やあとさきもなにもかえりみず、女性がすこしでも美しいと思った途端に目の前で褒めて褒めてほめまくるたちの集団にくらべれば、そういう特徴をもった人がどんどんと集まらないのもしかるべきではないだろうか。いわば軟派か硬派か。直接どちらも訪れるなかでフランスのパリと、イギリスのロンドンをくらべればはっきりするわけだが、やはりあつまっている人々のもっている地域性というものはあって、似たものがあつまってしまいがちなのが人類の村、ギリシア語でいえばpolisというものなのだろう。同様の原理は、今の段階でもたとえば東京の原宿と茨城の日立を比べれば全然ちがっているとおもわれる。

*4 ここが不思議なところでもあるが、それが結果とみれば浮ついた風紀にながれやすい東京とのすみわけのなかでむしろ美女と配偶される機会、つまり健康な個体の性選択にとっても好都合という逆説さえあるはずだ。

*5 サッカー常勝集団としての鹿島アントラーズ、或いはプリツカー賞の妹島氏などはこのそれぞれ一つの模範だろう。特徴には実利性をもったものと虚栄性をもったものが大きくみて二つあるとすれば、質実さを基本とした地風をよりよい方向へみちびくには、文質彬彬という論語の文句もあることにはあるが、より実力にちかいものを選りごのむべきだし、どうせ大都市圏ほどお飾りにつかえる余裕がそれほどあるわけでもなければ個々が必然的にそうならざるをえないだろう。
たとえば、とりにはトサカもあればクジャクのみせびらかし用の羽もあったわけだが、前者が実利をもっているのにくらべて、後者はただ虚栄のためだけにつかわれる。性選択は連続的に、世代をまたいで暴走するのがしられてきたので、環境の変化に持ちこたえ易いのが実利性、実用さ、つまり「つかえる」というたちだといってもまずまちがってはいないだろう。人類の中でおこなわれている選択も、ほかの動物とその複雑さについて同質のものとはいえないとはいえ、おそらく因果関係としては似た結果をもたらすかもしれない。環境の激変にたえられるのは役立たずすぎるそれよりは、少なくともどうなろうとつかえる形質ならびに文化的習性のがわなのだろうから。
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by smartestone | 2012-02-25 02:50 | 経済 | Trackback | Comments(0)

行政権益の分析

現都知事のかんがえはつぎの様なものだろう。

「いのちは大事だ。いのちを失えばどう仕様もない。
まず逃げ道を確保するべきで、そのためには放射能からの被災がない、関西圏へ逃げ出す方が生存確率があがるはずだ。あらゆる手を弄してでもそうすべきだ。」

「この建前には経済的地位をあげつらえばいい。大阪は(11兆を超す財政赤字が累積し、日本でもっとも生活保護者の人口当たりの割合と数が多い高負担國にもかかわらず *1)日本で事実上二番目に大きな経済規模をもつ大都市。当然、権益のうまみもほかよりはるかに大きい。だから大阪の主張にはとりあえずのっかっていればいい。当面、貧乏なんかになりたくないしな。だから経済規模だ。そこにマスコミを通した知名度ではだれにも負けない息子をおくりこめればどちらにせよ済むはなしで、確実に予測される未来などしらない。
なに進む少子化で中国やインドにくらべれば経済的地位がイギリスの様に近い将来斜陽化するのがわかっている? なんのことか。死後のことなどしったことではない。亀井と新党の話題づくりでもすればあらゆる情報の集散地、東京中心にまだまだ売名できる。」

「だから福井にははるかに大量の原発をもっている関電のことはしらない。被災可能性? 目先だけみればいい。とりあえず大阪ガンバレでいい。そうすれば、あやしいうごきをしている名古屋市長・河村のやつのおさえもかねられて一石二鳥。そもそもわたし自身の出身も関西だったから丁度ええ。
おなじく、いきなり独断で、ほかの原発より強制的に優先して、税金で補償までされながら緊急停止させた浜松原発停止命令もバシバシ擁護でいい。なにしろ逃げ道がなくなったら困る。先ず俺様一族が逃げるのが第一だ。」

「関東は放射能汚染されてるのだからもう駄目だ。逃げるのを前提にしなければどう仕様もない。どうせなら天皇を京都へ持っていけ。あんなのに威張られたら邪魔だ。どうせ俺も逃げるつもりだからそれでいい。関東の群馬栃木埼玉千葉茨城ついでに山梨や静岡だろうともうすててもいい。とりあえずどうでもいい。日本最大の商業地東京都がジャイアンだ、6都道府県連合という単なる戦後慣習だが、首長の顔ぶれも大抵おなじで定期的に会合ひらいてきた気心の知れたこうも低民度適合の枠組みなんだから、そこですきかってにこの東京様がふるまえればそれですむのだ。こい神奈川。お前は俺の手下、金持ちだけが自慢の腰抜けスネ夫だ!
だから、特に悪意だろうとなかろうと、この俺の好きにさせろ。日本の中枢の実権力は俺の手の内にあるのだ。官僚? なーに国政は駄目だ。ペーパーテストしかできない無能な官僚が駄目なんだから小説家出身で唯一有能なこの大俺様の勝手にさせろ。ガハハハ! なにい、被災地? 犯罪煽動小説? どうでもいい。俺が一番だ! 天罰だ! さて、次は猪瀬だ。作家仲間だから都合がいい。話が通じ易いからイエスマンでいい!」

……と、大げさにいえば、また彼の終生書きまくってきた彼自身が大好きな悪漢小説風に戯画化してしまえばだが、こういうところだろう。すべての手を読むと、おおよそこの中でこの意図のもと連日悲劇的にふるまっているととらえていいだろう。だから老衰はおそろしい。年寄りの冷や水ということわざの通りだ。ただの遠い海辺の一かもめに悪意すら読まれてしまうわけだから。というわけでもないが。

 東京の周囲そして北側にある諸地域は、こういうかんがえをいまの首都の首長がもっている、ということを認識した方がいい(*2)。で、彼ら現都知事界隈の本性を暴露させれば被災者のことなど東京外だからなんともおもっていないし、実際に責任の埒外にあるのだから平気なものだ。岩手の為の手伝い。それも国政での最大実力派を率いる小沢氏からの見返りを目あてとした、間接的援護射撃だけのことかもしれなかった。だからこその天罰発言でもあったし、原子力発電所を立地させている被災地を先に停電させた悪意ととらえられてしかたない業だった。それは東電4286万株からの配当を都が年間25億円せしめている(といわれる *3)理由でもあり、被災地被災者は無論もたざる地方への手助けよりもすでに財政規模においてはるかに優遇されてきた(大阪への地方交付税は年間2594億円 *4)「府」への優先的な応援団長パフォーマンスという弱いものいじめ一切なのだ。

重要なのはつぎの点。現実社会は「力関係」、つまりパワーゲームでうごいており、その底にはまず武力つまり国家に属すか属さないかに関わらない警察規模、そして財政力という二つの要素のみが働いている。さらに抽出すれば、警察の持っている兵器の能力差だ(当然サイバー兵器も含む)。ほかの要素はとりあえず無視していい。それら人間関係的な要素やらは当面、理想論にすぎないだろうから、純粋な文化人そのひとへまかせてしまうしかない。ただ冷厳な政治にのみ焦点をあわせれば、力に応じて適宜ふるまうしかないはずだ。だからいまの世界のなかではよりつよいものへ徹底的に付き従うしかない。
さらにその上で、自分自身が最強になる様最大限努力をつみかさねるしかない。以上をかえりみて、名古屋(愛知)、大阪、東京のうち最後に勝つ者へ付き従うしか道はない。そしてそれは、冷静に警察規模と財政規模を見比べれば、万一、東海第二原発が最悪規模の事故を起こしても首都圏に置かれた機能及び人口はほぼ同じ(もし風下であろうとおおよそ80km圏外なので避難するのは一部に留まる *5)なのだから東京都になるにちがいない。ただし、おそらくこのあいだには現東京都知事の交代劇がはさまれるはずだ。事態は長期戦の様相を呈している。ここも世代交代をはさむかもしれない。これらの分析から近未来予測としていうことができるのは、現時点の現実社会は人口動態を中心に動いているという真相だろう。
 また、大阪府の内部は非常にゆらいでいて、橋下氏のあしもとは想定されているより安定した土台ではなさそうだ。どうやらかれのあやしい出自問題という関西圏にありがちな足のひっぱりあいが水面下にうずまいているらしかった。ただ、東京都との対立のためだけに都合がいいめだって風采のあがりそうな芸能人を、大阪のマスメディアが話題づくりを目あてとして番組編成へあてつけをこめよびこんでいるふしがある。結局、現実の大阪の財政は独裁者つまり一個の首長の力で抜本的に変革できるわけではなさそうだ。
あまりに税収にくらべた財政支出のなかの怠慢と無益さからきた赤字規模が大きすぎるので、ほかの国民はその浪費生計にまきこまれてしまうととりかえしがつかない。関西連合の外にいるすべての国民は合理的にかんがえれば、かかわりあいになればどうせ借財されるだけなのだから、もっと個々が冷静に自己の利害損得をかんがえ、長期的にみて利己的にふるまった方が善いとおもわれる。
実質的に煽動屋、つまり衆愚政をもとめるdemagogue状態なのだから、触れてはいけない府の状態だといえる。自滅して、一旦財政破綻させるのを待つべきなのだ。もしどうしてもしなければならない義務だとすればだが、そうどうしてもとなってから嫌々ながらさせられてすこし手助けしたくらいの方がまだ痛い目にあわなくて済むのは政治家でなくとも常識以上の判断力があれば分かる。複式簿記の導入もせめてもの鎮痛剤でしかなく、どうせ府行政単独では永久に返済不可なので破綻する事は避けられない最悪の状態にあるのだから。
 ここで民間の傍観者の目にはっきりとみえるのは、とりあえずの時期有力者は河村氏その人ということだ。
かれの地盤は外観強固であり(内部抗争はあっても懐柔策が庶民派を装ってたくみなので表面化しない)、その目的も財政の省資源化という大変に明白な展望のもとにある。野心もあり、隙がない。唯一の欠点は福祉重視な政策態度、いまでいう民主党の革新派(反自民党勢力)または社会民主主義との対立というところだが、日本人の世論はそこまで追いついていないといおうか、福祉国家の意味すらよく理解していないのでもっぱら節税論を好都合な世論煽動の種に逃げ切りそうな雰囲気が濃厚だ。
テレビと新聞からあおられてしまえばたとえば教育医療福祉を見捨てる結果になり格差がかえって拡大して貧困の底が抜けるだろうといった深いかんがえとか将来予知なしに、尾張藩的な倹約財政論へ甘言にのって協賛しそうなのが大衆迎合趣味な東海道圏、(つまりは東京から関西までの大都市圏一帯)だろう。しかも、これはいわゆる埼玉・神奈川、あるいはおまけに山梨や静岡といった関東の右に習え地域といおうか、とりあえず流行にのっとけ的衆愚主義的な諸地域がマスコミの話題あおりにゆられてしかも自信満々で目一杯驕りながら追従してくる可能性がたかく、おまけに河村氏は、特に目立って息のかかった後継者がいまのところあらわれていない現都知事より、十分に若い。中期的には確実に国政でも地位をえられるポジションについている。この勢いを落とせるポピュリズム劇場の対抗馬という者がない、という限り、今のところ、問題はこの首長鼎立選の乱世に際して「(驕りのうちにあって地方自治体の力を軽んじている)東京都をうまく懐柔しつつ、河村氏を旗印とした節税主義という「選挙の」勝ち組の、各地方界ならびに事実上の首都圏での最大の功労者」になることだけだ。どうせこの潮流は節税によってかえって格差が拡大するとわかって一定期間後終わることがきまっているが、すべてをかえりみて、政治的、すくなくとも行政権力ゲーム上でいま重要なのは東京都の腰抜け旗本御家人振り、ある伝統的馬鹿殿振りへの面従腹背にしてたくみな処世術、いわばその傀儡的乗りこなしでしかないだろう。これが民間人として見抜ける、現時点の首長選国時代生き残り原則だろう。
勿論原則だからいかなる例外もありえる。場合によっては国政の意思決定へ事前に深くかかわって、被災地復興という欠かせない予算確保の為のあらゆるロビー活動をどの成員もできなければならない。復興担当大臣の言論弾圧に対して仙台放送が行なった一連のネット大衆メディアを利用しながら半ば暴露を意図された逆転劇をみてとれば、すさまじい情報伝播力をもっている全国放送のテレビというもの、そしてその核心にある各国民自身が発信しているネット世論の先取りが鍵をにぎっているのが今日の現実的正義の水準だ。
いいかえれば「テレビうつりのいいしわざ」がすべてといっていい。それがすべて、というのが現状だ。これはどれほど強調しても足らない。それがすべてなのだ。事実。ツイッターなどネットmediaは、結局このテレビをあおる、という役目におちつきつつある。一度に見る人数がすくなすぎるので、同時代性や洗脳性をあまりもっていないのが原因なのだろう。
 それ以上でもそれ以下でもないのだ。ゆえに、各種の情報機器をさきがけて自治体が利用し広域発信していくのが吉と出るだろうし、なおかつ全国放送系のテレビ局との緊密な連携と契約が重要きわまりない。それにしたがって行政の透明化もすすみ、いわば見える意図のために長期的にみた信頼感を得易くなることもあるだろう。ただ情報力の徹底強化へついやせる財も当然そうなるだろうが、同時に確保できる高い技術者の程度というものの方が直接の無駄な経費よりはそれを強化し易いことは、hackingとかsimulation programを本質的にアメリカ軍が主体となって研究してきたことからも、そもそもinternetの起源からもあきらかだろう。
第二次世界大戦の際にもドイツ軍の暗号は、イギリスのケンブリッジ大から招聘されたチューリングらによって容易にとかれていたという。県民にとって、筑波や日立がいかに重要かわからない証拠でもある。たとえば、各地域行政の内部には各地の新聞・ウェブ・ラジオ・政府・軍事乃至はありえる機密情報を調べ尽くす専用の機関がもうけられていいはずだ。飛耳長目をひくまでもなく、もっとも単純には発行されているすべての新聞を読み込み報告するというだけの行政部への補完機能でも、情報社会ではその風上に立つ方が有利という基本原則から、もちえる力が相当ちがってくるだろう。これは自他ともに透明度を高めるために、かえって主体的情報収集と分析能力、いいかえれば諜報の才がいるという逆説のわけでもある。冷静にみれば。たとえば、慎重に見て技術能力を買ったウィニー開発者の重用なども将来的に有用になるかもしれない。*6
情報能力を高めすぎということは現在ないはずだ。

―――
*1 http://www.city.osaka.lg.jp/zaisei/page/0000129446.html
http://www.city.osaka.lg.jp/zaisei/cmsfiles/contents/0000129/129446/image002.gif

>・大阪市と大阪府の借金残高は全会計ベースで以下のとおりです。
大阪市 51048億円(5兆1千48億円) 
大阪府 60879億円(6兆879億円) 
計 111927億円(11兆1927億円)平成22年度末見込み
>・大阪府では、財源不足の対応のために使ってしまったため、積立不足が発生していると公表されています。
また、

http://memorva.jp/ranking/japan/mhlw_seikatsuhogo_pref_2011.php
(都道府県の人口は平成22年(2010年)国勢調査人口速報集計結果の数値。)
生活保護受給者数及び割合
順位 都道府県  被保護世帯数  被保護実人員(人)  人口(人)  人口に対する被保護実人員の割合(%)
1   大阪     208,831    289,385    8,862,896  3.27
5    京都     39,870    59,257    2,636,704   2.25

9    東京     199,863    263,534    13,161,751  2.00

12   兵庫    69,520    99,305   5,589,177  1.78
23   宮城    19,256    27,782   2,347,975  1.18
29   岩手    10,475    14,849   1,330,530  1.12
32   福島   13,888   19,048  2,028,752  0.94
35   茨城   17,294   23,335  2,968,865  0.79


*2 http://kyoko-np.net/2007030901.html
(http://megalodon.jp/2012-0208-1336-09/kyoko-np.net/2007030901.html 予備)
「虚構新聞」の自称‘UK’が、(財政規模がおおきくなりすぎるので関東は数分割しようとした中央の平等主義的な善意からの試案を)悪意で逆にとって、北関東だなんだと、日本最古の風土記の制作から最も伝統あるこの坂東の主にして大国の主権者をどう名誉毀損罪および侮辱罪しようが、滋賀住みの彼の風説流布による広告収入というあしき商慣行が刑法第233条から第234条及び場合によっては群馬県民・栃木県民・茨城県民ほか各県の企業の関係株主ならびに当の風説を流布された東京都の身になれば証券取引法158条に触れている犯罪行為なのだからこの自称UKと名乗る悪徳の人物はいずれ逮捕され実刑を受けるだろうし、無視もしくは積極的にその罪科を償わせるには即刻滋賀県警含む各地の警察と警察庁に同時通報していいのはいうまでもない。たちのわるい冗談のつもりだろうが明らかに信用毀損罪・業務妨害罪にたぐいした被災諸地域の風評被害をあおる風説のレベルになっているのだからどう仕様もない。福島県も勿論そうだが、これら農業県は生死にかかわる深刻な風評被害に苦しんでいるのが現状なのだ。いうまでもなく、他人にとっての真偽判断など土台しったことではないだろう風説大好きUK容疑者のことなので、所詮イギリス人ではなく日本人であるからにはわれわれのつくってきた日本の風俗と法基準に従うしかないのだが。

*3 https://twitter.com/#!/ykabasawa/status/172704789552054273
http://twittaku.info/view.php?id=172704789552054273

*4 http://www.pref.osaka.jp/zaisei/joukyou/09sikumi1.html
(2.大阪府の地方交付税の状況)平成20年度

*5
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上にあげたの二つの図をみくらべれば、もし常陽で同等のレベル7の事故が起きれば――さらにこのあいだと同じく海側への水素蒸気の排出を(この間なら首相ほか)なんらかの勢力らの壊乱で手間取り、陸側へすべての放射能が流れたとしても――80km圏外への避難が先に通告され、次第におさまれば50km県内が暫定避難区域となり、やがては30km圏内が避難区域となり、最終的たちいり禁止は20km圏内となるはずだ。このどのばあいでも、心理的要因をのぞけば東京都や千葉県、そして栃木圏は基本的に安全で、あったとしても土地の農作物へ一定期間の微弱な影響、つまり暫定出荷停止でしかないかもしれない。
これらは単純に前例から東海第二原発ならびに常陽の事故がレベル7に至ったばあいの仮想的被災距離でよりくわしい原子力知識の専門家にとってはよりひどくなるかよりやさしいはずかどちらかということだろうけど、現実には不測のterrorism以外の要因でこの間際になる可能性は、いまあらたに予想されている茨城沖の大地震に際して特別に用意された、決定的に冗長な対策のなさをのぞけばかなり低いだろう。たとえば非常用電源を空路で、県庁や他の複数の補給施設から直接現場にもちこむ準備、あるいは耐久性の十分で、故障しても即座に代えをできる実用的な、遠隔操作できる非常用電源接続をおもとした修繕ロボットの複数設置とかだ。その種の電源接続を海水浸水下でも生化学兵器による汚染滲入下でもできる、特殊な超高気密スーツでもいい。人工物で起こる災害な限り、予想可能な範囲はかなりあるのだから、持てる手を尽くしてはじめて致命的被災が避けられる。
 もしもマスコミが過剰に不安をあおれば、すくなくとも東京または関西圏のなかで真剣に皇居の移転くらいはかんがえられるかもしれない。しかし、より重要なのは国民の命だ。現実の生物学によれば国民から天皇家が出自しているのであって逆ではないのだ。国民が生き残ればそこからもっとも有徳な者としての天皇家は出自し得るが、主権者が亡びればその国体は消滅するので逆にはならないことは皇帝ナポレオンが証明している。そして、あたりまえだろうが主権者が法によって天皇を擁立させているのであって逆ではないのだから、国民の命が天皇家よりも優先というのが道理である。宮内庁がそうしたがるのとはちがって、逆は美談にはなりえないことを知らしめねばらない。フリードリヒ2世「朕は国家の最高の僕である」。
よって、すくなくとも事前にこの緊急避難が勧告されるだろう80km圏内の国民ならびに県民が、いかなる基盤設備の崩壊状況にもかかわらず原子力災害の「当日」、24時間以内即座に、経口ヨウ素剤を服用できる様に行政の側は国家と安全保障面で契約する必要があるはずだ。もしそれさえできれば、おおはばに死者と原子力災害によって起きやすい甲状腺癌患者はへらすことができる。
 いまの段階では30kmあるいは50km圏の自治体は自主的に用意してどこか一般にしられていない場所へ仮置きまたは配布しているといった甘い状況なので、よくない。どうせそれらの安全保障は原子力機関をおおやけに許可した当の国民の安全を守るはず最大の公共団体である国家政府または、原子力発電所をつくらせた株主と東電・日本原子力発電という私企業の経営者の義務なのであり、個々の住民はそれらの「想定内公害対策」を事前にされていなければおかしいわけだ。つまり端的にいえば50km圏内外もしくは80km圏のすべての国民へありえる公害に際して命を守る為には是非摂取が必要な経口ヨウ素剤の必要量を先に直接、各家庭または個人へこれを義務化させた電力会社の資本から支出させてどんどん配らせるしかないのだ。
自治体が財政支出する必要はない。健康を害しかねない機関を土地に設けている主体からの当然の義務として、単にそれらの経口ヨウ素剤を、各家庭と在住個人へきめこまかく配らせ、また配りきる必要があるわけだ。それにくわえて、わかりやすいシンプルな注意書きによって、原子力災害があったとわかってから24時間以内にそれらを(医師からの特別の制止がない人民すべてが)年齢に応じて適量服用する様に、きちんと事前に十分予行演習させられていなければならない。
まこと平和呆けしている経済成長に甘んじてきた世代なこともあるだろうし災害時の自治体もしくは地方行政側の対応というのは思ったよりはるかに万端ではないのが経験則だから、むしろ個々人へ直接くばっておくことしか道はないといいきれる。それ以外では、この日本へ土着した古来の人々でいえばだが、おそらく災害がいざ起きても適切に物品がくばられることはない又は不足の事態とやらで、なにせはじめてのことで、でごまかされておわる可能性がきわめてたかく、その曖昧にごまかされた状態ではただの利潤を最高目的としている、他人の命などすこしも優先していない悪徳をもった商人あいてにすこしも安心してはいけない。そして行政人さえも、しばしば災害時には、やはり理性が弱まって立場をわすれて素が出たのだろうけど、その出自あるいは育ちによっては商業気質をむき出しにしてきたりしていたのだからこの契約を率先させることはすべて市民が深刻にかんがえて、議会でとりあえず強要した方がよいにちがいないのだろう。

*6 参考のessay
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51763340.html
(ひかえ: http://megalodon.jp/2012-0225-0653-10/ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51763340.html )
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by smartestone | 2012-02-24 11:45 | 政治 | Trackback | Comments(0)

海の熱点

http://www.nikkei.com/news/article/g=96959996889DE1EAE1EBEBE2E3E2E1E2E2E3E0E2E3E086989FE2E2E2

海にもホットスポット 海底土汚染、宮城・茨城沖に
文科省調査 放射能測定域を拡充

2012/1/30付
日本経済新聞 朝刊

 東京電力福島第1原子力発電所から放出された放射性物質による海の汚染の実態が、海底土の調査で明らかになってきた。宮城県や茨城県沖には、放射性物質の濃度が周辺より高い「ホットスポット」が点在する。海流や河川からの流入が複雑に絡み、まだら模様の汚染を引き起こしていると専門家はみる。現段階では調査地点が限られており、政府は今後、海洋汚染の調査を拡充する。…
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by smartestone | 2012-02-24 08:22 | 経済 | Trackback | Comments(0)

高萩市長への忠告

 高萩市長は、自分がみるにはだが、福祉主義の力があるので河村氏の没落をみはからって国政で首相をつとめるべきだ。そしてあらゆる正当な説得で北欧あるいは英国などヨーロッパ諸国に近づけた潤沢な医療・介護と教育資金を少なくとも切り詰めた行政費用から捻出すべきだ。
高齢化でたかい経済成長はもうみこめないのに福祉後進国という現状のわるさとそこから先達の模範をひいての改善改良を強調しまくればいい。事実、国連では国立大学まで無料を推奨しており自由主義圏の先進国はテロリズムの不安におびやかされているのだから、いわゆる金持ちという超少数派をのぞけば国際潮流は福祉を重視させたがっているしそうならざるをえないのが現実だ。*1
かつ、それら復興庁ともからめた福祉が軌道にのればさっさとやめる方がいい。このやめかたを最初に決めておくのが吉だ。そしてふたたび高萩市のなにかの役職にかえるかどうかというのを考えておけばよいのだろう。
 また都合を論じれば、草間氏にとっては基本として、高度な福祉を実践するには県北部だけではその税収が足りなすぎるのだ。そして逆に国際市場には、そのホンの上澄みにだがありあまっている。しかし、労働者には決して還元されてこない。アメリカという国柄が過剰に投機的な場所を中心としているかぎり、国際金融の不安感が経営者へあらたな採用をみおくらせ、いつ変動がおきても首を切れる期間労働者の増減にかぎってこまぎれ単位であたえる少ない給与をさらに細分化しながら賃金をしぼっている。つまり冷えた市場で調整する量をますしかない。いいかえると、資本流動性をたかめる行政が好まれる世界なわけだ。
さらに将来の不透明さという最悪の不安感を払拭してくれる実感がある、不足分のおぎない、すなわちほとんど基盤的な人のための分野である医療介護や教育費用を国が肩代わりしてくれればありがたがられる。これがかつてBritain島でおきた有名なイギリス病におちいらないために、低成長社会下で景気を循環させるための原則だ。言うまでもないがいまは復興ということをめだって報道しないと、無慈悲な人をのぞけば何となく溜飲がさがらないだろうからそれを例外的なコンクリート分野として大事にしつつ。

いまの状況をよめば似た政経塾つながりの野田総理は増税への反撃でつぶれるはず。なおかつ、大変に世論の圧力がマスコミのたちのわるさにともなってつよまっているので、おそらく遠からず分裂するだろう国政という悪所は長居してはいけないが、逆に期間をくぎった単発の業務を実行させるにはこの世論のゆらぎやすさは十分条件になっている。
自民党民主党どちらにもあきがきているのもポイントだが。いわば「現金をとってしまえば勝ち」というサバイバル段階とおもう。
ここには当然、いわゆる弱者としての高萩市をいれた「震災報道の陥没地帯」とされている県北への質の高い復興計画をもふくむ。というかそれを野心として持てばいい。天下をとった者はどちらにせよそれくらいは手に入るものだ。あるエピソードとして草間氏の出自の物語は大衆にもうけいれられやすいだろうし、とりあえずどの批判の渦にあってでも潰れない為の根性は姿勢にみいだせる。
当然、大畠氏が最大の援護者として国政内の情況を完全にととのえればいける。草間氏はその柔らかい出で立ちや立ち位置が、もともと公家的な風儀をこのむ‘たおやめぶり’になれている関西にも受けやすいから役者の柄が、連合までつくっていかにも国政へ反抗的な関西圏をも治めるためにはいまのゆれている国政の状態には向いている。懐柔的で、大阪の橋下氏のごとく権威づくでない方がおそらくメディアうけメディア映りがいいというわけだ。そのうちどこかの政党に吸収されるだろうきずな党あたりがもっぱら分け入るのにもいいのかもしれない。自民党閥のつよさからいうと、県内の諸勢力と将来的に対立しないためには自民党からでない方が世論におびやかされず、あとぐされもないだろうからかえって好都合かもしれない。
 ダークホースな河村氏の方向性は、尾張藩の伝統をみてもそうだが宗春の様に、ある期間ののちに大衆自身からつぶされる。手堅くやっている人が割をくうというのがあきらかになってきてからまず世論が、つぎに側近が反抗に転じるからだ。

 また、ここでコツとなるだろうことは、ロンドンブーツの田村淳氏との信頼関係だ。かれは下関市出身だから愛郷心のつよい長州・山口県の諸勢力をとりこむのに都合がよく、いわゆる国政と都政の混乱(これは石原一族の国政都政の界隈での世代交代に際して必然的に起こる)へたくみに割り込むのにも、キーパーソンだから裏切りできない裏付けをとった緊密な協力が適切だ。あの混沌とした状況で北茨城市へ自主的に支援にきた、というのは田村氏のある行政的才覚をしめしているので、いずれはなんらかのポピュリズムをとおしてどこかのタレント知事みたいなたちばに、むしろ周囲からせかされて就かされる可能性がたかく、かなり重要人物なので政治とみれば付き合いを大事にした方がいい。
 なにより、あの勇気と実行力を買うべきだ。おそらく地元でそれなりの幕末のことをおそわっていたのだろうけど、あの時点でただの民間人ながらおこなえたすべては尋常な決断性にもとづくのではない。
震災直後だったが、都内ではどちらかといえばみな怯えたり、おしだまっていたり、逃げ道をかんがえたり実際にあちこちへ逃げ出す者もおおかったし、なによりみな買い占めまでしていたのだから。それが凡人ということだ。

―――
*1 個人の自由をもとにしてすべての経済への最小の干渉、最大の放任を命題としていってくる新自由主義側(一昔まえの古典としておもにはハイエクからながれているロールズ、国内ではおもに竹中平蔵氏)という論客からの批判を汲んでもそうならざるをえない。なぜなら、世界はいま、民主政をえらんでおり、世論によっておもな政策が誘導されきめられるのだから民衆が不利になる政策はミニメディアの噂などで悪評されどうせつぶれる。
こういう反論があるかもしれない。大勢としてこうだからといってそうでないこともできるだろう、これはいえるが、その場合はごくかぎられた地域政でだけ成功するだろう。たとえばルクセンブルクやシンガポール、上海は生活そのものより金融が優先されえるめずらしいそういう地域かもしれない。だがどこでもそうできるわけではなく、おそらくは金融取引市場がすでに成立しているときしか能を発揮することはないだろう。
 ケインズまでさかのぼると、「金利生活者」の数量こそがその新自由主義の最後の牙城になるのだろう。ケインズ自身が『一般理論』に書いているとおり、かれらの数は資本主義の敵であらざるをえない。この素朴な修正主義側の意見はいまだに生きているし、将来もいきつづけるはずだ。一部の安楽の為だけに全体が犠牲になる、というのをまっとうな状態とみなすかどうか、これが修正資本側にたつか、それとも自由放任側にたつかのちがいになっているわけだが、国際潮流の皆は正義をくわしく分析した結果、おそらくどうしても前者にたちたがるだろうし、現に世界史はそうなってきた様におもう。つまり資本主義経済がおかしい、ときづくばあいはいつもこの調整的正義のなさ、にもどる。それを散々試行錯誤してきたのが18世紀なかごろの産業革命から20世紀の期間、いわゆる近代だった。あれほどすさまじい国家同士の喧嘩までしながら。
植民地化の趨勢はおわってしまった。これは短期的に、ある新天地のみつかった特殊な開拓の状況でのみ自由放任状態の礼賛がおこり、その場が人口のおおくなるにつれて調整がかんがえられてくるということになりそうだ。未開拓の産業革命がつぎつぎおこるという時代状況もふくめて。
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by smartestone | 2012-02-23 07:00 | 政治 | Comments(0)

50ミリシーベルトでこどもは検査が必要らしい

以下の引用記事によれば、筆者が下線部を引いたところをよくよんでほしいが、IAEAが甲状腺への累積被曝量50ミリシーベルトで、こどもに甲状腺癌のあやうさがたかまる、と判断したらしい。だからこれをこえそうならば、事前に経口ヨウ素剤を手配して(医師から服用を注意されていない者は)その適量を被災当日24時間以内ににのませるべきなのだろう。
 これはとても重要なしらせだ。つぎにちかくで原子力災害があったとしても、おなじ原則から、50ミリをこえそうな子はみな、精密検査させるべきということだから。

したの記事でもわかるが、国家はアジアではどこの政府もそうなっているわけだが、やはり官僚制をひいているからなるだけ失敗をしない様にうごき、できるだけなにもしないことにしてしまおうと普段からの業を延長してくる。だから事前にてをうってでも、強制的にうごかす方途をねりきっておくしかない。行政といおうか、公務員は最後までうごかないし、うごいたとしてももっとも消極的な理由で、というわけだ。概してなまけものといわざるをえない。
 だがそれが現実なのだから、われわれは単にそれを改良してもちいることに集中すればいい。うごかざるをえない様にかこいこんでいくことだ。
 それでしか無能な、つねに腐りつづけていく巨大な体制がかわってくるわけがないのだから。政府の義務となってくれば、うごかなければ訴訟する、という次元でおいつめておくしかないのだ。これが真相なことはあの被災をしたすべての人がもうわかっていることだろうけど。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120221-00000041-mai-soci
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<甲状腺内部被ばく>国が安全委の追加検査要請拒否

毎日新聞 2月21日(火)15時0分配信
 国の原子力災害対策本部(本部長・野田佳彦首相)が東京電力福島第1原発事故直後に実施した子供の甲状腺の内部被ばく検査で、基準値以下だが線量が高かった子供について内閣府原子力安全委員会からより精密な追加検査を求められながら、「地域社会に不安を与える」などの理由で実施に応じなかったことが分かった。専門家は「甲状腺被ばくの実態解明につながるデータが失われてしまった」と国の対応を問題視している。

 対策本部は昨年3月26~30日、福島第1原発から30キロ圏外で被ばく線量が高い可能性のある地域で、0~15歳の子供計1080人に簡易式の検出器を使った甲状腺被ばく検査を実施した。

 安全委が設けた精密な追加検査が必要な基準(毎時0.2マイクロシーベルト)を超えた例はなかったが、福島県いわき市の子供1人が毎時0.1マイクロシーベルトと測定され、事故後の甲状腺の積算被ばく線量は30ミリシーベルト台と推定された。対策本部から調査結果を知らされた安全委は同30日、この子供の正確な線量を把握するため、より精密な被ばく量が分かる甲状腺モニターによる測定を求めた。安全委は「ヨウ素は半減期が短く、早期に調べないと事故の実態把握ができなくなるため測定を求めた」と説明する。

 しかし、対策本部は4月1日、(1)甲状腺モニターは約1トンと重く移動が困難(2)測定のため子供に遠距離の移動を強いる(3)本人や家族、地域社会に多大な不安といわれなき差別を与える恐れがあるとして追加検査をしないことを決定した。

 対策本部被災者生活支援チーム医療班の福島靖正班長は「当時の詳しいやりとりは分からないが、最終的には関係者の合意でやらないことになった。今から考えればやったほうがよかった」と話す。安全委は「対策本部の対応には納得いかなかったが、領分を侵すと思い、これ以上主張しなかった」と説明する。

 国際原子力機関(IAEA)は昨年6月、甲状腺の積算被ばく線量が50ミリシーベルト程度の子供でも甲状腺がんのリスクが上昇するとして、甲状腺の発がんを防ぐためのヨウ素剤服用基準を100ミリシーベルトから50ミリシーベルトに引き下げている。30ミリシーベルト台はこれに近い数字だ。

 東京工業大の松本義久准教授(放射線生物学)は「データに基づけば、福島で実際に甲状腺がんが増えることはないと思う。しかし当時精密に計測していれば住民の安心につながっていた」と指摘している。【久野華代】
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by smartestone | 2012-02-22 00:14 | 経済 | Trackback | Comments(0)

くらしとみた学問の意味

基本として、よりよいくらしをしたい、というのが人間フツウの心情ではないか。

 そこからみると、学問をするということ、なにか書かれたものからなにかをよみとるおおきなわけも、このよりよいくらしを知ること、よりよいくらしに役立てること、そしてよりよく文を読むことができる世界をつくることにさえあるだろう。

まこと千差万別もしくは一様のどちらかのあいだにすべての「ヒト」はいるわけだが、この個性の差をどう社会のなかにいかすか、がすべての学問のわけではないかとおもう。なぜこういうことを書いたかいえば、水戸が学問系をもりあげようとしているから。

 星の東西でかなりちがいもあったが、学問といえば要はむかしの、またはいまの文をよみかくことだろう。このばあいの文はすべての数理記号も、詩も、あるいは図形もdataも、すべてのことばの一切もふくめていう。いわば時系列的な重畳さをもつすべての情報からなにごとかを体系的にうけとることをいう。こういうもの、いわば文物のなかから、なにかしらみずからの個性にとって役立つ情報を得てそれによってよりよいくらしをする、というのが学問の、学業の本位ではないだろうか。

ごくわかりやすいたとえをひくと、もしサルがことばをもったとしよう。こういうサルはなにをするだろうか。サルとしてよりよく、よりすぐれた生きかたをするためにそれらのしくみをつかうのではないだろうか。
――ヒトが信じるところでは、サルなどの動物みんなより高等と全知全能の神さまから指定されているらしいのだから、あるいは単にダーウィニズムからみるだけでもサルよりあとに進化したいきものなのだからなおさらかもしれない。

 端的にいえばpragmatismというアメリカのなかにある哲学はこういう立脚点を古代ギリシアのアリストテレスの有用性のかんがえあたりから、もっとも基本的な場所にまでさかのぼってかんがえているととらえていい。これにくらべて、イギリスではutilitarianism(使用者のかんがえ、これは日本語では功利主義と慣習的に訳されてるが)、そこでは逆に「どうやってさまざまないきかたをする個性をつかうか」に焦点がある。このふたつは、にてはいるが同時に対照的といおうか、逆さでもある。
他人をつかうためにはどうしたらいいか、というのが最大多数の最高幸福をめざそうとする功利主義者らの基本にもったかんがえ。だからそれはつかわれるヒトにとってのかんがえ、つまり成長や自己実現のために道具をかきあつめみずからの成功をきわめようとする考えとは必ずしもいえない。

 これらを通しておもうのは、プラグマティズムであれユーティリティタリアニズムであれ、使う・使われるという雇用関係のかんがえであったというわけだ。そうしてみてくると、実はといおうか、水戸学の古典的体系とそれほど矛盾するわけではないといおうかほとんどおなじものでもありえる。君臣関係を正当化する理論が水戸学の本質であった。これを朱子学と儒学からひっぱってきたわけだ。

 弘道館(もしくは、自分がおもうにはだが、一張一弛的な意味で偕楽園すべての景観までいれれば確実に理想的な学際環境の理念として立派だから成功するとおもうが)を世界遺産に登録するにあたっては、国際機関だから当然ユネスコの中枢でも実権をもつ人物を説得する為にもこれらをみかえす需要がかなりあるのではないだろうか。要は近代にきわめておおきな力をしめした英米哲学を援用するべきなのだろう(*1)。

 はなしをもどすと、かつ、これらからいえるのは、この小論でいう「よりよいくらし」とは人それぞれことなっている。全体主義的に一意でいえば幸福となるかもしれないが、このしあわせは習慣や感覚、うまれもった遺伝子によっておそらく人それぞれそれなりにちがいもあるのだろう。
だから分業の推進は、法規範というそれらの利害関係の調整をのぞけば、基本としては為されるほどよいといまのところいわざるをえない。ある個性が、そうでない個性と混同され、みずからに不向きなしごとにつかわれたり、そういう役目をなんらかの不条理、いわゆる世継ぎだとか伝統だからといった理由で当人へ不本意にあてがわれるのが市民のくらしを不幸にする最大の因習となるだろう。ただしこれらもきちんと法規範のとりしまりがおこなわれるといった前提で、あるいは自らが世襲に適応している場合はのぞくのだろうけど。
 もっともやさしくいえば、「適材適所」あるいは向き不向きというはなしになる。社会がこの道理をみのがしているほど、すなわち、どんな勉学や教育課程でもそうだが、個人へ向いてない仕事をさせてしまっていると結果として個人主義のつよい英米哲学との矛盾もおおきくなっていくだろう。やりたくなければやらなくていいのだ。なぜならその方が、よく経営学でも上位3割があと7割分の仕事をするとかいうが、向いているみなが得をするのだから。子女に普通教育をあたえる義務とやら、あるいは勤労の義務さえこの点ではかなりの寛容さをもたせられていいはずだ。

 はなしをすすめると、学問をすすめるのはいい。しかし、もともと勉学が好きではないとか向いてない人にそれを必要以上に強制しなくてよいのだ。孟子のいった教育(教え育む;おしえはぐくむ)と、孔子のいった啓発(啓き發る;ひらきゆみいる)のちがいとかもここにはいるだろう。ここでいっているのは、啓発が重要だが教育はまあそれほどでもなさそうだということ。もともと、孟子の場合はいわゆる義務教育ではなくて英才教育(*2)についていったことばであるのをかんがみてもなお。
要は、できるものはその特徴をしめすためだけにでも自分から勉強してしまうものだが、そうでない人にはかれらの興味にこたえておしえていくべきなのだろう。以下にわけを説明する。
 これらの「不勉強な」人は実は、日本社会では不足しがちでもある。
 ポスドク問題をみればあきらかであり、外国人労働者がもとめられてくる理由も実は、この日本国内ではだれもそうなりたがらない「不勉強なゆえに予想がつかず応募してくる単純労働者」が先進国の自然ではへってしまいがちだから、なのだから。これは一昔前は日本国内では女工が担っていた分野でもあり、男女雇用機会均等法のせいもあるのだろう。だが、ここにはある骨もある。いってしまうと、教育された程度が世界中の自由貿易圏でもっとも中間的なほどその社会は富みやすいのである。なぜなら、当分つづくだろう資本経済の浸透下ではかれら(少しはもしくはかなりの良識ある先進国の世界的にみて中程度の教育をうけた市民を中心とした)大衆を最大の市場としておおくの資本が投下される傾向があるからだ。しかし、最高の教育程度あるいは学問の段階に進歩した人と、そうでないかなり古代からかわらない祖先の姿をのこした人たちとの習性にまつわる幅、というものはどれほどの文明の高度化のもとであってもただ希少価値それそのもののために保守されていいはずだ(*3)。
重要なのは自由貿易についてより大きな国富を占めるという目的性があるばあいは、この中間的な人口をもつかどうかが鍵になるというわけ。実質、これがEUというものを成立させた根拠でもあるといっていい。
この不思議な道理といおうか労働力の二極性が、たとえば学歴制度にかけてマイケル・スペンス氏あたりのシグナリング理論なんかを通して水戸市内でも多くが当然わかってくるはずであり、藩士教育(つまり市場への「使用者」がわの思想啓発)というものをおこなったのは実はかなり先見的だったともいえる。
なぜかといえば、結果は天狗党の乱などをおよぼしたという副作用込みだったわけだが、単純労働者不足は教育格差をもうけることで逆説的におぎなえるからなのだ(*4)。それが安定した大国づくりの一つの骨なわけだ。
――経済学上みれば、社会の中の教育程度の二極性が法的もしくはすみわけにすぐれて調和しながら進むほど、その社会集団は多様な分業をおこなえるので全体と見た効率も高まるはずだ。ここに一般庶民とはあたえられる教育の程度が土台からちがうので特権化されていく貴族あるいは王室のおこる余地があったのだ。
 またこれは自分が歴史学からみちびいてきた一般則だが、帝国の強度はこの社会層の二極性を如何に国内につくりだすかにかかっているともいえる。いわばpyramid状に、世界一頭を抜いたきわめて強靭かつ強固な高等教育をうけた超少数の支配者層と、そうでない無教養な享楽的庶民のきわめて大きな数がおなじ国で調和的にかなり大勢生存できたとき、そしてこの中間にもっとも多くの国民がいればその国は成功する(*5)。この二極性が強ければつよいほどその帝国が結果としてほかの文明圏にも大変なちからをもつのがこの世の真相なのだろう。前例をひくと、ローマ字を含むラテン語や漢字として居残っている中国語、そしていまのアメリカから由来した英語がどれほどおおくの人々に影響をあたえたかはかりしれない。

 水戸学派は、現在に於いてこの支配者層をつかさどる目的をもって出立しているといえる。はじめからそれは儒教の理念を日本史のなかで窮めるために、当時の最高権力だった将軍家に最近侍であった義公によって創始されたという歴史がある。この理想は、すくなくとも現代までの状況では立派な志というしかない。最大の商圏としてのいまの東京都であれ、あるいはアジア、太平洋の市場でもいいが、何らかの理想もしくはすぐれた指導者が必要なのだから。そういう母体となるべき運命が、水戸にはある気がするのだが。


―――
*1 ――ここから数行はかなり哲学にくわしいひとむけにかくと、いわゆる封建制を脱却せずその中で主従秩序を完成させようというのが儒教の理念でもあったのだから、キリスト教の神と僕の関係、ほかイスラム教等でもみられるこれらの忠義もしくは忠誠の正当化はかなり古くからみられる普遍的意思でもある。英米哲学の中で講じられていた一切も、実はその上位集合としてのキリスト教的主従秩序の中で如何に人間性を導くかという話でしかない。そこでプラトニズムは象徴化され、清教徒思想になった。カルヴァンの考えの核、そしてそれに親和したアダム・スミスの素朴な資本主義的富の肯定はこの主従秩序をたくみに商業と一致させたものだった。帝国主義の意味もそこに求まる。(*参考文献マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。
 つまり、基本的姿勢としては水戸学がめざしていた皇室の擁護は、その神格化さえ除けば、すなわち「王権神授説の否定」(*参考文献ジョン・ロック著『統治二論』--原文‘Two Treatises of Government’ )さえ除けばまったく類似の態度だといえる。なにがちがったか。それはキリスト教がひろく伝わったか伝わっていなかったか、だけだろう。それがひろくつたわった場所では人そのものの神格化はおこなわれえなかったわけだ。
 この一点さえのぞけば、ほとんど同じことが水戸学の態度のなかには英米哲学の使用・被使用の関係性にはある。単にそこへは功利主義者つまりutilitarianには統治的優良さと、実用主義者つまりpragmatistには労働者の自己実現とがみられるにすぎないだろう。プロテスタンティズムを極端にした場合はそこに統治者の代表としての王権が除かれたわけだが、この方法が成功するか、それともそれを保ったままにしておいたイギリスなどの王室の方法が成功するかは歴史をみないと分からないところだ。ちなみに世界の王室は以下の分類がある。
現在1の帝室と20の王室と3の公室。
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/oushitsu.html
(http://megalodon.jp/2012-0218-0257-49/www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/oushitsu.html)
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/Royal/ichiran.html
(http://megalodon.jp/2012-0218-0259-13/www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/Royal/ichiran.html)
あるいは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%A4
 より長い目でみれば、致命傷にさえならなければ保守的な方をえらぶのが賢慮あるといわざるを得ない気もする。礼をおしむ、あるいは間接的に失うなと云った孔子(参考文献『論語』八佾第三、十七、「子曰く賜や、爾は其の羊を愛む。我は其の禮を愛む。」)はその儀式のなかの精神的態度を擁護したのだろうが、単に装飾とみてもそうかもしれない。これらの儀式は、きわめて不合理かついわゆる非科学的な通過儀礼であって現実の世界情勢とおおはばに矛盾して負担が過剰になりすぎるといった特別な事情がないかぎりは、伝統的壮観をあたえるという効用がある、という可能性をもっている。しかし、たとえば受験地獄の様な「役立ちもしない」異様な風習は勿論この虚礼にあるのだろうが、それらを避けていく自由まで規制しなければ、一定数これらの風習が残存した方がまだ伝統的格式を高めるのかもしれなかった。
 もっと科学的に無用の用とみたとき、これらの集団の礼儀にさえなっている種類の風儀は、なんらかの意味で現代まで人々を社会文化の環境でいまある姿まで淘汰もしくは選択してきたわけになっているのだろう。通過儀礼のたぐいも、比較文化論なんかみればあきらかだがなんらかの意味でその土地や地政でかつてもとめがあったかそれをrunawayのきっかけとした性選択の際の特徴の強化なのかもしれなかった。だから、ここでいう「礼(旧字体では禮)」は、いわゆる人間のばあいのなんらかの特徴の強化のためのなれなのだろう。日本人全般が他人にあたまを下げるのはなるほど、巨視的にみればまことに奇妙な風習で、ほかの土地のひとびとはそんな習慣や礼儀をもってさえいない。しかしこの礼儀が維持されている範囲の外では、赤の他人に済まなさを示すときはみぶりではなくかならず言葉でおこなうしかないわけだ。むかしでいう言行一致(近世の文献では新渡戸稲造著『武士道』あるいは、陽明学の「知行合一」までさかのぼれる)という哲学がうみだしたひとつのいきのこりの戦術として、この「あたまを下げる」という演劇的行動の風習は働いているはずだ。だれであれ目の前にあたまを下げている、どう見ても弱ったよわそうな人物をひとまえで暴虐であつかったりすればすこしはそうされている降参しているがわが第三者からさえ同情される可能性があるかもしれなかったろう。
おそらく人類学とみたその一つの起源は、武士の戦いの儀礼化にあったのかもしれない。問答無用の戦国時代に二本差しからその場で首を取られるのを防ぐ目的でもあったのだろう土下座という降参の儀礼、つまり命乞いの風習が軽くなったのが、そのいまにのこるあたまを下げるという慣習でありならわしなのではないか(和辻が郷里で家族の葬儀の際に済まなさの表現のためにならわしから土下座したときに涙を流して感激的にこの意義を感じたという逸話もあった)。この風習がいまに生きているのは、たとえば小泉首相がブッシュ大統領との対話のなかで、日本では変わった風習があるらしいな等と質問されたとき、小泉首相はその場で演技として土下座してみせ、「わたしはあなたへこうしなければならないな」といったなかばあぶないjokeを言ってみせたらしかった。これは推測だが、およそ日米安保条約のことが念頭にあるんだろう。それがfairかどうかはわからないが、まさにいまは座をおりている当時の大統領、ブッシュさんはアメリカ人らしくこのperformanceで大声で笑って気をよくしたらしい。効き目とみればおよそこの法則を、ほとんど人体の物理的には無意味な運動である頭を下げるという言行一致の慣習は示しているのだろう。

*2 『孟子』尽心・上、「天下に英才を得てこれを教育するは三の楽しみなり」。原文は「得天下英才而教育之、三楽也。」。ちなみに孟子のいう他の二つの楽しみはまず家族の安泰、もう一つは天を仰いでにも人間にあってもはずかしさがないこと。

*3 「上知と下愚とは移らず」、と孔子曰く『論語』陽貨第十七・三、にある。どの社会の常態でも形質あるいは姿の幅はつねにあるという意味だろう。

*4 おもに福沢諭吉なんかには旧態依然な愚民政策の根源としてさかんに攻撃されていた点だが、『論語』泰伯第八・九「民に知らしむべからず由らしむべし」の意味も、およそここにあるかもしれない。

*5 たとえばアリストテレスの『政治学』やマキャベリ『君主論』にもこの要諦が部分的にかかれているとおもう。
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by smartestone | 2012-02-18 02:29 | 経済 | Trackback | Comments(0)

Liberal arts(引用)

文法学・修辞学・論理学
Grammar, Rhetoric and Logic

were the core liberal arts. In medieval times these subjects (called the Trivium)

were extended to include

数学・幾何学・天文学
音楽
mathematics, geometry, music and astronomy (which included the study of astrology).

 This extended curriculum was called the Quadrivium. Together the Trivium and Quadrivium constituted the seven liberal arts of the medieval university curriculum.

--from Wikipedia 'Liberal arts'.
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by smartestone | 2012-02-17 01:21 | 学術 | Trackback | Comments(0)

ある電車の女についての分析

つぎの様な女発見。

 電車内、日立駅の時点で乗車しており、仲間は小木津と高萩でそれぞれ降りた。5名。そのうち最後の一人がその女だった。

 こいつは電車内でこういう会話を大声でしていた。
いわく、日立のsnackで働いている。歳は19。恥ずかしげもなく、北茨城ですとほざきながらだ。

なにが狂っているか。
『雨降りお月さん』の装飾がされた立派な通路を、後生の陸でもない女一人がのこのこ歩いて台無しにしているということです。断じてお嫁になど行ける身の上ではないのだ。

なんと一万だかチップを客からもらっているという悪童加減。かみのけもひどい。これはブラックユーモアにすらならないが、放射能なのではないのだ。自分でよごしちらしているのである。話題の場所をとなりにもって東海のあれまでかかえながらに、なんという贅沢、なんという反逆でしょうか。しかも、その色は茶だかにせ金なんだかのあこがれの西洋人風になってないのだかなんだか。これは冗談でしかないだろうが、どうせ遺伝子が配偶以外では特段変わらないことにきづけば生まれつき黒いのだが。

これらの情報からいって、まずこの女も未成年なので補導されていいのだろうが、日立市内でこの接待型飲食店らしきものを経営している人物が違法ではないのか、ということ。勿論、その辺りがわりと寛容にみのがされている、工場の人が仕事帰りに飲食するという点でそうされてしまいがちだからこうして周囲の農村部に悲惨な不調和が起こってくる。素朴な町を汚しているのは誰だろうか。それは都会のあしき風儀である。
 風営法では第二条二項営業に該当するだろうから経営者は県の公安から同法第三条にのっとり当然許可をとってはいるのだろうが、もしとっていないとしたら日立市で経営してるその人物、あるいはあえていえば容疑者は日立市外の未成年をあきらかに害しているわけだ。すくなくとも、それときづかずに害している。平和な農村のすがたがいきなりそう変化するわけではない。2世代前には雨情がいた土地なのだから。
まあ無論、これに勧誘されたのかみずから応募したのだろう、その同法第二十二条六項にのっとり「酒類」または「たばこ」を提供されていないはず成人になっていない人物がまっとうな理性をもっているとかんがえるのがおかしい。なにしろ、この女は親に駅前まで迎えに来てもらっていたのだ。
そんなご身分で、えらそうにもPRADAのバッグだと? その状態で平日から高級ブランド品の買い物だと? ふざけるのも大概にしろ、もしくはすさまじく悪趣味という話。はいはい。

ま、許可をとっていないままで日立市外の、ただのなんもしらん阿呆な子女にそれらにあきらかに該当した営業をさせているとすれば、同法第四十九条一項又は二項によって二年以下の懲役若しくは二百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科されるはずだ。
これらを科するのは、北茨城市長(此の人が市内の行政指揮権をもっているのだから、管轄の警察長官へも命令を下せる)、ならびに「公共の福祉」をめざしている大多数の市民にとっても必要だろう共通認識ではないだろうか。
 深夜に陸でもない未成年者が接待営業をしながらウン十万も稼いでいる一方で、薄利のなかで必死に勉学し高貴な技術開発と人類の改善のための宗教改革、あるいは偉大な芸術に励む者がいる。そこまでいかずとも一体、ただ昼間から黙々と小売店で接客をしているなんでもなく品物のとりひきのために仕事する人物、どちらが偉いしどちらが保護すべきでありどちらが「本来の福祉」にかなうだろうか。どちらがわれわれの眼からみて、趣味の格律が高いだろうか。愛想はあたえるものであって売るものではないのである。

 いや、そこまで行かずともいい。
 もっと端的にかんがえよう。もしこのまま、わたしみたいなただの一市民が声をあげず、かもめの手記ぶらず、ただのしらんぷりをきめこんで、みのがしにし、めのまえでおこなわれているあくどい偶像への貢ぎごとらしきまがまがしい邪教のわざわいを放置したとしよう。まるであのあしき京都の風俗で現に…いや、これはいいすぎかもしれぬ。かもめのなきごえがすぎた。
 そうではなく、ただ生物学的にこの人類というおろかしくも知恵の実をむさぼった連中の子孫をみくだしてみようではないか。するとどうだろう。放置すれば、「内的増加率」的な傾向のつよい種が量産されていく結果になり、そうではない種は一時的にであれくらべてみて減少または停滞しやすくなるだろう。接客業というのは小売業の上もしくは内部にあるもので、それだけの職能、要するに接客はすべての人間のしごとのうちでもっとも単純であって、事実上はただ容姿よくほほえんでいればいいのであり、複雑な技能がいらない。なんらかの修練ならびにながい習得過程を要する高度な学識または技能の様なものはない。これが真相だろう。勘でやっているだけなので若くてつとまるというのがあきらかに分析できる点なのだから。
よって、この種はきわめてはやく繁殖しやすい。これがいわゆる早熟組み、俗語でいうヤンキー連中の早産早死の傾向のわけだろう。かれらのいちじるしい知能のひくさ、もしくは本能行動のつよさは結論からいえば、過去の業、いわば祖先の系統発生が短期的成熟の最適化をつよめ、大脳新皮質の高度な発達をおさえこんできた理由がありそうだ。そうすればより原型もしくは祖先形にちかい状態でも、かれらの多数に変動はないだろう。そして類人猿からもっともちかい習性がみられるのも、人類のなかではどうやらこの早熟、おませな系統発生に由来しているのだろう。

 もし集団のなかにより複合されたおおくの種が在籍していた方が、そうでないばあいより絶滅または多様性をうしなって同系のみにおちいる可能性が低いと仮定すれば、なるほど、「程度を読んで」われわれはこの内的増加率傾向の人種もいくらかはのこしていってもいいとかんがえることができる。
これが、実際利潤をいとなむことで社会の中に所得の差をひろめてより全体と見た不幸感や不公平感をます、いくらか以上にいやしさなるものをふくむといわれていい商業の気質が文明化した集団のなかでも残存しがちな理由なのだろう。
ただ共通貨幣または共通の交換価値をもったものをあつめた方が、そうでないものを様々にもっているよりもどうみても交換レートの面から有利なので、そうしないばあいの方が社会的有用性は高そうにもかかわらず集団的損失もしくは所属の害をうけやすい。これを巧妙に回避する習性がいわゆるがめつさあるいは貪欲としていわれる利潤を営む心、経済学でいわれるところのanimal spiritなのだろう。

 ――というわけで、はじめの趣旨にかえってもうひとたびみかえすと。
「多様性の面からは、法規範を最低限度として商気質を残存させてしまうしか自己に近縁な種の保存に関する中庸さの定義もない」。
よって、このばあい、あの陸でなし女とはいえ、単に法的規制にあうかあわないか、しか命題はないわけだ。すくなくとも、善良なる宗教の力があの無知な女に及ぶまでは皮肉にも、もっとも残酷無比な権力がその教化をおそろしい強制的権限ではたすのだろう。
キリスト教であれ仏教であれ、あるいは儒教であれ武士道でさえも女性の貞操をたかくみつもってきたのはすべて、以上の道理のなかに「かしこさ」として、大脳新皮質の発達へその理性の進捗が比例していたからなのだろう。そしてジョン・スチュアート・ミルによればこの観念の高下は男性にも同じことと云うわけだ。なぜなら浮気をするのも間接的に婦女の貞節をおとしめるのとひとしいのだから。単純な道理だ、汝の欲せざるところ人へ施すこと勿れという。これはみずからの配偶者に純潔をもとめるならばみずからもそうでなければならないというだけだ。
 そして最後につけくわえて自分の意見を言えば、将来配偶候補になる可能性のあるすべてのひとについてもこれらは同様なはずだ。だれであれ、汝の欲せざる者と配偶したがる者はない。
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by smartestone | 2012-02-17 00:49 | 政治 | Trackback | Comments(0)