トップ

<   2012年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧


社会学

 人類の社会でのありかたは、結局「幸福」をめざしているとおもわれる。
 幸福の定義はさまざまあるが、基本的には経済性といっていいかもしれない。どんな経済がいとなまれるか、はそのばでくらす人々の教養度によっている。一切の学問や芸術は、この教養度をおぎなうためにある。

 幸福はもとめとあたえ、つまり需要と供給の輪で説明できるとすれば、金銭を媒介とするかどうかにかかわらず、このもとめにこたえたあたえがあるほどそのばでくらす個性の欲求がみたされ、幸福感がえられる、というしくみ。これが社会というもの。
 だから、社会学には政治や経済や歴史とさまざまな分野があるが、根本としては経済の程度を問うものではないだろうか。政治行動はときどき、これをこえて戦争ということをこころみる。侵略や略奪によって領土を拡大したり、それによってさらに市場からえられる調整税の膨張につとめるといった。
しかし、アリストテレスやプラトンまでさかのぼると、この政治というものは実際には市場の防衛役でしかないのだろう。防衛をこえて帝国の拡大をこころみるばあいは市場がひろがったりせばまったりするが、個々の人類の属したがわによって滅亡したり攻防の際に心理的傷害を負ったり賠償をしたりするが、単に市場規模のひろがりの問題でしかないだろう。

 この視野にたつと、人類はどうまちを築くかどういちを作るかという面できわめてながく試行錯誤してきたとわたしにはおもえる。人類史の全体がそうなのかもしれない。

 市場には量的なおおきさとみれば、現在でいう共通貨幣のとりひき高が一応のはかりになる。しかし、この貨幣価値に換算できないかしにくいその外でのやりとりもあるから厳密にはいえないが。
 ところで、市場には量のほかに、質というものがあるかもしれない。わたしがいまここで説明したいのは、この市場の質の問題だ。取引高の問題ではなく、市場にはやりとりされるもとめとあたえのあいだに、単なる通貨価値ではない単位がある。この単位は上にのべたことばでいえば単に教養といえるかもしれない。
 おそらく、根本的にはこの教養の程度は、個々人単位のGNIに還元されるかもしれない。だれであれ、かしこい個人はそうでない個人よりも、経済的にくらすはずだ。Microにみればちがうことがおおいかもしれないが、macroにみればほぼ、この教養の程度がそのまま市場の質。かつその集積具合によって量的経済性も上下する。

 この理論をみると、つまり、人類がめざしているのは教養の高い類いの量的にも大きな市場ではないだろうか。
 不思議なことに、こうやってできたある時代の帝国はなんらかの要因で解散してしまう。無限に膨張した帝国はいままでなかった。だから、おそらく実際の道徳としていいえるのは「中庸の大きさ」の市場がもっとも理想的なのかもしれない。教養の程度というのは、一般に無教養の生態にくらべてかなりのむずかしい成長過程を個々にしいる。それは現生人類の本能にはかなりさからうばあいもおおいかもしれなかった。
だから、きわめて広範に全員が一様にたかい教養をえるということは、群れの本性としての形質や行動のばらつきからいってもありえない。教育過程でも偏差値が出現してくるのは個々人が学術にどれだけ秀でるかに生前生後の差があるから。
 すなわち、のぞましい人生とは、この極端な拡大路線によってほろびに転じる大帝国ではなく、かといって無教養の不経済な人間のあつまりでもなく、それらの調度よい具合の中間にあってしかも外部の社会との程よい市場をたもっている様なくにのつくり映えだろう。
 原則としてはごく高い教養の成員が大量に集積した理想国家を想定しがちだが、現実にこういう場所は歴史上にいくつか帝国の中心としてあったことがあるが、一定期間をへると消失してしまうらしい。現在、イギリス帝国、ローマ帝国、中華帝国、エジプト帝国、あるいは日本国内では奈良、京都、鎌倉といった時勢の移り変わりで古びることになった帝国の残りをみると一か所の過剰によってかえって中心が移る、という歴史現象がある様にみえる。ほかの生物でいう生態異常による大移動があるのかもしれない。結論をいうと、この経済性の過剰としての帝国の盛衰はそこで生み出されたなんらかの文化をひろく伝播させるのとひきかえに、永続できずほろびてしまう系なのだったろう。

 だから、ありたい社会とはこの経済の帝国化にも至らないが、かといって人後におちる話にならない小さく質のひくい市場でもない、ある中庸さをもった程々の規模の市場を、教養をあたえ得る程度や域内の相対的な人口をうまく調節しながら維持していくことなのだ。
そういうとき、みずからの文化もそれなりにひろがり、生命もたもたれ、歴史上に名をあらわしながらわる目立ちすることもなく、うまく人類という一筋縄ではいかない世間ずれしたずるがしこい者たちのなかでも、都合よく苦にもされず生存していけるはずだ。
[PR]

by smartestone | 2012-03-30 11:04 | 学術論 | Comments(0)

偶像崇拝の国家でそれをさけること

 偶像崇拝を平気でする国民、だからといってこの市内でもしていいですとはおもわない。すべきではないのだ。具体的にいうと、市報のすみかなんかにのってたけど気色悪い鮟鱇の擬人化漫画みたいのに名前を考えてね! とかかいてあった。なぜそんな馬鹿げたことを大の大人がさせているのだろうか。

 偶像崇拝が悪徳なわけは、「ありもしないものをおがませる」から。子がその擬人化にだまされやすいというのをみればわかるが、悪徳だ。ありもしない生き物を勝手に想定して、それをかわいがらせる。わるふざけというしかない。
[PR]

by smartestone | 2012-03-09 23:50 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

天文学からみちびいたこと

 ひとはこの星にくらべればはるかにひろいそら、宇宙をみあげているが、これほどひろい世界でなぜこのちいさなせまい星にとどまらねばならないのだろうか。
 単に、自分のしるかぎり宇宙はほぼ無限だ。
自分がいろいろな知識から、数学的に宇宙のひろがりを定義しようとした結果、わかったことは宇宙のひろさのそとにもまた別の意味でのひろがりがありそう、という事実だった。ケン(訓よみにすると「かこい」)、ということばにちかい。
この宇宙の圏というものは、かりにひとまとまりとみなせる物理系のそとに、また別のおおきな補集合の系をもっている様だ。しりえるかぎりもっとも単純なものでも地球のそとには銀河系、天の川系、宇宙系という三つの単位がある。つまり

銀河系⊆天の川系⊆宇宙系

 端的にいって、これほどひろい宇宙にたった地球ひとつぶにしか生命体がいない、とは大変にかんがえづらい。

銀河系の部分集合でしかない太陽系だけでも水金地火木土天海冥。冥は惑星じゃないとかいわれたけど。それがふくまれているらしいいわゆるbulgeバルジのとんでもない数の星があつまっている構図をみてみてもよくわからないほどだが、というのもどうも地球はいわれるところではうすい周縁部にすぎないdiscディスクの部分にあるので、さらにこの宇宙系の中心部にはかぞえきれないほどまだまだ未知の星ぼしがあつまっている。われわれの足がついているところからみえるさまざまな星座がながれている天の川系のなかだけでも、それに似た周期性をもって相互にながれつづけている銀河群というものがどれほどの数、どれだけの多様性のもとあるのだろうか。ただし、あくまでもしりえるのは有限だからかぞえきれないということは決してないだろうけど。
星の数は何億個とかの次元ではない。国費でなくともできあがったおかねもちスーパーコンピューター京(1016)とか、むしろ那由他(1060)レベルなのである。不可思議(1064)、というのがもっとも適切なほどのちらばり加減。
 恒星のまわりをめぐっているたぐいの惑星も、そのなかにはすさまじい数ある。

 日本人がかつて世界は日本列島の本州あたりと、朝鮮半島のつきでた中国と、天竺とよんでいたインドくらいしかないと適当にかんがえていた時代からかえりみても、おそらくかなりひろくみれば、きわめておおくの生命体が宇宙にはちらばって生存しているのだろう。
物理まなんでるひとらがとなえたりしていろいろな仮説があるけど、おそらくまだ地球のひととは接触する機会がなんらかの要因によってないのだろうとおもう。知的生命がでてきて文字記録をつくりだしてまだ数千年と、たまたまおとずれるいのちとふれるには歴史があさすぎるとか。日本のひととしてかんがえられそうなのはこの星は宇宙でもすみっこにあるので、なかなかだれもこないというところだ。ホーキング博士は文明は自然に滅亡するのだとか宇宙船は過去へ時間旅行できませんとかいろいろ理屈をこねて否定しようとするのだけど、というのもかれはこわがりでその最初の接触が超強大なあいてだったばあいかつて人類がおおくの先住民へ実際にやったみたいにいきなり殲滅戦争になって滅亡するのがこわいのだろうが、自分には、宇宙のあまりのひろさのためにまだきていないだけ、とそうおもえる。
 実際、当のホーキング博士の先祖のふねがいきなりここの大津港にふらっときたのだ。

 まったくそっくり地球とほとんどおなじ条件のもとにある星なんか、おそらくどこかに確実にあるくらい宇宙というのは無限にひろいしとんでもない多様さをもっているのが観測するほどにわかってくる。一般にいって、人知をこえているとおもえるほどに多様でかつ広い。
古代人がおどろいていたまわりの自然は、ほしのみえやすいよぞらをみあげてみれば、また現代人にとってもかぎりなくおどろきに足る状態にある。わたし、またはわれわれの知識が大宇宙のおおきさにくらべて、たりなすぎるのがこのおどろきの原因なのだが。

「これほどひろい宇宙でたった地球ひとつの生物しかいない」、というあやまったおもいこみはまず、かつての先史人類がかんがえていた、神からの創造という宗教の勘違いした解釈にもとづいているとおもう。なにもいわゆるGodは、地球しかつくらなかったとか、地球人類しかつくらなかったとはどこにも旧約聖書の創世記にかいてないとおもわれるのだが。
しかし、生命体のおこりというものは、電気的に無機体から有機体をうみだすという実験があったとはいえ、たしかにそれほどくわしくはわかっていないが、とかく生命体が地球にしかいない、という前提はない。
宇宙が観察できるかぎり、これほどかぎりないほどすさまじいおおきさの単位でひろがっていて、しかもハッブル定数などでもあきらかだがどんどんとなんらかのわけで膨張しているらしい宇宙空間は、ほぼ確率的にはたしかにどこかへわれわれと相似な生命体をはぐくんでいるとかんがえた方が、今のところ単なる想定にすぎないとしても合理的だろう。
 生物学からの裏をとれば、われわれの進化の結果としての二足歩行でかつては地を這っていた四本の足がある、という特徴が惑星にあって生じているはず引力条件下でそれほど珍しすぎる適応だとはおもえない。
似た程度の惑星のおおきさで大気があったときならば、その大気環境や摂食習性によって内臓や呼吸機能などはことなるかもしれないが、おなじ様にあいた触手(われわれのものも手足とよびならしてはいるが、結局そうというしかない)で道具をあつかう状態まですすんだ動物はさまざまにありえるはずだろう。

 日本人はおおむかし、ただ中国やインド、ばあいによっては朝鮮半島とくらべて自分たちをととのえてきたわけだが、いつのまにかわかってきたことによると、西洋とよばれている地域の一部にはにた様なしまぐにもあって、そこではそれなりにおこりはちがうが、どこか似た家庭主義的なくらしなんかも全然無関係にいとなまれていたりした。
おなじ様な生態的同位さをただの偶然だろうといくらかよりみいだせるたちの生命体は、宇宙のどこかにそれなりの数でいるのだろうとおもう。種の体系、遺伝子のなりたちは大抵おおはばにちがうだろうから配偶可能性ということまではわからないが、すくなくともなにかの情報伝達かやりとりは、ほかの動植物へもそれなりにできるわけだからありえるはずだ。

 もしこれからさき、人類がうまく宇宙船の技術をたかめていけば、またはやってきたなんらかのたかい工学をもった生物からならえば、そういう生態的同位種のいる様なひろい宇宙の世界へもでていくことができるだろう。

 ひとには郷愁とか、懐かしさとか、孝行とか墓参りとかいろいろな定着性の風儀があるが、宇宙のどこか別の場所へ移住していくことがかなり好きにできる状態になれば、こういう慣習はあしかせになったりもするかもしれない。
ふるくからつたわっているなれだから、感情や本能にしみついているので無理にすてさろうとしてもかなりむずかしい問題だが、いずれは移住計画がおこなわれるだろう宇宙のひろさと、地球より安全な恒常性をもつ場所への移民可能さをみとおせば、すくなくとも同類のなかのだれか先駆者はこういう感覚素をうすくしかもっていない方が将来的によいのではないか。
[PR]

by smartestone | 2012-03-09 21:08 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

市の方向性へ忠告

普通にいって、一市民の自分の意見でしかないが、でかい工場とかばんばんつくりたがるのとかどうかとおもうしやめてほしい。市民のくらしの質がよくなるのとはまったく関係ないしどちらかといえばわるくなるから。

 ひとことでいうと、芸術・(そのなかでも特定の文物をあつめたりつくったりひろめたりする集散機能なわけだが)学問とか、いわゆる学術教育機能の向上に行政のうえのほうのひとも市のなかでつとめてほしいと自分はおもう。具体的にいえば、最低でも図書館機能の充実、できたら大学の建設につかってほしい。

 なぜ自然がとくべつ綺麗なところに、つまり風趣地区にわざわざ自然破壊させる工場を誘致したいかがわからない。漁業者を吸収する雇用ということだろうか。それならそれでもっと重点的に漁業団体の構成員にだけ直接の資金助成と起業のための投資すべきだ。かれらが自力でたちあがれることがのぞましいのであって、どこかの大企業のつかいすて労働者におとすことではない。
 よかれとおもって協議されてるのかもしれないけど、どちらかといえば、無理に人口をふやして税収がっぽりもうけたいとかいうちょっとどうかなかんがえがその工場誘致の根っこにあるのではないか。これがわたくし企業ではなく、公共事業を営んでいる地方政府からみた、福祉への勘違いであることをカンタンに説明する。
この日誌でもたびたびくりかえしてきたが、もっともありえる既存の経済学のことばでいえば「人口扶養力」、つまり人口あたり所得とか、またこの日誌でいうGDPに換算されない種類の奉仕度とみた磯原指標(定義はhttp://kamomenome.exblog.jp/12729539/による)のおおきさがその実質のゆたかさなのであって、いわゆる人口の多さがそのまま、ではないのだ。貧しいひとをどれほどふやしても社会の経済性からみた幸福度があがることはない。*1
さらにあらたにつくられたのが工場だったばあいは、既存の自然環境の審美性を普通に破壊させ環境排出物質でよごすので、二重に不幸度をふやす。もしすぐれた建築家や芸術的な設計者などに工場を建設させその周辺住民にとっての美観を整え、働く者にとっての機能を快適にしたとしても、やはり緩和にしかならないだろう。国際分業のなかでくみたてた製品を買うのがわれわれとはかぎらない、という付加価値貿易の流れの素朴な観点をおもえばよい。むしろ設計・開発ないしは営業販売部門といった上流部支配への投機というのならばいまの状況からいってかしこいというだけだ。医薬品のばあいもおなじ。

 こうしてみてくると、行政で協議されている北茨城辺りへの工場誘致というものは「先憂後楽」の真逆を行なおうとしている。はっきりいうと、経済学的な理解のよわさからくる、全体主義からのまちがいなのではないか。得をするのは税収をもうける行政の上層部だけ、ほかの市民は期間労働力として最低賃金で使いすてされるくらいが関の山、すくなくとも50年単位でみれば全員損失をこうむるとおもわれる。

  将来世代のしあわせを真面目にかんがえるなら目先の金儲けなんかどうでもいい。とりあえず不健全な換金してるので違法ぎりぎりの警察利権状態になっているパチンコ潰すなり最低でも単なるゲームセンターとあつかって賭博にならないよう経営改善要求後どかす。そこにさっさと市立大学を、だれもに出入り自由な大規模運動場とともに建設する。
――普通にかんがえて、弘道館と偕楽園の構想というのは一張一弛ということばに象徴されているが総合大学に付属したrecreation機能をもたせた運動場の設置なので、水戸をいわば理想的な大学街にしようとした創設者によるひとつの模範なのだが、そのみぢかにあって至極立派なideaを市は小型であろうとまねればいい。要は将来の為になる学問・芸術の教育関係予算、いわゆる水戸学の風土の後継者として文治政策に投資してくれということ。*2
あるいはくりかえしかいているが、もっとも単純なことでも放送大学の無料放送電波を現にほかの関東圏でもそうなっている様に、日立の電波中継局で地上波へ変換して県北部へ流すのでもいい。
 地方自治体でもこういうことをはっきりめざしてやっている地域もある。巨大で先端的なハイテク文化ホールをおもいきってつくってる山口市とか、美術館や図書館の機能あつめてる金沢市、遺跡に併設させた現代美術館つくった青森の十和田市とか。
どうせ一世紀以内にぜんぶ潰れる工場つくってみましたけど、とか派遣労働で下請けさせられ自然破壊が起こってまた悲しいという結末で庶民にそういう叙情歌がつくられて同情ひきましたけど、って下らないはなしが予測つく。
常磐炭鉱の栄枯盛衰を実際に見たのに無反省力のおさるさんではないとすればだが、自分がいま書いたことにはそれなりの見識、ある道徳があるとかんがえた方がいいとおもう。世代をへてもなお不動なのは定常的な教養レベルでしかない。ほかの資本は人の身に着いていないならば、つまり文化として習性化されていないならばいずれあとかたもなく世を流れてうしなわれてしまうのだ。*3
たとえば、これは現実的にいって、個々人が何を伝えるかとみたとき相続税のある国に続けて住んでいるひとはいくらかのこせるとはいえ家財さえそっくりそのまま次世代まではもちこせないし、生物とみれば遺伝形質しか遺伝しない。いいかえれば、伝えられた交換資本は失われやすかったが文化資本は生きているあいだ決して失われない。

―――
*1 それどころかまえより生活の実質が不幸になってしまう。人口密度の高さなどからくる心理的ストレス、地価の高騰、ほか河川や大気汚染物質の排出などによるさまざまな健康への恵まれなさ、広い土地がないので運動不足に陥りがち、ほかの動物でもみられるが性的異常の発生、交通事情の悪さによる時間や移動手段の費用負担などなど、つまりはくらしの余裕のなさによって。――ちなみにこれらの逆になっていれば、『常陸國風土記』じゃないがというかそのままだが、そこは単位所得あたりの人口比でみてもゆったりしておりすばらしい庭付き一戸建てとか貴族みたいなお屋敷に住み、物価は安く移動も容易でたくわえもあり、一切がすこやかで恵まれておりゆたかといえる。

*2 できたら基礎科学系。芸術系は師弟制よりおしえがたいし、哲学系はそれをやってて工学が遅れると経験的に敗戦しがちなのであとまわし。医学とか薬学は付属病院で稼ぎ手になりやすいからできたらあった方がいい。

*3  なお政経的に巨視すると貿易で富んでいる国が富みつづけたことはないが、よく産業革命が起きた国が自力で繁栄した、というのは通常みられる。だから工学と産業なのだが。そしてこの工学の基礎レベルを与えるのがいわゆる科学であって、大学で重点的におしえていくべきところだろう。
[PR]

by smartestone | 2012-03-09 14:51 | 政治論 | Comments(0)

修学旅行さきの意見

 茨大にうかったとかいう水戸三高だかの女が、韓国留学したいとかほざいてるのを新聞でみたけど、整形大国の中心国いってもまずもって反面教育にしかならんから留学じゃなくて旅行というべきだ。これは自分の私的な意見だから別にみんながそうおもえとはいわないし、日本にきてる韓国へ国籍あるひとや先祖がすんでるとか、混血されたご子息のかたがたがどう感じるにせよ。

 あとおもうのは、実際、いま星中みわたして日本よりすぐれてるnationalityもってるのは戦勝国側だろうし、伝統ある島国だから似てる部分がおおいイギリスへ留学する、ってのが一番あたまがいい。
どうせおなじ労力つかって学業の総まとめしにいくならだけど、県内の高校も、中学なら私立以外はそんなにとおくへいかないんだろうけど、修学旅行イギリス、イングランド周辺のどっかへいったほうがあたまがいい。

 普通にかんがえて、われわれの学校でならう教科の過半は、特に天文・物理・化学・生物といったいわゆる理系の基礎科学は、つまりメイン教科はほとんどイギリスか、ヨーロッパで作られたのをまねしているわけだ。
韓国発祥のものなんかまずない。高校倫理でもすみっこでしか理気二元論とかおしえていない。これは敗戦国の文化が否定されてきたこともあるが、ただの哲学だからかならずしも自然の知識ほどは普遍性がなく、だれもが勉強しといた方がいいとはかんがえられてないからだ。
京都発祥のものだって一部の文芸の古典といおうか、内容は陸でもないものもよくみればおおいのだがいちおう古文なので、国語でやるってのぞけば、すくない。自分の私的意見をいうと、悪影響といおうか乱惰な風習を記録している文面読解での弊害もそれらをおしえてしまっていることには当然あるとおもう。というか、こっちなら水戸学があるってのにわざわざなにを修学しにいくといいたいのだろうか。自分のときもなんにもしらずに行かされたまで、なぜか芸妓なんかみせられたくらいで、いまおもいかえしても吐き気するし、決していくべきではないのだ。自分が冷静におもいかえしてみても、はっきりいってあんな僻地にいまさらいっても今後の青少年の将来的にいって、反面教育にしかならない。特に韓国は、ただ単に表面だけ着飾ったあさはかで低俗なポップカルチャーを一部の芸能プロダクションが商売目的にうりこんできているだけ、いくだけ金をしぼられ、東京よりもっと汚いからおおいに失望するわけで、どうしてもいきたいひとを強制帰還措置まではできないが、特に未成年は理性そだってないから無意識にまねさせてしまいやすく、かかわってもおそらく教育とみれば損害がおおきすぎるだろう。
しかも、これらにくわえて韓国や北朝鮮では戦時中のことをおしえまくっているのであれら薩長藩閥中心ではあったけどとんでもない侵略をした日本人へ、深いレベルでうらみをもっているのを、県内の教育家らは十分かんがえるべきである。

 あえてにほん国内でいえば、最古都だしのんびりしているので奈良なら気が休まって古代王朝におもいをはせられていいのかもしれないけど、交通機関の発達でいえば宿泊学習とかの距離感じゃないか。別に家族でいこうとおもえば、当日いけるのだから。関東圏でいう鎌倉もおそらくおなじことがいえるのではないかとおもう。

 よくできた科学がでてきた地帯はどこか。イギリスか、ドイツ発祥のものがもっともおおく、フランス、イタリア、そしてギリシアやほかのヨーロッパ諸国、北欧あるいはアラビア、インドそして中国などとつづくわけだが、基本的には戦勝国イギリスを公立学校では留学先として決めるべきだ。アメリカは最近すごいがなにせ歴史があさい。近代科学の大成国家はいわゆるUKなのだ。これが真実であり、ニュートン、ダーウィン、ファラデー、ケインズなんかがどうやって勉学していましたか、というのをみてくるだけで偉大な啓発効果が未成年にも引率者にもあるだろう。別に費用とみれば先進国内ならどこにいっても飛行機があるから、そんなにかわらない。物価高が異常になってない普段ならまったくかわらないか、日本が円高ならむしろ国内へいくよりもっと余裕のある贅沢な旅になるくらいだろう。ノーネクタイの詰めえり学生服やツイッギーを歪めすぎたみたいなセーラー服くずしのミニスカートでずらずらいくと「一体あれはなんのジョークだ。東洋人はおかしなことをするな」とおもわれるでしょうから自分たちの普段している、奇形的で恥ずかしい格好もよく理解できる様になるだろう。最後に落ちだけど、大阪府内の教育関係者のかたはこの方針まねないでください。わらわれてしまうからです。
[PR]

by smartestone | 2012-03-08 22:34 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

震災以後の崖についてのまじめなはなし

 自分の家の背後には崩れそうな崖があって、県の防災マップでいうと危険区域になっていて地図上に真っ赤なわけだが、かなりまえから市役所へ相談にいくと向こうはケチそうなかおでなんとかごまかそうとし、門前払いされる、というのをくりかえしてきた。

 親切どころかめだって奉仕がわるい。これが小さな政府論、つまり民営化がとなえられ得る一つの起源でもあるんだろう。
 自分は重機をもっていないから自分の手で崩れそうな崖を治すことなど到底できない。

 高齢化でおおい近隣家のおばあさん方もそうだが、屋根瓦を修理する費用がだせないのでむかしから変わらない家々を廃屋にして何名も遠くへ引っ越していった。たった数十万円が年齢柄、先が長くないので子孫の為にのこそうとかんがえるのだろうが、勿体無くて払えない。だから一生住み慣れた土地から泣く泣く子のいる大都会へまで、もう何年も先はないだろうにこの大震災で引越したのである。夫の亡くなった家でともに亡くなることができない。取るに足らない金の問題に翻弄される数多のたましい。これはまじめなはなし。ノンフィクションなドキュメンタリーであり、自分自身が実際に生きているそのまま、まわりの状況、その日誌でしかない。
「金儲けできなければ死んでくださいね」、たとえどんな才能をほかにもっていてその能力でどれほど人類史へおおきな貢献をできたとしてもです、という異様な弱肉強食社会。福沢諭吉の成り上がったeconomic animalとして品位のかけらもない、自分勝手でお刹那で享楽的な大衆文化の金持ち国家、というすがたの中で。なにがいいたいか。

 おおきな政府の規模からきたさけがたい鈍重さは言うまでもないけど、金儲け第一という国家のすがたは決して立派ではない。しかも、本当に必要なところには復興のカネがない。さらにとんでもないことには、われわれのしはらってきた税金分すら復興予算としてわりふられない。貪欲なる財界へおもねるべきではない。むしろdefla政策すべきところなのに。ここでケチをしても誰一人得をしないのだが。金は天下の回り物だから、ある必要性の高いところ、つまり需要のある箇所で使えばめぐりめぐってみなが好景気になるのだが。
[PR]

by smartestone | 2012-03-08 22:14 | Trackback | Comments(0)

評価と才能について

 ノーベル賞権威主義というのは、スウェーデン・アカデミーを他の文化圏より上位におく構えにしらずしらず力をかすかんがえになってしまう。
 むかし、すこし意味あいはちがうがサルトルというひとはこのことを先にいおうとした。しかし、大勢とみればほかの文化圏のひとも、このスウェーデンへのてだすけ、ヨーロッパのかんがえへの礼をはらってきたといえる。

 以前、このweblogをこえて市内のかば氏というひとと電子的に通信して、自分はこのことをつたえようとしたが、どうもかば氏の方は「どうして世界へ羽ばたくのが間違っているのだろうか」とかツイッターでわたしではない他人へいって対話をうちきってしまった。
すこしはなしをつづければ誤解はとけるだろうに。

 まちがいなのではなく、タンジュンにあさはかなのだ。以下はそのことの説明。
全世界で、いのちあるいきものにとって大事なのはその独自さの確保だろう。生態系はさまざまな変異としてほしのすみずみまでその居場所をのばしていった。なぜか。単に、その多様化という方法は生命という宇宙のなかでみられる特別な単位をいきのびさせえたからだ。
 この多様化は、地球が激変していた時代をへても安定してどこかに生命をのこすことができた。もともと一つの生命からこれら一切のいのちの系統樹ができたというのがわれわれの知見だと私はおもうが、この系統樹は枝葉をそれぞれさまざまにのばすほかではいきのびえない。

 だからこそ、ある一定の方向とか、ある一定の偏見からのみこの生命体を剪定してしまうのはかならずしもよい結果にならない(これは、自分がこのjournal上で社会学の文脈上に再三しめす見解として、資本主義経済というかんがえかたがもっている「商業能力」という一方向のみからみた社会淘汰の危険性、あるいは群れに及ぼす結果的な形質の単一化による脆弱さ、絶滅可能性とおなじ構造でもある)。
そうではなく、さまざまな生命があり、そこにもさまざまなしごと、さまざまなくらしとかんがえがあることの方が、いいかえれば多様性が維持される条件であるということの方がとりあえずいまの同類からの評価よりも重大事なのである。
なぜなら、ある変化が環境にあったとき、以前の評価基準がおおはばにかわるというのはわれわれの祖先もふくめ、人類もほかの生命体さえもみなどこかで何度も経験済みだったはずだからだ。
 一定より文化史を勉学した者は潮流やparadigmということばでこの潮目がおおきくかわっていったしわざを目撃してきただろう。それは同時代にしりあった大勢がかれらの仕事をもしどれほど評価していようと、やはりそうだった。われわれの学問というもの、このまなばれるべきとされた文物の体系さえ過去に於いては相当ちがっていたのだから、少なくとも学問史または科学史をしるにおよんでほとんどうたがう者はないだろう。

 このために、世界からの評価という指標は、その世界とやら、つまりほかのにかよった人類のなかまが、なにかどこかがまちがっている可能性がつねにあるかぎりいずれあやういのだ。たとえば現時点でいえば、冒頭に書いたノーベル賞審査委員会が、全地球での学術的権威になりつつある。
しかしやはり、いまかいたことをしればこの世界からの評価とやらがはたして生命の徳であるとはいいきれないことがわかるだろう。それが「多様」でありえるさまざまなしごとの業績を、ほかの世界からの眼差しで一定にちぢめたり型にはめてしまうのが、このほまれとされる人々への大衆からの偶像崇拝じみたもちあげかたを通してみてとれよう。

 各国がわかれているとか、人の肌の色がちがうとか、言葉がさまざまであるとか、得意なしごとがちがうという状況のさまざまさは、そのなかの一定地域からの出現者が「世界に羽ばたいて」結果として大多数からなんらかの評価をうけた一様の型にわかりやすい特徴があるばあいより、その個性に関して状況が変化しても再適応しえる可能性が高いことがわかるだろう。いわば集団行動の規模の程としての個性の属した世界観が、これは家族とか会社とか国とかいろいろな単位があるがその現状や業績やもしくはさまざまな観点からされた評価やその程度に於いても多岐にわたるとき、それら単位が評価された一様性に置いてあるときよりもはるかにすぐれて高適応的とみなせるはずだ。
こうしてみかえせばむしろこの多様性が、まったく「ほかの」世界からは無評価でもなんらかまわないほどだ。なぜならこの系を単純に物理系にまで還元してしまえば、その半開放性の単位にみられる多様系の質こそがかれらの母集合(ある単位Aをふくむ全体集合U)やそれとは逆に補集合(ある単位Aをふくまない全体集合U)との関係性は別に、いいかえれば共生状態にある恒常さの質とは別に本当にもとめられている生命体の独自にもった宇宙へののびかたなのだから。より専門的にくわしくいえばentropy最大の乱雑ではなく、かといって最低の整然でもなく、energyに関しても同様にそれらの情報の出入りにかかわりない恒常さがもっとも多くの状態をたもっているのが理想的だろう。
実際こういういきものの体系を自らうみだす、いいかえればauto poiesisを機能として超越したはたらき、昔ながらのいいかたにしてしまうと神とよべるほど全知全能のなにものかそういう計画的機能主体がこの世にもしいたとして、かれは世界からなんらかの人間がつくる賞によって評価されるだろうか。むしろ世界という場所に住んでいる個々のあたまにかぎりある生命体にとっては理解不能なので、拝むとか畏れるくらいが関の山で同類にくらべては評価しえないのではないか。おなじことは、一般的にはどんな種集団であれその上位者への従事がいるときはどこでもおおかれすくなかれ生じている、といっても過言ではないだろう。
いいかえれば、わずかに同類にとってほしい能力からすぐれている、といった程度の変異がかれら一般的な人類からの評価にかなう、と定義できるだろう。そしておおはばにその水準をこえてとてもではないが到達しえないとき、崇拝され神格化される。またその基準からずれすぎていると、相手にされないかそうするあたいのない変なものとされてしまう。しかし重要なのはこの評価という類人猿などでもされている、おそらく協業のためにはじまったほかの個性への役割分業の作用だけではない。
かりにそれも一つの微妙な平均さからの進歩を達する方法論なのだとしても、本質的にもっと重要なのは、相対的な有能さというより種とそこでの技のもとからの多様化である。
 閑話休題。
 話をさらに簡単にしよう。大多数からの評価をうけるという作用を一般概念にすると、究極でいえばそれは「審美性」をおびやすい。このことばは、最も普通で且つ最もまれな変異のことだとしよう。
この超中庸さは人口やなんらかの変異のなかで、その大多数にとって上述のありたい程度の有能さがもっとも想定されそうな中間性、つまりもっともおおきな評価主体数のもっとも中間の変異であるとき、そうと目されるはずだ。
きわめて世界中に通じやすいことばで、といおうか経済学の用語だけど美人投票という説明がある。これは当人の本来のこのみではなくて、市場でこの変異が美人であると評価されやすいだろうという予想を大多数がつづけることでえらばれるしくみ、というおもに投機市場での銘柄ゲームへつかわれることばだが、これとおなじことが「世界からの評価」にはその世界が無限にひらかれているとすれば必ずはいりこむだろう。そうすると、この評価されるなんらかの人物やそのしわざは、ほかの大多数にとってはもっとも中間さをしめすだけにおわるだろう。
 こうなると、多様化という生命本来の方法論はすたれてしまう。ほとんど評価されないが、激変にたえていけるなんらかのまれな変異は、この美人投票モデルによって社会から淘汰、つまりえらばれずに排除されてしまうかもしれない。
この悪徳が結論にくる確率がたかいので、私は一応市内のひとでなおかつ今のところおなじ国家の成員だから、webを介して通信できる状況にあったかば氏へ以上の内容説明をできるかぎり理解しやすく省略しながら忠告しようとしたわけだ。「多様化をうしなうほど美人投票モデルにしたがう評価社交界にかかわっていけば、やがて環境変化にたえきれず衰亡してしまいますよ」という生命体が経験値としてもっている真理だ。

 こういうわけで、ノーベル賞権威主義も一面ではあやうさをもっている。それはおとろえあるいはほろびなかった帝国が地上に一つもなかったのとおなじ真相なのだろう。ノーベル賞帝国は、過去から類推するかぎりではおそらく永遠ではないのだ。このことはほかの典型的な評価体系でもおなじなのである。いいきれば、重要なのは生命体が、つまり個性がそれ自体として独特であること、そのuniqueさそのものなのであって、なんらかの評価体系の固定化ではなさそうだ。しかしこの評価固定化paradigmにのっているひとびとには独特さの本来の価値はなかなか理解されない。だから啓蒙と説明がいるし、それが個々のかんがえへあたえる因果としての、行動系列の多岐さからきた結果とみた母集合における社会集団の生き残りの割合にさえこの徳のもった範囲はほとんど比例するかもしれない。
これは中華帝国の衰亡をへてきたにもかかわらず、いまだに個性個性へ一様な試験をほどこす、官僚主義を慣習化している科挙の風土としての極東アジア社会にとってはまさに、深刻な社会問題とかんがえられる。
[PR]

by smartestone | 2012-03-06 00:25 | 経済論 | Comments(0)

人文社会学

水戸学と封建道徳の名残り
 武士階級は婚姻の際に理性的な趣味判断の入り込む余地がある、当時実質の貴族だった事から、「淑やかさ」とか「慎み深さ」とか「奥ゆかしさ」といった精神性の次元あるいは頭脳の働きに、町人にあってそうだった単純な身体の健康を含めてはいるだろうがそれを超えて、女性らしさの中にみいだせる審美性のより高度な焦点があった。
これは近代化によって階級制度としての封建制がはやく拡散されてしまった東京都では早くから曖昧になって目には見えないほど胡散霧消し、旧来の町人道徳のうちに大衆となって消えてしまった様に見えるが、おそらく幕末の経緯から足早な近代化の趨勢からとりのこされた適所だった理由で水戸藩域での在来の人の一部にはそれなりに残存しかえって保存されえることになったとある性質なのかもしれなかった。例えば漫画の中で表されている東京の享楽的庶民の暮らしが現に彼らの生活態度の写しなのに比べて、この論文で言及しようとしているある貴族的精神性が我々の暮らしの生きている写し、いわばその場所に写されている理想としてなお対称的なのを一度かえりみればよい。つまり、薩長や公家が大量に入ってきてすぐさま武士道が強く否定された江戸・東京ではこの古きよき倫理観は旧態なるものとして排除されていったのかもしれなかった。
 自分がビクトリア時代のイギリス文学――ブロンテ姉妹やジェーン・オースティン(こちらは若干早くそれに属するとはいえないかもしれないが)などを、水戸藩士の妻の手で幕末に書かれた山川菊栄『武家の女性』などと見比べて読むと、侍という貴族の中には偶然ながら、西洋社会の孤立した島国で社会的に淘汰されていったある家庭性の徳と符号するところが多いという事を発見できる。それは貞淑さとか純潔という婦人の徳を基本として、多くの規律に示されている凡そ人類とみて同質以上の人倫的な抽象性なのだ。よりわかりやすくいうと、家庭的である事をよしとする社会は、各国で封建秩序が作られていった際に、その独特の貴族の確立の際に配偶される第一の婦女への配偶の機運としては殆ど相似だったわけだ。『女大学』や福沢諭吉『新女大学』などが当時の武家の知識層に属した中ではおそらく儒学の経過で読まれていたとしても、これらのはるかに文化としては離れた場所同士のかなりの似方、つまり文化生態的な同位性には、家庭的な封建道徳に於ける奇跡の一致というのに留まらないのならば根拠がなければならないだろう。
もっと端的にいえば、プロテスタンティズムと武士道のなかには封建社会で適応的だった徳目の中に、ある共通性があった。そしてそれは婦人の徳とみれば殆ど一緒で、生物に於ける雄性形質の例に洩れず大きな変異の幅があるはず男性の特徴の場合だけ社会状況のそれなりの地域差がみられていただけだった。武士道そのものは儒教や仏教の意識をさまざまに消化して、諸藩での分化を経由はしても結局、新渡戸稲造『武士道』で総合されている体系とここでみなすと、封建社会の主従秩序を、日本では君臣関係として完成させようとした意識とかんがえられ、それは現代にあっては会社や政府へ属した特有な仕事への責任感の高い従事という一つの行動気質に転用されているらしい。
この心理は、プロテスタントの上にあっては紳士の貴族性に象徴されているとはいえ、神の元に樹立された政府または人民から択ばれた王室がその職業倫理としての天職に励むという共通の仕事観に求める事ができる。即ち、かつてからいままで延長してきた人々の信念、家庭的意識、あるいは宗教観念や社会の道徳としての宛がわれた仕事への勤勉な従事、それによっての社会福利の増大という感覚は一夫一妻を余儀なくされたか自主的に選択していった一定の地域では細部に微差ほあれほぼ同じものなのだ。そして、これが最もはっきりと示されていた時代というのが封建制度にあって、人々の中に典型的な職業分化が維持されていた一時期だった、というわけだ。
 水戸学が引用してきた儒教の体系が定義した「君子」というものも、かつて中国社会がこの封建秩序を確立していた時期に確立しようとした貴族の名義だったのだろうし、同じ事はおよそ、固定的に主従関係が定義されていた多くの社会でも相似なのだろう。朝鮮でもソンビ、という文官或いは文士がこの役割をあてがわれていたらしかったし、スペイン・フランスあるいはオランダ・ポルトガルなど先に植民地への侵攻をはじめた西洋諸国では次第に目立たなくなっていったが、ドイツつまりゲルマン社会では西欧に中世からいのこる騎士道:chivalryの規律が最も古くまで生き残った事になるのだろう。そしてこれらの傾向は第二次大戦後、おもにはアメリカの主導によって全先進国世界がその地球標準をのみこまざるをえなくなって独特である事をやめるか、少なくとも表面上はそれを示す余地を似かよった社会づくりへの先導によって失ったのだった。
[PR]

by smartestone | 2012-03-05 20:03 | 学術論 | Trackback | Comments(0)

岡倉と雨情の共通点

多分岡倉の映画をつくっているとおもうのだけど、きわめて重要と感じるのは、つぎのはなし。
 岡倉は伝説おおいが、息子さんと利根川だかで釣りにでて、釣果があがらずかえるときに、月のかかるしんとしずまりかえった寂然たる風景のなかで河口にむかってふとたちあがり、おもむろにへさきから矢をはるか沖の方に向けてはなったという。
 息子さんはこれをとてもつよい印象として記憶にのこしているらしかった。

 かれの詩情をしめす意味をもつepisodeとされてるけど、おそらくだが、一矢を報いるというおもむきをかれをとりまく自然に対してhumorousに実践でしめしたのではなかったか。
全体とみて、岡倉という人物はこういうところがあった。つまりまるで小さな、平和愛好者の様にみせた無意味そうな行動のなかにかなり深い哲学や皮肉、文明批評を込めている、という性格だ。

 これはいままでの人類史でもどういいあらわせばいいかわからないがきわだった特徴なのだけど、この戦わずして勝つみたいなところにわれわれは感服できるわけだ。かれの仕事が文明界でもっている意義もそこにあるのだろう。
少なくとも、実際にいつうらにちかくてよく行ったりするきたいばらきあたりの市民などは、本気でこれをなんとはなしに肌身で理解しているとはおもう。
またそれは、基本的な通奏低音としてこのあたりの地風といおうか風のならわしのなかに音もなく染み込んでいる感じもする。
ある賢明なゆるしみたいな意識が、さまざまな社会矛盾に向けてつくられている傾向があるとおもう。これは、初めてこの地域にきたひとにとっては「さみしさ」として伝わるものかもしれないが、それにちかいけど、実際にはそれだけではないらしい。むしろことばとしては孤高とか悟り澄ましとか超然とか、仏教語でいう自然ジネン、ありのままであること、天衣無縫という感覚にちかい。

 童心(すなわち漢語でいう赤子の心、国学の語でいうとうまれつきたるままのこころという理念。あるいは英語でいうとgentleとなる生まれ持ったこころのよさ)、にこれをもとめたのだろう雨情というひとも地域に特有でもあるのかもしれない、特徴ある性格をもっている人とみなされているとおもうのだが、そういうこばなしがいくつかある。
けど、かれらはやはり実質上の平和愛好者であったという面ではある程度似ていて、しかもその象徴能力での感化による戦わない勝利をおさめようとした気がする。

 和辻哲郎がmonsoon気候、つまり、季節風のふく風土では自然へ対抗するのではなく、それと調和しようとする意識がはやると分析している(『風土』『倫理学』)。
これを含め、どうもその調和というものを象徴化しようとする意識がきたいばらきの先人にはかなりあるとおもわれる。たとえば、駅。玄関といおうか中心部だから手の込んでるって意味でも磯原なんかわかりやすいが、あきらかに海や山や川、あるいはある深い古風な情趣、童謡の風土なんかを象徴して示そうという意識が市民自身以外のだれにたのまれたでもなく、あらわされていないだろうか。この象徴化の作用が非戦闘的か和平尊重的、もしくは隠されたたとえとしてhumorousに示される、というのがこの地域で生まれ育って感じる、どうもほかにはない性質の特徴だと考える。

ひと昔まえは野原に点在した街道沿いに少しの商店がある農村だったわけで、そこでは水戸藩ならびに常陸國に属する地域だからすこしの郷士がいたらしいとはいえ、基本としては農民のたちを引いていると捉えていい。
そしてこのたちが非戦闘性をおびさせたとして、なおかつ、これは仮説だけど水戸藩士の質実剛健さと自然風土のもっているすばらしい繊細さと結びついて、気質あるいはかたぎのたとえによる象徴化作用らしき性質をもたらしたのではないか。

この作用は独特で、いろんな土地や人々をみてみてもあまりおおくは示されていない。
つよく戦闘性を示すとか逆に自然をあいてどらずそもそもそれを形象にしめさないし意識にもないとか、まったく自然そのものに土着しているとか、風変わりさをおうとか流行に後れまいと気張るとか、さまざまな変異があるが、きたいばらき圏に典型的にみられるたちの自然界との調和の象徴をとうとぶみたいなものはほとんどみあたらない。これははっきりいっていい。どんな観光地でもそういう感じはしない。辛うじて京都の郊外は風雅をめざしていたという意味で少しは近いのかもしれないが、似て非なり。各地のいろんな文化をみていくと、格式張るとか人工物を誇るとか歴史を示すとか自然風景を見るとかそういうものがとてもおおい。意図がそもそもちがっている。
 自分らはそこにいわば適応しているのできづいていないが、当たり前みたいにかたられているこの「自然との調和」をはっきり普遍性のあるすがたかたちにしめす様な性質は実にめずらしい。
六角堂、までいわなくとも山海館なんかあきらかに海につきだしていて普通にかんがえればあぶないわけだが、平気でわれわれはそれをつくったりそのすがたになれている。茜平もあるいは昔のレストランのたてものなんか特にそうだったけど崖に面してあった。いまも思い出せるがそこでは幽谷の趣のなかで、皿うどんなんかをたべられた。いまも直接まどをあけたりしづらいけど、なかばそれに似たつくりにはなっているけど。川床なんか日本各地にあるだろうけど、当然これらでなくとも無数に例をあげられる。たてものの設計思想というだけのはなしでもないとおもう。まわりの自然に親しみを持ってあるいはそれを尊重して行動する、という明らかな風儀がめずらしいわけだ。なるほど、ボコボコ道路や誘致した工場をつくりまくるだれとかさんとか、資本主義にそまりきった団塊の世代の大規模郊外店からの土地買収へ無策なだれとかさんによっていろいろありえないといおうか残念な自然破壊が起きていることは、ずっと地域をみている側にはたしかだけど、それにもかかわらずこういうありのままの風景はやはりそれなりにのこっている。
わかりやすいたとえを引くと、一帯でつばめの営巣がみられるので駅員さんがおそわったでもなくその巣をつくりやすい様な工夫をほどこしているというやさしさとも繊細さとも詩情ともいえない感覚とかは、ここにくらしてるときづかないけど世界的にみても大変にめずらしい。普通はそんなことわざわざしないし、あくまで公共物の構内にくる害鳥とでもおもって、網を張るとか排除かなんかするものなのだ。

 ついていえば、この資質、つまり自然界との象徴的一体化を姿形にあらわすという特別な才能は、自体がきわめて希少価値のたかいものとおもう。人でも仕事でもある。これは、海と山の距離感にもよるのだろうけど、わりと海と山が隣接していない高萩市や日立市までいくと段々と拡散して目に見えてはあらわれなくなっていく特定の資質なのだ。瓶首効果があるのかもしれない。
勿来より北にもこの拡散してしまうということはある程度いえる様で、しかも、おそらくは常陸國水戸藩域ではなかったからだろうけど、高文化への感受性がいくらか低まっていく傾向があるのかもしれない。かたぎさが減る、といってもいい。勿論それはそれでおおらかともいおうか、気楽そうでいいのかもしれないが。
風土も、この海と山が急峻にいりまじったきたいばらきあたりとはそれなりにちがってかなり広い平地のはばがあるので、そこにくらす人々にも厳しさや繊細さが少ない、よくいえばおだやかで目くじらをたてない質がある感じがしている。こまかな変異はあるけど、全般としてみてとるとそういうことだろう。

 とかく、自分が発見しているこの特質、自然界との象徴的一体化を姿形に示す調和の才能はそうといわれなければはっきりとはしないが、たしかにきたいばらき一帯にあるもので、しかもそれはいくらか先人のなかにも生き方や生涯にしみわたっていたりする。勿論なんらまったくそうでないひとが生きていようとまったくもっていいのだが。
 原理としてみると、単にむかしからくらしてる地主もそうだけど、そういう風土や特質をこのむひとが移住や適応して定着しやすいのかもしれない。ごく単純にいうと藝術の才能となるのかもしれないけど。
このばあい、藝というのは原義にならって「うえもの」、つまり植栽や自然界の再制作や配置換えのことでもある。そもそも、artや技とみて人類がしていることも、とある自然界からでてきた(もしくは神からつくられた)動物たちの園づくり、いいかえれば社会とか国家の建造とは自分たちのくらす自然の部分集合としての巣づくりにすぎないのだからこの言い方はただしいとおもう。Polisや村の形成としてのpoiesisや作り事とは、音楽をはじめたてもの一切、政治経済の演劇一切がそのなかでのふるまいだ。人類は0からなにかを作ったりはしない。単に自然のentropy配列をくみかえたり、素材のくみたてを工夫して日々を住みやすくするだけだ。

 ただ、一般に星中へひろがっている人類とこのきたいばらき市民あたりにみられる気質の差というか、よい意味での個性があるなら、われわれは「調和した藝術」をみいだす能力がすぐれているといったところだろう。いろんなものごとがそれを実証していると私はみている。象徴とされるかもめぶっていてさえも。
[PR]

by smartestone | 2012-03-02 17:46 | 経済論 | Comments(0)