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学問の分類と考察

学問ということばは、英語では単にlearningなのかphilosophyなのか、およそ昔からある日語であらわされた漢語だけど、おおまかにいって、実用さをもったものとそうでもないものというのがかなりひろくあるかもしれない。

 実用さ、つまりつかえる知識というのは、究極でいうと工学かもしれない。
単なることばの定義のはなしだけど、代表的なのは医学・法学・建築学あたりかもしれない。これらは、それぞれ医師・弁護士・建築士という技術職にむすびついている。だから応用を前提にしているふしがある。*1

 あるいはもう一方のわかりやすい定義として、自然界の「物」をあつかう学資は具体的といおうかつねに応用がきくはずなので、これを実用の学識といっていいのかもしれない。語本来の意味でPhysics、つまり具体的な学。
この日誌でくりかえしだすが、もっとも基本な科学は、いまの段階では数学・物理学・生物学。もう一歩ひいてみると、数学・天文学・物理学・化学・生物学・社会学という6分野ではないかとみえる。
これらは、いわゆる古代ギリシア系のリベラルアーツもそこにおおまかに含まれている。*2

 ここで、われわれは歴史からいうと慎重にならなければならないわけだが、こういう学問のかたにはまった定義というのは実にあやうい。世界の状況が変わると、あるいは人種といおうかことなる知的生命のうごきとつながると一気にまなばれるべき体系がきりかわったりするわけだ。*3
儒学というか、朱子あるいは王陽明のかんがえを経由した特定の中国経由の古典理解。これがほとんど極東のあちこちでは普遍性のある学識だとおもわれていた時期が相当ながかった。
論語にいう六芸や四書五経は、特に馬術や弓術なんかは新型の兵器が多数できているいまでは戦闘準備としても単なる古典芸能にちかい競技に属しているか、それをこえてはあまり本気で重視されていないが、日本ではつい200年あるいは中国大陸で4000年さかのぼればそれが君子や武士に必須か、さもなければ古典的な権威でさえあった。
事実上はその派生とみた道教の知識なんかも仮にいれて、それら儒学というものを近世の水戸学が思想とみて大成したのかもしれなかったろうけど、仏教関連のいくらかの漢文から二重に翻訳または日本の人自身に解釈されたなんらかの文献と一部の国学系の和歌論・古事記論くらいが つて だったといえる。
つまり学の体系というのは決して決定的ではない。いつもゆらいでいたり、進歩と信じられてはいるがかなりの変化のあいまにある。この原則は、西洋であろうと中東であろうと中国やアメリカ、オセアニアであろうと星中や、その外でもやはりそうなのだ。近現代はやりのといおうか熱力学の用語でいうと、非平衡開放系みたいな構え造りをもたされていて、いつもなにかが出入りしているというしくみだろう。

たとえば、スコラ哲学というものがそういうくびきだった時代を「中世暗黒時代」とよぶ西洋系の教育機関は、それよりもむかしにジーザスがあらわれるまえまで極西ではほとんどユダヤ律法しか学問がなかったすさまじさというのを冗談でなく当然しっているはずだ。
古代ギリシア人の記録がひろくラテン語で翻訳されるずっとまえ。いまでいう西アジアのいろんな書物をばらまくことになったアレクサンドリアがあちこちにできあがってくるその少しまえ、こういう状況は、中国で孔子というひとがそれ以前に断片的につたわっていたさまざまな書物を集大成しようと地味に中国大陸の諸国を漫遊しながら勉強していた間でもやはりおなじだったのだ。

 要するに、ソクラテスの無知の知までさかのぼって言ってもこういう、「自然」以外の、自然のあとにあるといわれている学識は、形而上学とか哲学とか先進国圏ではいわれている分野だけど、はっきりいってきわめてかわりやすい。もっと日本の近代受験制度でもわかりやすいことばにすると、文系はほとんど内容がかわりまくる分野というほかない。

曖昧かつ不確かで、うらぎりがおきやすいうえ、いつも相互の意見への問答無用な非難合戦場みたいな異様な状態なので、ほとんどそこでつかわれている専門用語や常識みたいなことばづかいさえまず信頼してはいけないほどである。
といおうかほとんど慣習でしかないあるおもいこみでしかない、とさえいっていいのが人類の経験則としてもまずまちがいない。

それらのはなし、つまりmetaphysicsやphilosophyはたしかに、かなりまなぶのさえむずかしかったりするが、実際にはまなぼうとするほどむずかしさがたかまっていくだけでなんら普遍性をもってはいない。はっきりいうと、まがいものの学問、つまりはなんにもならない罠なのである。
『徒然草』に、とりあえず人後におちて負けて無能であれと吉田兼行はいう。これさえなんのことはない、形而上学のはなしであるかぎりは虚偽にすぎない。真に無能ならば随筆など書けたはずがないのだ。

あるいはまた、ウィトゲンシュタインというひとが「語りえないことへは沈黙しなければならない」といった。これはそのことをいいあてている。形而上学は普遍性をもっていないので、どうせうそといってもいいしろものだから、誤解をまねくだけなのでなるだけいわない方がいいといった次元のなんでもないはなしだ。
もっと素朴にいっても、孔子が『論語』のなかで一日中ねないでかんがえてみたが意味がなかった。学ぶ方がいい、といった有名なくだりがあった。
 これは、ウィトゲンシュタインのいいたいことをはるかまえの時代にいっているのとおなじかもしれない。不思議な真実として、かなりかんがえても特に人類は得をしなかったのだ。
まなぶものが得をした。得失点差みたいなはなしで、失点しまくったとき退場させられさえしてきた。つまりは、独特の哲学のなかでくらしていたなんだかわからぬ弱い野蛮人としてそもそもの種ごとほろぼされたのだ。エジプト帝国もインカ帝国もカルタゴもインディアンの国もなくなった。日本という国がそうならないとはいいきれない。

 こうやってみてくると、法律の根拠というのも、単に経験則みたいな地域それぞれの哲学解釈なので実はひとのあたまでつくられた人工の学識というはなしになる。だから、その地域集団がよい、とかわるい、とか好きにきめているのだ。*4
それでも利害の調整のために裁判がおこったり、徴税がおこなわれたり、財産や権利や生命の集団防衛のために警察がつくられたりするのでなんとはなしに法というものができてくる。はっきりいって、おきてというのはこうやって、集団性のなんらかのおもいこみ又は口裏合わせでしかない。しかしそれは、まるで群れたおおかみのごとき未開な人類の知的水準ではだが、古今東西にかなりひろくある変な風習なわけだ。*5

はなしの本筋にもどる。

 結局、自然界というのは、人類のまわりにかなりひろくあって、それはそれらのゆれうごきにくらべて人類の個々の100年くらいの命の方がはるかに期間とみてみじかいので、人のありさまのうつろいやすさにくらべて自然界の方はほとんどかわりがない。たとえば千年前と自然はあまりかわらないが、寿命の異様にのびた現生人類のもっている社会条件はこのweblogなるやりとりのまあたらしさでもまさにそうだが驚くほどちがってきた。

自然のなかでもっとも人にちかい社会学というのは、あるいは社会科学というのはきわめてかわりやすい学識なので、ほとんどいままで一度もすばらしい完成度があったためしがないか、実験作だらけであった。
マルクスやケインズなんかどれだけわけのわからないこと、もしくはその場かぎりのことをいっているか。
しかもこの社会学なる分野はいわば自然にとってすればたかだか文字をもった人類登場以後からきた新参者であり、はるかにむかしからいまでは信仰になっている聖人に於いてなんかのばあいの様になんとかつくりあげてしまおうと必死に努力されていたとはいえ、きちんと確立されたためしが一度もない。
 しかも、社会学は教団を生む傾向があって、これは現代にちかづいてきても、まだ学派の対立とか見解のちがいとか、はっきりいってみなおろかなことばっかりやっている。共通の真理というのをみつけられていないのだ。社会学の人は、あまり共通認識というのを持てていない。北朝鮮とアメリカ、キューバと中国、ロシアとシンガポール、イギリスとドイツ、イラクとニュージーランド、これらのなかで教えられている学識をくらべても社会学はほとんどまったくといっていいほど体系がちがうのがわかる。

社会学は、偽学問とまではいわないが、分析がむずかしすぎて人のてにはおえない、もしくは永遠においつかないのだろう。社会はこうしているあいだも、だれか他人によって変化させられた可変ルールの世界だから。
社会をなんとかおおまかにとらえようというこころみはあったとはいえ、ハイエクのことばをひけばpatternつまり型にはめようとしたくらいが関の山だしそれも要はだれかのかんがえのとおりに人を機械化しようとしただけなかぎり、ただのまちがいなのだった。

 以上の議論のすすめかたからいってなにがいいたいか。
 社会学の不完全さ。そうだが、同時に、その社会という特殊な組織をふくむ補集合である自然学、あるいは自然科学というのがもっともしっかりしていて、およそ経験的に応用もできるし、工学の基礎にもなっているので特に重視すべきというはなし。
どれですかというと、天文学・物理学・化学・生物学。では数学とはなにか、これは論理とか集合とか幾何という分野もそうだけど自然界をうまく記述するための特別のことば、というわけだ。
もっとくわしくいうと、できるだけ共通の記号でかけば、いろんな言語のひとにも通じるというわけで数学基礎論というのをラッセルらがかなりちかい時代に努力したわけだけど、要はこのためのはなしだった。

 いまかいたことが、要はいまのレベルの人類の先進国がみいだしてきた「学問」だか学習だかの意味づけだろう。
自然界という、はるかに人類よりながい歴史をもっている、法則というか現象の基本的な原理があまり変わりそうにない対象を分析して、そこから世代を超えてつかえるなにごとかの共通の真理をみつけだし、あつめておきましょうという単純なはなしなのだ。こうすれば、孫の代になろうとやはりおなじはなしができる。
燃焼というものを知っているのは、酸素や水素や炭素のあるところでくらすどんないきものにも通じる情報なわけだ。知識つまりscienceというのは、単にこういう共通情報のやりとりのことだ。
 ここでこの小論文の最後にいいたいというか、はっきりかきのこしておくけど、「なんだかむずかしそうな」「なんだかなんの役にたつかわからないから」というわけの学識というのは、はっきりいって無益有害だろうということだ。
これが人類をだますこと並ではない、ってのは人類史のいろんな事実が証明してきた。もしくは、逆にこのわかりづらさ、役立ちそうもなさが権威づけられたり、余分な努力の証としていわば中世人類の過剰な負担になってきたってのが真相なのだろう。
どれほどこういう虚学といおうか形而上学まがいといおうか、科挙なんか典型的だけど、箔づけのためだけの意味不明な体系、しかも時代の流行でかわりまくるただのことばのあそびが人類のありかたを歪めまくってきたかはかりしれない。
学者を馬鹿にしている人はこういういんちき商法そのものな占い師のことを、自然科学者とまちがっているだけなのだ。

そしてこの致命的な勘違いが恐ろしいのは、特にいまの日語で「文学」というのがあらわすしばしば勉強しない方がまだましな分野というのの存在だろう。
とんでもない悪徳の洗脳みたいな陸でもないのがはびこっていて、しかも悪質な事にむかしからそうなのだが、こういうものをまちがって学とかなづけてあたかもえらそうな顔しているのは若者や少年少女にあたえる悪影響がすさまじい。
 文学は芸事であって、いわば気晴らしのあそびでしかないのであり、それらの後追いによる分類とか解釈のための研究文章や講義もおなじだ。
文芸と文芸批評を文学ということばで示そうとしたひとはよくない。これらは、例えば福沢諭吉の『学問のすすめ』で文脈の最初に指摘されてることだけどあらためていっていい。

文芸は形式のあそびであって到底、学資に足る様なものではないのだ。どれほどやっても物珍しさという浮いた人気を買うものでしかない。どれほど行ってもただの形相の変化なのだから。学問ではないのだ。学ぶべきことは、そこにはない。どんどん変わっていく文の配列があるだけだ。

 これらをみてくれば、なにが勉強に足りるかがある程度ははっきりするかもしれない。学問というのはきわめてひろすぎることばだから。
そして、現代社会はきわめて多様化しつつあるので、これだけよめば一体、なにが人類という生命の歴史的にみて安定しておりなにがそうでないかもわかるかもしれない。
自然の変化のおそさ、に対応する様に現代の人類は進化してきた。そして学習という行動習性を利用や転用して、世代間でも劣化しづらい特有の情報系列を抽出しておく作為に成功しつつある。科学とはそういうわけなのだ。自然学なのである。
それは、うまくまとめればつぎの世代が失敗を避けたり、てばやく世界のありかたを理解できたりする特別なしくみで、人類がつくりあげてきた文化のなかでも相当役立つのがまちがいなさそうだ。

―――
*1 このなかで建築士というのはわりと新しい制度で、おおむかしまでたどると日本ではなんら制度化されていなかったので大工の棟梁というわけだった。そのかわりに、当時の社会状況で重要視された聖職者(つまり牧師や僧侶)だったり、軍師だったり、あるいは侍だったり歌人だったりした。しかし、家は人ならだれもが住もうとしてきたわけで、やはり根本的には基本的な職業といっていいだろうとおもえる。『方丈記』さえ自作のいおりでかかれた。
 古代ギリシアではarchitectというのは総まとめで制作する者のたとえとしてかぎとなることばだったし、特にその哲学のうえではつねに登場していた様だ。プラトンはおそらく万物をつくりだす神らしさのたとえとしてつかい、アリストテレスは素材をかたちにするはたらきのたとえとしてその職種をつかった。

*2 音楽は、いまでいえば正弦波による空気振動が聴覚にあたえる感覚、つまり音階の比例が一定なので、ギリシアのおおむかしはおおよそ数学の一種として神秘化され、とらえられていた。波の原理と鼓膜がまたそれを空気振動をとおして感知をする器官だとわかっていなかった時代では、なぜ音の倍数比例という一定の共鳴現象が耳にここちよいかが理解できず、神のつくった宇宙の秩序のあらわれではないかと信じられていた。ピタゴラスが代表格だけど、現代でいういわゆる楽典での音階論とかいうはなしにちかかった。

*3 これはただの空想だが、知識という体系は、辞書をひいたり単に検索してとりだすという機械やプログラムのはたらきがおぎなうことで、いわば価値としてはdeflationをおこしてはいないだろうか。「しらべればすぐわかる」知識は、そうでないなかなかてにはいらないそれよりもかるく評価されてしまいがちではないか。
 ここに、理解といおうか、その学識がわかるまでにかかる時間の差がでてくる。このむずかしさがたかいほど、体系の習得が価値づけられやすいというのが商業化された知の本性かもしれない。

*4 パスカルは『パンセ』で、これをいやみにしていっている。いわく峠をひとつこえたら正義がちがうと。

*5 法をきめるのは集団のなかの約束であり、ほかの集団との約束を契約とか条約とか盟約とかいう。
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by smartestone | 2012-05-16 18:24 | 経済 | Comments(0)