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県展のかえるべきところ

県の芸術祭の運営方式はつぎの点でよくないか、まちがっている。以下の方針をかえればよくなるだろう。

 まず淘汰方式、いわゆる試験監査によって排除的に展示作品をえらんでいるので質がさがってしまう*1)。だから参加希望者全員の展示場を確保することが重要。あらゆる傾向を決して排除してはいけない。よしあしは見物人がきめる。
*1) これは一般論としておかしく感じられるかもしれない。しかし、芸術界の原則として独創性は非排除方式のときにもっともさかえる。パリでサロン・ギルドの落選者展から近代美術が萌芽したのはそのいい例。日本でもアンデパンダン展が現代美術の萌芽になった。既存の潮流からすくなくとも適度以上にはなれた傾向が独創なので、あるいは審査をおこなう立場についている既得権益者は同時代からみれば賛同者がえられやすい保守的古典主義者なことがおおいゆえ、かれらのギルド談合方式できめてしまうとほぼ、この本来とうとぶべき独創的な芸術作品は排除されてしまうことになる。真逆に、むしろ「観客からの審査投票」というのがすぐれた芸術性をえらびだすかなめになる。しかも、ここに審査投票する観客がおおければおおいほど、消去法的な意味でだが失敗がなくなり、えらばれる趣味の傾向はよくなるだろう。世代別の投票というのも興味ぶかい結果をもたらす。若い世代がえらんだものの方が当然、既存の知識量がすくない分だけ独創性をつよくもっていることがおおいだろう。高齢世代がえらんだものはむしろ古典的になるだろう。
 つぎに、この会場構成が問題になる。せまい近代美術館をかぎられた期間だけつかうと、展示の絶対量がすくなくなってしまう*2)。だから県の芸術祭は水戸芸術館やほかの転用会場なども利用し、現代美術作品も候補にいれ、会期期間をのばして展示の絶対量を参加希望者全員分にひろげなくてはならない
*2) 自分が実際にみたところ、審査委員から落選させられていて、展示する機会がとざされ日の目を見ないまま地下収蔵庫おくりになっていた作品の方へはるかに現代性をもったものがきわめて複数あった。展示されていたのは、お年寄りのカルチャースクール級のなれあい傾向、なんの魅力もない枯れた近代美術前座のまねごとで、いまさら芸術として評価される質のものではなかった。いいかえればとじられたなかまうちでの自己満足にすぎない展示で、わざわざ遠方からひとがきたり、若者をふくめたおおくの人類が熱狂することは永遠にない芸術祭だった。

 以上のことは単なるかりる会場と会期規模の問題だから、十分な参加費をつのれば十分できること。むしろ箱物、公園、会議場、空きビルなどありとあらゆる空間と場所は県のあちこちにありあまっている。していないのは単に芸術祭に関係するお年寄りたちの気力がなく、体力面からずるをしようとしているから。上座にいてよくしったなかまをほめ、まあたらしいわざつまりすぐれた芸術性を排除しながら次世代をみくだしていれば楽ちんなわけだ。しかし魅力がひくいとおもわれている原因が、これらの怠惰なおとしよりたちにあるとしたら? 世代交代を強要し、運営委員そのものを気力と体力のありあまっている若い人間で構成することが世代間の所得移転、という深刻な不況におちいっている日本社会発展に必要な、第一歩ともなるだろう。
 これは義務だ。もしこれまでどおりよぼよぼギルドのすくえない排除方式カルチャースクールをやりたいなら、おとしより限定で県のなをかりずにおこなえばいい。どうせかねならあまっているだろうし。どこへみせようとくだらないなれあいは自分たち自身で茨城県の魅力に関する評判をおとす最悪のやりくちでしかない。さもなければわれわれ全員が、芸術面でそういったたちのわるい排他ギルドのおとしより級にセンスがにぶく全体として美意識が劣っているとおもわれてしまい風評被害によって将来世代をふくめて多大な損害をこうむることになる。くりかえすが、これは県民としての義務だ。
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by smartestone | 2012-08-31 17:44 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

質実剛健の地域性

茨城県の方向性として、アメリカで主潮になっているpragmatism:実用主義、を十分とりいれて、ものごとを「つかえるか」どうか、という質実剛健の面で処理していくのが賢明だろう、と推測する。これは水戸藩で伝統の要素だったからやりやすいだろう。

 その理由。山岸俊男氏『心でっかちな日本人』にはつぎの観点がある、
1. 集団主義化は利益の返報がたがいに期待できるところでおこる心理適応。
2. クジャクという鳥における派手な形質への性選択とおなじく、社会集団がもっている頻度依存の期待値で集団主義化の心理適応が発達するかもきまるかもしれない。
よって、これらを参考に、茨城県のおかれた状況を分析すると、つぎのことが結論できるから。
 茨城県にとっておおくの統計指標をくらべもっとも特徴的なのは、地味好みの文化形質が原因で自己隠蔽傾向の行動が選択されてきている、という既存の社会条件だろう。総合ブランド研究所による地域ブランド調査が魅力とよんでいるのはいわば地域社会のもっている自己宣伝傾向のこと。これで大抵最低に近いというのは、このみずからの優越点を他者へむかって自慢しない非宣伝性という特徴、謙遜の美徳視、地味さへの形質選択がおよそ水戸学的な儒教*1)によって啓蒙され定着していることに原因があるかもしれない。
*1) 『論語』「人の己を知らざるを患えず、その不能を患い己の人を知らざるを患う」に1つの思想的源泉がありそうで、のち新渡戸稲造『武士道』で忠孝道徳と関連づけられて忍耐や謙譲、あるいは名誉と関連づけられて恥を知る心とよばれているものが結果だったろう。この武家道徳が明治新政府以来古風として冒涜されるにいたったいまの段階でも、かろうじて奥さん、あるいは大和撫子(こちらは某日本代表女子サッカーの宣伝文句になって死語か)ということばのなかにはかつて日本の女性がこういった山川菊栄『武家の女性』などに観察できる謙虚で羞恥心がつよく、引っ込み思案な奥ゆかしさをたもっていた形跡がある。現実に、弘道館で教育された慶喜は謙譲心を以て儒教的な忠義の為に、実質的な皇室の命に服して位を謙譲したととらえていい。このことは特に明治新政府に組した人々、また儒学にくわしくない『明治天皇』ドナルド・キーン氏などには大変誤解されているか、なんら理解されていないが。
 つまり、地味さという特徴をおおまかな形質としてえりごのんでいる面で、魅力がひくいと外部からおもわれている茨城県は関東北部をふくめにたところがあり、どちらかといえばこの特徴は「無駄がない」という意味で合理的でただしい選択ではないか、ということ。自分が強調しておきたいのは、これと真逆の傾向をもつとおもわれているらしい東京や神奈川、京阪神、北海道沖縄、奈良といった場所柄がおこなっているのは上述の「集団主義化」の心理適応が自己宣伝性としてあらわれていること、つまりあり方が派手であることそのものへの選択らしく、これがおそらくおおきな目でみるとガラパゴス化とよばれているさまざまな文化について生態奇形化の原因なのだろうという結論だ。無駄の制度化を宣伝活動がおこなう、というのが現実におこなわれている人類集団、すくなくともそういった集団的な利益返報可能性をもつ地域一帯の魅力とおもわれている面への選択だろうから、この浪費分をさけるがわの方が逆説的に、ながい目でみて得しやすい。
 地味を好む、つまりある差別化をもたらす特殊な魅力である派手さが低いということの方が普遍的には適応的;つまり脱ガラパゴス化の適応性とおもわれ、ここからみちびくと地道に生活の福祉状態を改善していこうとする現県知事の判断はきわめて正しい。

 もし自分自身の属する集団への認知biasをさけるべく、より公平にこの観点を反証するためにまったく茨城県に不利そうな面を積極的にのべる。くわしくは以下に書くが、単純にいうと地域名がめだたない、ゆえに地域名によっては魅力的とおもわれない、地域名が消費者あるいは評価者にもてないということだ。しかし、それはかならずしも悪いというわけではない。生物と社会を暗喩にすると、おおまかに、哺乳類をみわたせば性選択の方角には一夫一妻化と一夫多妻化の方向性があるが、魅力をほこらない、という男性ならびに女性には前者の傾向があるので、これまでのおもにキリスト教先進国社会ではこの不必要にもてないという事象の方がかえって適応的だった。そういった人間には心理適応として純潔や貞操の観念もみられるだろうから、地味な人間の方が安定した家庭を維持しやすく、広域で定常的に繁殖へ成功する可能性もある*2)。現在までの人類史をみかえすと、欧米ではこの方式がすくなくとも公的かつ現実的に勝利、アジアでは最大人口をもつ中国にも中華人民共和国婚姻法によってこの方式が浸透、さらに成功していく可能性がたかい。
*2) もっとかみくだいていえば、適当な遊びに行くならば魅力が高いとおもわれているめだつ地域にすすんでいくかもしれないが、まじめに結婚しようとしたときはまわりから魅力が低いとおもわれているめだたない地域とのつきあいを大事にするはずだ。なぜならこの後者の方が現実には同等の能力や特性のもちぬしであったとしても「まわりからも魅力がひくいとおもわれているはず」といった美人投票の逆比例がはたらきやすく、自然、浮気されるriskがひくくなるので安心できる。現に茨城県には美人がいない、という真偽にかかわらない風評はあるbiasとしてこのはたらきをしているだろう。当然、健康性に直結する美男美女の比率は都道府県別の長寿率や慢性疾患による死亡率のひくさ、あるいは1位だったりほぼ上位を占める子供の体力テストからみちびくかぎりむしろいなかであるだけおとらないばかりかほかにまさって高いこともあるだろうから、ことさらかざらない、自慢しないという分だけ県民自身はしらぬまに得をしていることになる。このお得さあるいは信頼感はほかの側面、商業上のとりひき関係とか、政治的協調性についてもにている事情とおもえる。
 具体的に、茨城県が全都道府県でもっともひくい特徴の1つとおもわれているらしい自己宣伝による装飾性というのは実力と評価を乖離させる部分があり、簡単にいえばある個人の能力がひくくとも風説が先行、単位は集団なので地域に属しているそれだけのために魅力的であるという評判をえる確率がたかい。この現象はただのりを加速させるはずで、なんらかの歯止めとして社会的限界費用が達成されるまでつづくだろう。無駄の制度化としての魅力評価も、その限界費用に依存している。自己宣伝には勿論単なる金銭が必要になる場面がおおいだろうから、もっともかんがえられやすいのは、投資がわに余裕がなくなりこの宣伝業態への利益配分がへること。これを巨視すると、おもには皇室の移住または開拓・間接統治などによる大都市化がさまざまな集積の利益を発生させるかぎりこの「自己宣伝性形質(派手さへの性選択)」に対して魅力とおもわせる「実力と評価の乖離」の比例的相関はつづき、そこからえられる利益が過密化による追加費用を下回るととまる。
 これらは要は人類がある商業地へあつまる集団主義化がそこでの繁殖が不利になるまでつづき、その途中には無駄に派手な人間がふえるという行動をおしえている。都市移動とでもいえるだろうか。
 これには大都市化をすすめることになったなんらかの政治的原因と、その結果としての「装飾文化」が生じる全体像がみられ、巨視的にはこの時期をある時代と定義できるだろう。いわばある時代の主要地域とそうでない地域がおよそつねにあり、前者は栄枯盛衰がみられほころびやすいが後者はかわりにくい。そしてこの装飾性は同時に生存へ直接役立たないという意味でほかの多数の人類にくらべなんらかの特殊化だから、その市場の単位がちいさなほどガラパゴス化しやすい。かなりの連続的性選択によって遺伝形質のなかに一定数以上の集合的なこれがきざまれたとき、人種そのものも変化するかもしれない。

 よって、地味好みでめだたないという一見不利そうな面をかえりみても、茨城県の魅力がひくいとおもわれているのは、むしろすくなくとも先進国・連合国側で普遍的に脱ガラパゴス化の選択を一層しやすいという当面は好都合な文化形質とかんがえられる。浮華柔弱より質実剛健を重んじる伝統はこの点でひきついでいく方がいい。あえていえば、軟派で着飾った商業地に対して硬派な実力社会を当分持続していくのが勝利の鍵になる。自己宣伝性がひくく異性から不必要に持てない、めぐって地域ブランドで印象づけられず消費者にとって過度に有名になりにくい、つまりガラパゴス商業都市化しづらい――この好循環に、どちらかといえば魅力がひくいとminus評価でおもわれている地域の方があてはまっているわけだ。
 地域がそうおもわれている、ということは勿論個人とは関係ないが、地域集団そのものが不必要に派手になる必要はなくそうなればかえってわるいと分析でき、どちらかといえばめだたなくとも実力や質素な幸福がある方がよい、という自分の社会学理解。孔子でいえば文質彬彬と絵の事は素より後にする、で説明できるのりだが。

 一番悪いのは、『おんなの県民性』などで統計の恣意的引用によって補完した単なる風説を優生学にまでしたてているデマゴギー矢野新一だ。危険思想の人物なのはまちがいなく、勿論この矢野新一の影響下でナチス的な人種差別観や民族排斥思考がうまれてくるのはさけられない。そのおもたる論拠が実証性のなんらない偏見づくの風説をあつめた得体の知れない俗書としか解釈しえない『人国記』『新人国記』というのだから始末におけない。矢野氏、いや矢野容疑者は雑誌プレジデントにみられる地方社会への競争主義的偏見や、東京ジャイアニズムでかなりのかたよりがみられる秘密の県民showも監修している様子。
 くりかえすが、地域がそうおもわれている、ということは勿論個人とは関係ない。どの地方にいても天才は天才で、どの首都にいても矢野新一は風説流布罪で地方経済へ損害をあたえる容疑者である。文化という環境からの影響があろうとなかろうと、地域というものと個人というものを別物とかんがえる点で自分は個人主義者でもあり、矢野新一のさも科学的めかした風説には納得がいかない。単なる私語とか、感情表現としてしめされた印象論はまだしも、恣意的にえらんだ統計データをあとづけでつかってDemagogie当人に不利でないかぎりあたかもそれが真実であるかの様にてらうからたちがわるい。科学の発展にとって重要なのは実証主義的な検証をくりかえしおこない、矢野新一が現にしているたぐいのなんらかの思想へ奉仕させている似非科学、前自然学とでもいうべきものを反証し積極的にたねあかしをし、真理の偽装へ立ち向かっていく事。それはガリレオ・ガリレイをおもいかえせば大学や有体の研究機関、科学協会といった当時の潮流:paradigmから言論干渉をしがちな権威に対しても同様であるべきだろう。
 社会学というものは人間のつくりだしつづけている自然(これを文明ともいう)を対象にしているから、もっともおくれて完成するとコントはいっている。その分だけ複雑で、反証にも手間取るだろう。社会思想が乱立している状況の方が、それが狂信的に1つへ集約されている場合よりまだのぞましいのもおなじわけだ。どれが真理かは検証されないかぎりほとんど確定できないから、metaphysicsと社会学の総まとめ行為なはず「哲学」がよばれたのもしかるべきといえる。
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by smartestone | 2012-08-30 04:06 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

工場のresidence化

いま、工場が市内各地にあるが、これらが不要になるか、売りに出されて廃墟的な景観をもっているばあいもすくなからずみられる。
 これらはレンガ倉庫の要領で、art residence化してしまえばいい。NYでソーホーの再開発がはやったのが一番有名だが、ロンドン五輪もこのたぐいのinner city再開発をねらっておこなわれた。
 市の発展にとってもっともすべきなのは新世代の若者が定着してくれる状況だろう。芸術がこの起爆になるのが世界中でよくみられる。アトリエをかねた倉庫状態のたてやが複数あり、そこを安価で希望者らに開放する。これで工場というかつてなんらかの機能性をもっていた景物が、美観をもたらすものとしても再利用できる。さらにははじめかたづければほうっておくだけなので、手間賃がかからない。

 常磐炭鉱のあとには巨大なコンクリート建造物もみられるばあいがあるが、これらに安全性がある程度検証できるときはおなじことをしていいだろう。

 しばらくまえ、五浦あたりで美大につながりそうな美大芸大生誘致の構想があったみたいだが、アカデミー化というのはフランスのボザールという美術大学組織のころから疑問符されているので反対。美術大学・芸術大学といったart academyは古典芸能と化した死んだ技術をまねさせ、保守させる意味の方がつよくなって、むしろ独創や創造性をおさえこむ傾向がある。
 芸術をもっともよくつくりあげ、つたえるのは徒弟制度というのがおそらく普遍にいえる。
 外来のことばの翻訳なのでわかりづらいが、芸術:artはもともと「わざ」という意味で、職人のしごとと本質は変わらない。大工がどうやってわざをつたえるかをみていれば、技術には慣れとか勘といったある暗黙知がふくまれる。はやくアリストテレスの倫理学にもこのきづきがみられ、カントによっても『判断力批判』に天才自身が手本をみせるべし、という見解がみられる。つまりすぐれた工房があつまっているまち、といった場所が芸術家の創造性をもっともよびさましやすい。機械工業の集積がある日立市からの多珂一帯に於いて、北茨城は芸術の方面に特性が発揮されてきた経験がおおいので、おそらくこういう場所柄に適任とおもえる。
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by smartestone | 2012-08-29 14:21 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

映画の意義

映画天心は、はっきりいうといまの時点で失敗ではないか?
 茨城新聞によると竹中直人氏を起用というのでかれの過去の役柄の傾向がそうだったということと直接関係するとはかぎらないとしても、監督は天心という人物をわりと喜劇的に扱おうとしているのがわかる。
 自分もそれなりに岡倉天心について研究してきたのでわかるが、この人は根っから悲劇的な人物だ。その時点で監督と解釈が全然ちがう。寧ろ、自分くらい岡倉天心の経歴についてわかっていると、竹中氏をつかうというところにある深い悪意を感じる。和辻哲郎『岡倉先生の思い出』や岡倉自身の三部作、晩年の横山大観による天心評、或いはドナルド・キーン氏『明治天皇』に引用されている天心による皮肉が果たす歴史上の役割を読めば、岡倉という人は歴史上、きわめて深刻な理想主義者という事が理解できる。決して適当に笑っていい様な人柄ではないのだ。
 明治時代の決定的なイデオローグとしては福沢諭吉に対して決然と屹立する人間で、文明論の次元でも岡倉がいなければ世界史上、日本はただのおくれてきた野蛮な帝国主義国という烙印を押されて終わる。かれが、北茨城市内五浦、おそらく六角堂や天心邸辺で書いた有名なつぎの文で明治新政府側に組した人間へ致命的批判を最初に行っているのは、桶谷秀昭氏による『英文収録 茶の本』(講談社学術文庫)の解説にくわしい。

Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. Much comment has been given lately to the Code of the Samurai, --the Art of Death which makes our soldiers exult in self-sacrifice; but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of Life. Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were to be based on the gruesome glory of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.
'The Book of Tea' by Kakuzo Okakura, I. The Cup of Humanity

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
『茶の本』第一章 人情の碗 (*村岡博訳)


 いわば岡倉というひとは明治の弱肉強食;Social Darwinismへ隷従した専制政治、によって封建時代に確立されていた貴族の義務がうしなわれていくのを美術社会を焦点にして憂い、儒教的な君子の生き方をつらぬこうとした。新渡戸稲造にとっては『武士道』として体系化されたその精神の源流は、世に正しい道が行われなければ隠遁してそれを後世に伝えるといった『論語』にみられる東洋の理想だった。

子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也。

子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。邦に道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道無きに、富み且つ貴きは恥なり。

孔子がいわれた。「篤く信じて学問を好み、死ぬ時まで善い道を守れ。危ない国へ入らず、乱れた国には居ない様に。天下に道が行われているなら現われて、道が無いならば隠れなさい。国に道があれば、貧しく地位が低いのは恥である。国に道が無ければ、金持ちで地位が高いのは恥である。」
『論語』泰伯第八の十三


 これは総合ブランド研究所による地域ブランド調査、いわゆる魅力度という言い振りによる商業地礼賛へもあてはまる至言ではないか? 現実には堕落した低俗な商業社会なのに、その地位や商品の有名さを魅力と印象論で自慢するのは道が無い、虚栄に染まった地域かもしれない。孔子や岡倉天心に学ぶのならば、重要なのは地味であっても道を行う地域にある事、つまり良識的な生活態度ではないか。又『論語』に「君子は人の己を知らざるをうれえず、その不能を患い己の人を知らざるを患う」とある。
 市長が旗振り役で市の宣伝を目的に発足されているとおもわれる映画天心は、2億円近くを行政の単位で拠出するわりに、市民の良識には何の意義もないものになりそう。竹中氏の起用から勝手に類推したにすぎないが、アリストテレス『詩学』以来、喜劇というのは一般に劣った人物を描写する様式で、その分だけまわりから北茨城市への印象や評価がさがってしまうかもしれない。

 起用した監督の松村克弥氏について少ししらべたが、市政がかかわっているかぎり語弊をおそれずにいえば際物ともいえる暴力映画を撮ってきた人物で、非教育的な劇作家なのがまずもってまちがいない。この純心質朴にくらしてきた地方発の映画制作というたった一つのきっかけだけで、魂をいれかえ君子豹変するものだろうか? それに、東京都出身というのがまたあやしい。というのも、自分の経験上、この東京都の大勢というのは江戸時代から御三家としてときに一目置くことはあっても、出自のしれない俗書といわざるをえない『人国記』『新人国記』にみられるとおり常陸国をある偏見から軽視している。現実には商業化した東京は上述の論語の文面でいう「邦無道」にかぎりなく近いゆえ、旧水戸藩の領域をふくめた田園社会の方がおそらく江戸時代を通じてもはるかに道がおこなわれている訳*1)だが、この東京出身者はまけずぎらいとされる江戸っ子気質もからんで、地方社会を特にわけなく現代でもいなかもの、ということばに象徴されるある軽蔑の念で等閑にしている可能性もある。

*1)東京が多くワーストを占める都道府県別犯罪件数、また多い側に属している都道府県別犯罪率を見ればよい。
http://area-info.jpn.org/CrimPerPop.html
http://area-info.jpn.org/CrimPerPopAll.html
同様の事は当然、家康の江戸開発による大都市化後もあったろう。この商業都市化のすすみかたの状況は鎌倉幕府以後、江戸幕府の開幕までより相模国に近いという地理の条件で弱い程度ではつづいていたろう。さらに、東国で唯一現存する『常陸国風土記』(713-721年)の記録をかえりみると、『万葉集』(756?-806年頃)巻14、東歌に多摩での調布の描写が初出する武蔵国よりも、常陸国はおよそさきに文明化がすすんでいたと考えられる。826年親王任国の一つになって、国司に常陸介が任官された事も関係するかもしれない。


 すくなくとも歴史にまなぶとして、水戸市のさきの映画はまさに、東京という場所、いわば傲慢な俗塵からのこういったおおきな偏見でつくられていたとおもえてならない。水戸藩士やその背景となる常陸国の人物群像がそれほど実現されず、江戸社会とひとつづきの大衆的かつごく土着的な人間として示されていたのでそう感じられた。実際には弘道館での藩士教育があったわけだが、東京の人間の手になる小説台本に忠実ともいえるとしても、そういった哲学的核心部分を蜷川幸雄監督はなおざりにしていた。
 明治から昭和を生きた雨情の全集によると「利根川以北」はある程度人間がすみわけられ、風紀がちがう。おおよそ、現代でも低俗化に染まっている東京圏とはことなりそれ以北はよい意味で清浄である。関、つまり国境があったおり、交通の不便によってそうなったかもしれない。おなじことは歴代の水戸藩主が憂うところでもあり、最後の将軍を江戸藩邸ではなく水戸でそだてようとした理由でもある。
 中国史にも孟母三遷で教育的居住地を市場からはなしたという例(『列女伝』母儀)があるが、country gentlemanはどの国でも、商業地としての大都会によってはぐくまれにくいのだろう。戦国末期、空の江戸城を居城に幕政をとるにあたって家康にとって一帯の商業化はさけられなかっただろうから仕方ないのかもしれないが、それ以降、特に第二次世界大戦後の民衆政下ではその風紀差は民度そのものにかかってくる。

 いずれにせよ誰が当監督へ依頼したのか不明。そのおそらく市役所の人の趣味の質と、判断ミスではないか。はじめから監督の過去をしっていれば予想できたはずだが、家族で安心してみられる映画にはおそらくならず、教育上のぞましくない描写に焦点があてられることになりそう。暴力や犯罪、狂気ある変質行為の描写に満ちた映画を見たい頽廃主義の人間はいざしらず、人選に疑問符がつく。責任者は実行委員長を兼ねてる豊田稔市長ではないだろうか。
 なぜ市の宣伝をしたいのか。これは市長が市の福祉をますために、経済効果をみこんだ映画製作によって市の売名をおこなおうとするからだろう。だが本当に映画というやりかたが最善で、しかもその監督がかつて頽廃主義的な傾向のある映画を撮ってきた人物でよいのか? 自分の一市民としての意見では、まちがっている。むしろ宣伝よりも市内の福祉を改善すべきであり、同時に、仮になにかしらを上映するにしても頽廃的なそれではなく市民の良識性を啓発するtypeの映画をつくりだしみせるべきだ。よってこのたぐいの仕事に向いている監督、たとえばスタジオジブリで有名な宮崎駿氏に映画製作をたのむことなどがすぐれた判断だったとおもわれる。
 制作費は2億円と2012/8/28づけ茨城新聞にあるが、それに市税を投機する意義をとうべきだ。遠目にみていれば理想的な像にみえていた岡倉の暗部をほじくりだして公然とかかげ、わざわざ波及的に市の印象をさげることになりかねない、喜劇色をもち淫靡かつ陰惨になりそうな映画へ公共の税金をつかうのはまったく賢明とはおもえない。しかも現実的に言ってその投資は専ら映画製作者らに配分されてしまい、現に被災している市内に環流するわけではないのだから。最悪のばあい、東京やその土着した人々にとって都合のいい、儒教的な理想主義の隠遁者である岡倉の劣等性をいじりまわしてさらし者とし、さらにはそれへ盲目的に追従していると悪解釈して実際には教授の高邁な理想へ殉じた日本美術院の面々の地方やそこに住まう人間を揶揄するといった悪意ある趣きの映画化で、市のよい意味での宣伝とはまったく逆効果になるのではないか。その場合、先ず監督を変える事が最善だろうとおもう。
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by smartestone | 2012-08-28 23:32 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

茨城県の将来性

人間は現代で、宇宙進出の途中にいる、ととらえるのが自然だろう。さまざまな商業活動は、おもとして資材をあつめ、この機会をつくりだすのをまっている。

 国際情勢をみると、各国のおもな国土はかぎられてしまい、大戦をさけようとするかぎりそれらのいれかえはないだろうから、もし創世記のとおり「産めよ地に満ちよ」となれば地上をこえてほぼ無限にひろがっている宇宙空間をつかうのが穏当だ。
 茨城県はつくば市、というこの重要な起点を一つもっているのでめぐまれている。おそらくたちいれない福島県の被曝地、はまどおりはそこに人家がつくられないという条件を利用して主要な宇宙stationになっていくだろう。日本国内で実質的に国有化されながら大規模な面積が確保でき、かつ首都圏からaccessしやすいのもよい点だろうから。

 現在、さまざまな商業によって財貨をかせぐ、という資本主義段階のおこないがおおくのひとにみられるが、この成果物がある宇宙技術の個人と企業、またはそれを支援する国家財政にたくわえられた結果、宇宙進出が実際にできる様になっていくだろう。現実に宇宙に長期居住する工学はまだかなり次元がひくくむずかしいとおもわれているが、いずれできるはず。
 しかし、これらの段階になってもまだ防衛権、という側面が人間についてまわるのがわかる。宇宙の広大さからいえば戦闘的な生物もいるだろうし、武力が永遠に否定されることはおそらくないだろう。日本はGHQによって便宜的に無力化されたが、ヤクザつまり暴力団という民間の不法武力組織がいたり、その前座としてみることのできる暴走族とかヤンキーとよばれている集団も国内にはいる。情報攻撃という型ではアノニマスもそうかもしれない。かれらは国内でもっとも大規模な公的武力組織としての自衛隊と警察に対して、無法者というたちばで威力をふるおうとしているのだろう。この実力、というものも冷静にみすえる必要がある。
 日本史をかえりみると、朝廷をふくめ幕府は単に最大の武力組織がになってきた。そして現代の国際社会でもやはりおなじで、人類は力をもちいるはかりごとによって徴税のための市場防衛をおこなってきた。この現実的な見方は、おそらく法や倫理的な説得という部分もいくらかはいりこんだとして、かなりの将来にわたってもそうかもしれない。

 茨城県がおおやけにめざすべきなのは、この武力面の強化といえる。その分だけ県警へ税収の大量配分がなければならない。茨城県は常陸国時代から歴史上、皇室における中央国政へ従順だったので逆らうことはまずありえない。そして大きな目標としては、国政と同等かできたらそれをひきいる単位として、宇宙進出を独自におこなえるだけの資財をあつめること。茨城県が国家のみならず世界にとっても、もっともこころづよい先駆、第一の味方となる様でなければいけない。もっとも平和的にみえる、人口増大のみちすじさえそれなのだから。
 商業活動が正当化できるとしたらこういった大義名分の上で、かもしれない。国民、県民が富み栄える道のりの途上で、その天空の住居地や生活開発に必要なだけの資本があつめられねばならず、さらにこのひとびとをみずからまもるため十分につよい防衛の武力がいる。
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by smartestone | 2012-08-26 18:28 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

茨城文化の価値

岡倉天心の映画はもう大部分できあがってしまっているのかもしれないが、重要だとおもうのは、芸大を排斥された失意の岡倉が、再起の地をさがしていたとき磐城四倉から五浦辺りまでの海岸を紹介した飛田周山。はじめ四倉を案内したが岡倉のきにはいらなかった。そこでいつうらまで南下してきたら、あの雅趣に富む景観を岡倉はきにいり、地元にくわしい飛田へ周辺の敷地を買う様たのみ改めて日本美術院の本拠とすることにした。
 飛田は市内の大塚生まれの人物で子孫や生家がのこっており、美術院の人物達のかげにかくれてめだたなかったがごく大きな美術史上の功労者だろうし、市内でも精華小と明徳小にかれの手になる立派な日本画があるという。かれがいなければ岡倉も再起する機会をのがしたかもしれなかった。

 ほかに、県内の重要史跡として、佐竹寺と西山荘がある。自分の知るかぎりこの2つの建築的価値はきわめて高く、法隆寺や桂離宮に単独で張り合えるだけの威力や歴史的位置にある。現在までに建築関係者からの取材や、近代建築史学のおもな流れからみのがされてきた故に有名ではないが、単に芸術性とみても法隆寺や桂離宮という有名どころに劣っていないばかりか超えている。ある質実剛健さ、質朴さ、しかも唐風の影響をほとんどうけていない日本古来の建築様式をたもっているという面で自分は、建築学上ほとんど無名なこの重要な文化財に大いに衝撃をうけた。この2つの建物、景観は優先して保護しておく価値がある。
 軽視してる人間へも、実物を目の当たりにすればかならず、大和王朝以来の中央政府中心史観・大和民族中央史観へ必然な疑問符をなげかけるだけの文化論的インパクトがある。まえに日本の代表的建築物とされている有名な2つと同時期に見比べたらなおさらだろう。明治新政府の不当な冷遇によって不毛な地方とおもわれていた場所に古代から伝統された剛毅朴訥で偉大な技量、質素を重んじる高貴な精神性があった。歴史の見方を変えるほどの建築だ。
 文学の面からは、『神皇正統記』が書かれた県内つくば市(常陸国筑波)の小田城も日本史の転換を期している面で保全するべき遺構だろう。大日本史や水戸学を経て皇国史観に至った往時を偲ばせる史跡として整えるべきだろう。南北朝時代に県内で記された思想からの変遷としての、日本の中での文治への啓蒙を行う価値は、反省的遺産としても十分あるから。
 弘道館・偕楽園と好文亭、六角堂・天心邸と五浦海岸、或いは門を含む水戸城跡はいうまでもないからのぞくが、近代の建築でも現茨城県庁や磯原駅舎などは技術力や芸術性の高さから重要な建築的価値をもっている。これらは日立駅舎、天心記念五浦美術館、水戸芸術館ほど設計者が有名ではない故に建築的に価値をことさらたかくみとめられていないが、自分はなんらかの指標をつくって重要な文化財として優先して保護すべきだとおもう。近世のものとして大津駅前・磯原中学校横・中郷駅前の煉瓦倉庫、雨情生家などもこれに入るだろう。
 国際的な鑑識による評定も重要なはたらきをする。

追記:或いは戦時に京都が原爆の目標からはずれたのはその文化財としての価値をGHQの一部がみとめ、回避させたからという都市伝説もあるが、この真相は「敵国」の文化財を破壊させる方が略奪の次点に合理的な事から、偽の可能性も十分ある。America側に証拠がない限り、京都の人のprideの高さからきた風説かもしれない。
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by smartestone | 2012-08-26 16:30 | 経済論 | Comments(0)

日本原子力発電の非人間性

子孫累々を犠牲にしてまで金儲けをして、一体、東海第二原発を推進したい人間は何がしたいのか。

金に狂って子孫を犠牲にする。この様な年寄りに経営をまかせるのは賢明ではないだろう。
 実質的には日本原子力発電という株式会社の悪徳株主に、子供の命と土地の安全を買収されているのと同じだ。大事故がある前に悟るか、それ以後に悟るかの違いがあるだけだろう。
 日本原子力発電の発電量は、東京電力のそれよりはるかに少ないのだからあってもなくとも国民生活に大差が生まれる事はない。立地自治体のegoで周辺の全住民が迷惑を被りかねないあきらかな外部不経済なのだから、万一東海村の議会が推進を決定したら県政の次元で決定的に否定できなければいけない。

 これらのどちらにもかかわらず国政が原子力発電所による国民の奴隷化を行おうとするつもりならば、その悪業に加担する政権も打倒せねばならない。主権者自身の命を守る為なのでやむをえない。
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by smartestone | 2012-08-23 22:10 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

うわさ調査訴訟のさけるべきわだち

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/44450229.html より

ヤマダ電機、満足度ランク最下位訴訟で敗訴
読売新聞 12月14日(火)19時46分配信

 週刊経済誌「日経ビジネス」の消費者満足度ランキングで最下位にされ名誉を傷付けられたとして、業界最大手のヤマダ電機(群馬県高崎市)が発行元の日経BP(東京都港区)に5500万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が14日、東京地裁であった。

 石井浩裁判長は「ランキングの根拠となった調査には、恣意(しい)的な結果が生じるような事情はなかった」と述べ、ヤマダ側の請求を棄却した。

 問題となったのは、同誌2008年7月28日号に掲載された特集記事。アフターサービスの満足度に関するアンケート調査で、家電量販店部門はヤマダが16社中最下位だったなどと報じた。

 ヤマダ電機は訴訟で、調査が事前にモニター登録していた会員を対象に行われたことについて、「読者は、国民全体からアンケートの回答者を無作為抽出したと誤解する可能性が高く、不適切だ」と訴えた。

 これに対し、判決は、同誌が会員から回答者を無作為抽出し、組織票を防ぐためにメールアドレスのチェックも行っていたことなどから、「合理的な調査結果になるような配慮がなされていた」として退けた。

 ヤマダ電機の話「極めて不当な判決で、直ちに控訴します」


それにしても、ヤマダ電機は、経済雑誌のランキングを真摯に受け入れ、サービス改善に努めれば良いものを、逆切れして損害賠償請求の訴訟を起こしたのだから、大人げなさ過ぎる。

アフターサービス満足度アンケート調査で家電量販店部門最下位だったことを全く知らなかった私のような人間にまで事実の周知をしているようなものだ。

しかも、裁判所から「合理的な調査結果」というお墨付きまで貰っている。

ヤマダ電機は控訴すると息巻いているから、またまた更にサービスの悪さを宣伝するつもりだ。

ちなみに、「日経ビジネス」は、その後も同じアンケート調査を継続しており、今年もやはりヤマダ電機が最下位だった。


この記事から、これらの風説、うわさへの統計が恣意的調査である、という立証が確実に行えない段階で行政訴訟を起こしても、敗訴してしまえば逆説的に汚名を買ってしまう危険性があるのがわかる。

 茨城県が地域ブランド調査、という総合ブランド研究所によってこうむっている風評被害、へも同様の経験則が役立つだろう。確実に勝訴できる時以外は、それほどこの事実を公にしないほうが合理的、ということ。
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by smartestone | 2012-08-22 18:14 | 政治論 | Trackback | Comments(0)

日本人のサッカー監督情報

J1勝率順(ネット上の情報コピーなので真偽不明)
鈴木政一 73試合 59勝6分08敗 勝率80,8%
松木安太郎 128試合 78勝00分50敗 勝率60,9%
桑原隆 86試合 50勝6分30敗 勝率58,1%
西野朗 437試合 239勝69分129敗 勝率54,6%
関塚隆 148試合 74勝32分42敗 勝率50%
長谷川健太 170試合 74勝44分52敗 勝率43,5%
岡田武史 143試合 62勝37分44敗 勝率43,3%
原博実 207試合 86勝44分77敗 勝率41,5%
早野宏史 217試合 90勝30分97敗 勝率41,4%
柳下正明 132試合 51勝36分45敗 勝率38,6%

 これがもし真実なら、突出して鈴木政一氏が有能、とわかる。この人を雇い入れるのが常勝化に必要。
水戸の方か鹿島は考えるべきではないか。
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by smartestone | 2012-08-22 14:36 | 経済論 | Trackback | Comments(0)

社会学

 ハイエクはlibertarianismのおこりかもしれないが、計画経済や、個性を型にあてはめようとすること、集産主義とかれがよぶもの、つまり全体主義というものの実現できなさがあらかじめいわれていた点でいまだに参照できる。
 福祉主義は国家や地域を対象にすると、おなじ見解にたちかえることになる。UKですでに福祉主義は歴史上一度いなまれている。アダムスミスからの伝統的な自由放任へかれらはかえることにした。

 だが福祉主義の理想が全体の単位で達成不可能だとしても、現実をみるかぎり、固定資本とよべるたぐいの施設や設備はこの政府によっての保守が、すむ人々にとってさえ合理にみえる。
のりとして、「公共性のたかい」資本は実際には公共という全体利益をめざすただしい政府によっておこなわれる方が結果がよくなるらしい。
享受者がごく少ない人数でも、きりすてがおこなわれえない公共事業のばあいはその費用負担は全員にかかるので社会正義とよべるロールズ格差原理と矛盾しなくなる。
 ところが、公共性のひくい資本、私的な資本はそれによって利益享受できる人々が全員ではないため、公共政府が介入せず市場経済そのものへまかせておいた方が効率よく低廉化される。

 この智恵は一般に、いますべての先進国がおちいっているある不況問題へ決定的な解決策をあたえる。
 ハイエクの論拠がいなめるとすれば、全体最適がありえないとしてもすくなくとも社会や地域、国家、地域連合や国際連合という大規模単位に編入されているかぎりこのそれぞれの単位では仮の共和をめざせる、というおおきくみるめなさ。そしてこの点にさとれるかどうかによって単なるlibertarianismの社会にくらべ、自分がいまのべたたぐいの福祉主義の方が、現実のすみ心地よい状態にちかづける。
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by smartestone | 2012-08-22 00:30 | 学術論 | Comments(0)