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茨城県民教育について

 300万茨城県民に、水戸市のグロービス大学院大等へ県教育委員会は一定の授業内容の管理下で外部委託して、漏れなくネットを使った投資教育を初頭または中等教育時点から行うべきだろう。
 プログラム授業と投資教育の二本が、今後の経済環境下で要求されやすい事が現時点で予想されているからだが、他方、茨城県史と哲学に至る道徳教育も同時に行われる必要があるかもしれない。なぜならPCは道具であり、投資は資産形成の手段だが、これらを使っていかなる茨城を作っていくかという過去からの展望、そしていかに生きるべきかという目的は、歴史や哲学によってしか得られないからだ。
 高等教育段階で、生徒が独自のプログラムによって何らかのウェブサービスを立ち上げられ、またジュニアNISAを使った小遣い額の投資を自分で行える事を県民教育の目標とする。また郷土検定で郷土史の達成度を調査した上で生徒による独自研究の評価を大学教員や郷土史学会などと共に行い、哲学に関しては倫理に関する小論を動画ライブで中継しながら何らかの単位で討論した上で、代表者にNHK水戸放送などと提携し一般公衆の前で弁論させるべきだろう。
 これらをくみいれると学ぶべき事が多すぎるという懸念については、学年制度を廃止して単位制を導入し、各人が自分のペースで学び続けられるよう、留年や飛び級という概念を県内の全校で撤廃するべきだ。
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# by smartestone | 2017-09-19 02:03 | 経済 | Comments(0)

ゲーム型賭博罪禁止条例

 ゲーム型賭博罪(スマートフォンやPC(マック含む)上のゲーム内課金による賭博罪)の取締と撲滅を警察庁は率先して行うべきである。その際、パチンコ犯罪業が警察庁及び東京都警である警視庁とOBの天下り先などの関係を通して癒着し、賭博業も性犯罪も警察庁・警視庁の犯罪稼業となっている現実に鑑み、第三者機関として全国PTAの代表と、教育委員会の代表者、文科省からの代表者らから成る第三者機関が、警察庁と警視庁を監視する形でのみ取り締まる事が必要だ。この際、PC(マック含む)ゲーム内課金による賭博罪と、パチンコによる賭博罪についても、同時に取り締まるべきである。
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# by smartestone | 2017-09-16 20:35 | 政治 | Trackback | Comments(0)

通勤通学時間の縮小

 茨城県は「地域の経済2017」の11ページによれば、15~24才の平均往復・通勤通学時間が特に高く、25~34才の同時間も長い。これは学校や仕事場が近隣にないという事情を示している。通勤通学が幸福度を低下させることはわかっているので、具体策としてはオンライン学校を広めるか、テレワークを推奨する、あるいは県内に多様な学校や仕事場を作り出す工夫がいる。県民の通勤通学時間帯の常磐高速道路の実質無償化をフレックスタイム制による企業助成をくみあわせ、電車については同時間帯の増便と快速電車の要望が重要だろう。
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# by smartestone | 2017-09-16 00:18 | 政治 | Trackback | Comments(0)

常陸秋そばノンカップめん

 常陸秋そばを朝食など誰でもすぐに食べられるよう、原価のうちカップとそれにつめる費用を省ける上に消費者にとっても手軽なノンカップめん(袋づめの乾麺にしてお湯を注ぐだけで食べられるようにしたエコロジカルな)製品にし、全世界で人気となるよう海外展開するべきである。
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# by smartestone | 2017-09-15 18:43 | 経済 | Trackback | Comments(0)

学校の二分化について

 オンライン授業はこれまでより安価に知識の束を伝えられるので、近い将来の学校がオンラインを中心にする様になることは明らかだ。茨城県教育委員会は、県内の全公立高校に対してオンライン授業を行っている放送大学、及び国内外のオンライン講義(オープンコースウェア)を紹介し、また県内の全公立中学に対して同様のN高校、高萩市にある通信制の第一学院高校の進路選択または保護者への紹介を行わせ、今後もふえていくだろうオンライン高等教育へ生徒側に常に選択肢を与える事を義務づけるべきである。なぜならこれらの推奨は高等教育への費用負担を軽減させることで、これまで経済的理由で進学をあきらめていた県内の進学率をあげていくし、何らかの事情または目的意識で通学制の全日制学校を避ける人にも別の公的教育機会を提供するからだ。
 上述の私立大学の紹介にとどまらず、ほかに寧ろ、茨城県立で小中高大までの各オンライン公立校を整備する必要がある。勿論こちらの授業は県民に対して無償化するべきである。
 幼稚園や小中学校についても、オンライン化の導入が進み、ウェブ上で授業を受ける事が広まっていく速度の方が速く、既存慣性によるオフライン授業より効率的または経済合理的である以上、将来にわたって学校のオンラインおきかえがすすんでいくだろう。その途中ではオフライン学校の希少価値の方が高まっていき、伝統校にのみ存在した様な何らかの不文律や実体験のみによって得られる或る魂が取り沙汰されるだろう。イギリスのパブリックスクール、寄宿制の公立校は、貴族である紳士階級の子弟のみが雇いうる家庭教師を公的に雇い、集団教育というより安価な体制にしたうえで準貴族をめざす人々の上昇志向に需要が存在してきた。日本は格差社会になってきた上、少子化にもかかわらず子供の貧困率は高くなってきており、子育て世代の資産不足は明らかな状況で、そのうえ教育関連予算を安倍政権は削ってきている。要は現在この国では、高等教育の無償化と格安化が必要である。それと同時に、ひとりでに差別化された既存の体験型伝統校と、無償オンライン授業が主なウェブ学校に二分化がおきていくだろう。費用負担があまり問題にならない比較富裕な人々は、伝統校に進学する事は、はじめのうち変わらない。そしてそこでのみ得られる、恐らく効率的ではなかった体験的価値は、単なる顕示的な装飾物として役立つ様になるだろう。
 現時点ではsignalingとしての学歴が名門校の箔としてきいている状態で、その事情は国際規模では世界ランク上位の米英圏の学校、国内規模では旧帝大を中心に続くだろう。ある期間経過した目でみれば、実利的にオンライン授業を有効に使った人々が成果面で勝利を収め、旧体制としての名門校閥を駆逐していくことになるだろう。恐らくその中途段階では名門校の人間関係や、体験価値からくる何らかの暗黙知、肩書の信望による箔などの利用に加えて、オンライン授業も効率重視で重ねて使う雑種的な経路をとる人々が現れ、高い成果を収めるだろう。かつて旧体制は新体制にとってかわられてきたし、教育分野にあっても、日々現れる選択肢の中でより功利的な方法(これは必ずしも商業的という意味ではない)をとる人が優れた正解を出すことになるだろう。

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# by smartestone | 2017-09-15 11:53 | 政治 | Trackback | Comments(0)

IT批判行政論

 ニコニコ動画を設営してきた川上量生はマストドン(オープンソースのミニブログ)の中で、「えっ? 東海村って茨城県だったの? 静岡県だと思ってた。」と発言している。彼らが搾取している電気がどの様な労苦と重い心身の負担で原発立地自治体から戦後70年送られ続けてきたかなど意識の隅にも入っていない。宮崎駿がNHKの番組の中で川上量生を説教した動画(NHK『終わらない人 宮崎駿』)で、川上は深層学習で3DCGを自動的に生成し、その動きを「人工知能を使うと人間が想像できない気持ち悪い動きができるんじゃないか」「動きが気持ち悪いんで、ゾンビゲームに使えるんじゃないか」「こんなことをやっています」と宮崎の前で述べるが、宮崎は「身障者の友人がいるのだが、ハイタッチするだけでも大変なんです。彼を思い出して、僕はこれを面白いと思ってみることはできないですよ」「これを作る人は痛みとかそういうことについて何にも考えずにやってるでしょう」「きわめて不愉快ですよね」「極めてなにか、生命に対する侮辱を感じます」と一蹴する。倫理観念の欠落した拝金主義というものがあるなら、犯罪の場を提供しながら民事訴訟の賠償から逃れ続ける2chの西村博之がニコニコ動画の経営に取締役として参加していたのは偶然ではない。川上は宮崎に説教を受けて直後、ツイッター上でオタク批評家の東浩紀あいてに論争を吹っ掛けたその内容は文理という旧帝大の便宜的入試区分に基づいた、人文学への侮辱と、自然学への過度の狂信だった。単なる物理現象としての自然学と社会における人間を知る人文学の意義の違いを知らないのは、まさに無知を知らないという意味において、哲学的に無知なのである。自然科学の発展は反証をのみその批判的基礎とするまで真偽命題の確定について洗練され、現時点の基礎科学では、いかなる命題へも懐疑的であり続けることこそが自然学の貢献しうる最大の知的栄耀なのだろう。
 IT起業家の一部は、情報技術と新興市場における暴利を目指した成金稼業を結合させてきたに過ぎない。当然のごとく社会科学や哲学といった道徳の完成に向かう前頭前野が未熟なまま、社会人として一応とはいえ成立してしまったし、子供まで産んで同様の不道徳な行動をしつけていくこともある。それが現代社会の悲喜劇なのだ。
 最も不幸で恵まれない立場にある個人が、最も幸福になるよう全力で支援される世間が、すなわち生きるに値する社会だ。この様な動機を生むのは道徳や倫理とよばれる或る知能の働きに他ならない。その脳部位は現時点では前頭葉あたりにあると知れてきた。学習とは過去にえられたなんらかの情報を、おもとして脳細胞が記憶することよる言行の適応といえるが、学問として体系化された分類でこの学習内容をいえば、数学をその部分としてもつ自然学は、社会学をその部分としてもつ人文学に含まれる。いいかえると、物理は倫理の基礎であり、倫理は物理をその部分として含んでいる。いわゆるphysics(自然学、形而下学、物理)とmetaphysics(後自然学(meta-、後-)、形而上学、倫理)という議論で、先ず自然一切があって、その上に自然を利用したある人間社会が築かれているのだ。福沢諭吉は『文明論之概略』の中で「先ず物ありて後に倫あり」という言葉でこの学習順序が逆行しえないことを強調しているが、古代ギリシアのアリストテレスがとうにそのことを『形而上学』など一連の講義録内で述べていた。N高校で教育事業にのりだした川上だが、文科省や日本国内の大学関係者にさえ私が今述べた程度の哲学的基礎をもつ人物はほとんどいなかった事は明らかであり、つまりは日本のアカデミシャンは蛸壺化した旧帝大イデオロギーに縛られ続けてきたほど愚劣で浅学なわけだが、そのうち理学が商業と結合するにしたがって、理科学者らの一部に理系の文系への優越などというガラパゴス島国根性のなかでも最も奇形的な、入試制度を学問の一般的分類と混同するような誠に滑稽な言動をこのイデオロギーはさせてきている。立場上この様な人間が多少あれ跋扈する組織内で金を稼いできた新知事に、よしんば標準以上の学問的基礎があっても、あるいはなくとも、行政ふくむ政治が財政上の基本役割として比較劣位にある民の利益を最大化する事、つまり調整的正義の分野であるという第一公徳を必要とするのは明白である。
 大井川氏の選挙期間中の言動には、財政上の予算を成果をあげている事業者に優先配分すべし、という単純に成果・能力主義的な意見がみられた。金儲け以外の分野に何らかの有能性を発揮する人なり、そもそも全てにおいて無能だが生命という存在そのものにおいて生存価値がある様な人、或いは多少あれ有害でしかないが死刑に処するには慈悲に欠けると考えられるような人が、即ち無数の遺伝変異や成育歴が、殆ど確率的に等分布で、人の数だけ多様化していくのが社会なのだ。それらすべての人々から徴税しながら全体に責任を持つ行政は、単に金儲けできないかしたがらない個人をきりすて首にして死なせていいような、無責任な民間の一営利企業ではないのだ。全体の奉仕者は、単に成果をあげられる2割の商人だけではない、8割の県民に、わけても恵まれない貧困層に最善の政治を行う義務がある。累進課税があったとしても、政治関係者の日々の食い扶持でもある徴税の痛みが最大なのは、大金を納税する有り余った富の持ち主の側ではなく、その貧困者の方なのだから。貧者の一灯のわけあたえる己への痛みと相手への慈しみは、富者が支払う殆ど己に痛みのない額か、多かれ少なかれ何らかの功利的営利性に基づく大金の一部より尊い。この質的価値判断は、その世間の平均生活費の可処分所得に対する個々人についての割合という数理的に厳密な面だけではなく、場合に応じた愛民的な調整観念のもとに適切な比率を理解できる柔軟で人間的な裁量能力である。それは道徳感情とアダム・スミスによって呼ばれた面を持つし、統計的な数値や不確定な場合も含めた何らかの法則で構成されるわけではないのである。
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# by smartestone | 2017-09-15 08:17 | 政治 | Trackback | Comments(0)

市立図書館の貸し出し点数未制限など

 北茨城市立図書館は笠間市立図書館を参考に、貸出点数の未制限をとりいれるべきだ。また開館時間中の返却時に、受付時間を節約するべく、ポストからの返却を主に推奨するべきである。
 市民向けに書籍や視聴覚メディアのリクエストを募り、一定の枠でそのメディアを購入するべきである。

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# by smartestone | 2017-09-13 22:42 | 政治 | Trackback | Comments(0)

茨城県遺伝子くみかえ作物禁止条例

 東京都民は農協を敵視し、株式会社による効率化への狂信を、なんの実証的裏づけもなくマスコミを通して流布している。堤未果による『(株)貧困大国アメリカ』等の著書群に明らかなよう、実際に農業を多国籍資本に支配させた末にやってくるのは、遺伝子組み換え食品による最低品質で最安価な作物での不健全な農産物の市場寡占と、そこから搾取をする海外資本家が家畜化した消費者集団、つまり単なる集団極貧下に家畜化された都民でしかない。都民は小売業者やサービス業者といった商人が過半である為、農工業に関する第一次・第二次生産の内容についてほぼ完全に無知だ。そして都民は常に、大格差のある大都市生活下で富裕層の贅沢に嫉妬し続けるという悪生存環境下での過剰な利益率選好性と、現に過当競争下にあるサービス業中毒でもあるから、産業知を得ようとも恐らく永遠に思わないだろう。この意味で、自給率が1%しかない東京都民や2%しかない神奈川県民、これら商業地域の大多数を占める中流以下の貧困層は、今後高品質な茨城県の農作物の輸出先として相応しくないと考えるべきで、安倍政権のTPP詐欺に乗って最低品質かつ最安価な遺伝子くみかえされたごみ作物を、モンサント社に寡占された海外農場から買い漁って資本麻薬漬けになりながら、人工的でまずい食事を自画自賛して健康を致命的に害する方が、人類の公益の為の反面教師として望ましいと信じられる。仮にどれほど啓蒙し、どれほど啓発しても、資本主義狂信集団としての東横衆愚が、株式会社に社畜化されてしか生活し得ない限り、自らの不徳を反省する可能性は皆無だからだ。しかもそれは東京圏で、東京都民や横浜市民(東横人)らが食料の都外・県外輸入にほぼ100%依存している生態の奇形的な偏向によって、食事を作った生産者や自然のもっている健全性に感謝する事を忘れ、株式資本主義の本質にある客・労働者搾取の悪意を消費者への善意と誤解しながら狂信し、農協の協同組合主義的な互恵共同体における非搾取的な基礎理念を理解していなかった彼らの無知と暗愚の自業自得である。
 茨城県議は遺伝子くみかえ作物禁止条例を採択し、県内の農業が特定の外資あるいは特定企業に寡占される最悪の状況を未然防止しつつ、県内で食される県産農作物の安全と高品質、そして県内農業市場の健全な競争性が飽くまで維持されるよう農政を図るべきだ。また、そうして保った高品質な食料を卸す最大の消費市場として、東京圏ではなく、茨城県民自体の人口をそれ以上にふやすべきなのである。この時に最も有効なのは、県内の最大都市である水戸に人口増大の傾向を持つサービス業(ICT関連のインターネット・サービス業を含む)を集積させそれらへの交通網を県内各所と最短移動距離でつなぐ事だ。この時、つくばエクスプレスを通じての東京圏との交通利便性は、電車網を含めて、可能な限り断絶するべきだ。東京圏から水戸への人口の流れが確保された時点でつくばエクスプレスの延伸を図るべきなのであり、それ以前に東京圏交通網を整備する事は自殺行為というしかない。東京圏からつくばへの人口移動が過剰になった時点で、更に水戸側に延伸を図るという逼迫した必要需要が発生する以前には、茨城空港と水戸、そして水戸と県西、県北、鹿行、県南の各地、そしていわき、郡山、宇都宮、或いはさいたま市、そして水戸以下の人口規模の各海外都市との接続性の方が考慮されるべきである。

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# by smartestone | 2017-09-13 01:26 | 政治 | Trackback | Comments(0)

善政論

 茨城県や北茨城市にとって重要なのは、現世の自己利益を求めて全力を使うという、東京都民や横浜市民、多くの関西人達、名古屋人といった商業都市住民を典型とする他の日本人とは違って自らをとりまく一定の共同体単位の経済格差を最小化するべく言行する事だ。これは新渡戸『武士道』や、水戸学における貴族義務、藤原正彦が述べてきた『国家の品格』等の道徳論の中に共通項あるいは通念としてみいだせる或る態度であって、平成東京の俗受けによる金儲けを目的とした大衆商業文化や成金を称賛する拝金主義、米国追従や、皇族閥と薩長藩閥による明治帝国主義、かつて英仏蘭スペイン・ポルトガルが示してきた西欧植民地主義の真逆に位置する。
 サッチャーの「金持ちを貧乏人にしたところで、貧乏人を金持ちにすることはできない」という発言は、20世紀最大の詭弁である。サッチャーが寄託していたおこぼれ理論(トリクルダウン理論)は、富裕層の資産増大の速度が貧困層の労働賃金の上昇より速い時点で破綻していた(ピケティのいうr>g)。その上、自由競争のもと生じた格差社会で金権政治が同時にはびこっていた場合、富裕層が自らの権勢を保つよすがに、蓄財を自己目的化することで所得階層が世代間で固定するという厳然たる機会と結果の不平等があらわれるが、サッチャーイズムはこれを偽善の面紗で覆い隠すのだ。少なくともそこで言われるべきなのは「貧乏人を金持ちにすることは、金持ちをもっと金持ちにすることもできる」という、機会平等と結果調整を同時に満たす低格差社会の展望だ。消費力が高い集団が存在しなければ、その社会では富裕層が搾取する対象すらいない。多国籍企業の株式を買ったり、途上国の株式や債権、仮想通貨を含む貨幣に投資しても、流動資本の限界効用は逓減し結果は等しくなる。
 柄谷行人はassociationismという概念で、資本主義組織としての株式会社や、共産主義的組織としての国家政府とは異なる第三の組織を中心にする社会が、両者の矛盾を止揚すると述べてきた。私の意見では、それを実現しているのは生活協同組合や農業協同組合などの協同組合であり、したがってアソシエーショニズムを協同組合主義と漢語化できる。柄谷は利益社会における格差の始点としての株式資本と、経営者が労働者を搾取するというマルクス思想における労働価値説の原罪性に対して、協同組合下では出資者が消費者自身であると同時に、経営と労働の位階が組合員として互助組織の体裁をとるまで緩和された姿に、経済格差を生じさせる暴利の余地が少ない理想の組織をみようとしている。しかしこの互助組織は、現に株式会社が行う競争的な効率化にとって非難の対象ともなっている。株式会社での労働に慣れきった東京都民が、株式会社による資金援助のもと、テレビを始めとしたマスコミの内外で農業協同組合をさも悪者のごとく口汚く非難する光景をみるがいい。政商は自民党政権へ政党助成金などの名目で陰に陽に賄賂を行い、官庁の委員会などにも国政介入目的で関係者を臨席させ、官僚を含む公務員をも買収してきた。孫正義のよう、司馬遼太郎かぶれで、スコットランド人や薩長のやくざと共謀した武器密輸で内乱誘致罪を犯し死刑になった龍馬気取りの成金政商は、自己利益を含む政府との取引の為のロビー活動を公然とマスコミ前で行う事を恥じなくさえなった。政治家と商売人の癒着。いわば米国人の猿真似をすることで公然と賄賂を約束する、恥知らずの越後屋として。結局、株式会社による市場競争とは、その本質にある(広義では客から取引差額を黒字徴収する自利心を含む)搾取という機構のため格差拡大にしか働かないし、この種の営利商人が租税回避の手練手管を駆使した末に現れてくる社会病理が政商という、弱者救済の為の福祉予算にさえ手をつけたがる末期的な極相種である。賎しさはこの政商に極まる。資本主義社会は、己の金儲けによる権力維持の為に公共の福祉を害しながら独裁政治をする、金権政治屋をはびこらせる。奈良時代でいう帝国主義独裁者の天皇家、平安時代でいう売官の受領を含む公家、鎌倉時代から江戸時代でいう武家、明治時代から平成時代でいう薩長藩閥の華族や軍人含む上級官僚と自民党閥、そして天皇家の生き残りである皇族閥、これらの腐敗階級は金権政治を駆使して世襲権力を維持してきたのだし、その本質にあったのは私利私欲でしかなかった。
 滅私奉公が無意味だとか時代遅れとされている場所は、共同体が壊れている。人はpolis(ポリス、村)的動物とアリストテレスがいうよう、一定の構成員単位で集団生活するものであり、さもなければ互助的に得られる力を失い、殆ど一人では生きていけなくなる。都会の孤独死は金銭のつなぐ必要最小の互助性さえ失われた時、過剰な人口流動性のある商業目的の共有地では、隣人愛さえ期待できないという現実を示している。この意味で薄給の労働者が過半の大都市は貧民窟という実態を集住の体裁で隠しているに過ぎない。商業都市内の富裕層を除き、中央値で実質可処分所得の物価に対する期待効用を見れば、これは多数派にとっての厳然たる事実となるだろう。大多数の国民にとって社会における日々の暮らしにおける幸福を保証するのは、少数者の位置できるにすぎない高偏差ではなく、共同体に期待できる互助性そのものでしかないのだ。いいかえれば、財政とみて、その行政単位で最も不利な人としての最貧者の所得を最大化する時のみ、現代社会における調整的正義がある。そして累進的にその社会における比較貧者の所得水準が向上していく共同体のみが、互助的でありうる。他方、その行政単位における最富者や比較富者の所得向上は、その人の資産が当共同体における累進課税下にあるか、公の雇用下にある行政人になったり宗教的または道徳的な慈善心の為に自主的な寄付への動機づけをもたらす場合において、これら最貧者と比較貧者への調整正義と矛盾しない。裏返せば、その共同体の累進課税下にない租税回避地にあるか、最大の寄付より最大の蓄財を目的としている場合、この種の暴利的な最富者や比較富者は共同体にとって共通の敵たりうる。たとえば皇族閥かつ長州閥に属する安倍晋三や、長州閥に属するであろう柳井正、皇族閥に属する眞子内親王に見られるとおり、最富者としての皇族閥が生活保護や慈善団体の守護者とならず、既得権としての経団連の政商行動に媚を売って贅沢する時、その存在は国民共同体にとって有害でしかない。この種の不公徳に対して無知な県外衆愚は自ら破滅を選択しているのだ。成金に対する敵意や軽蔑の念は、その富者が調整正義に欠けているという場合に起こるのであって、この平衡感覚は自らが比較貧者であった場合に単なる嫉妬の解消を求めるというだけではなく、より比較貧者である共同体の他の成員への支援をもなすべき事として想起するだろうし、またこの感覚は自分自身がその富者より更に富裕である様な場合にも起こる貴族道徳的な感情でもある。勿論、その種の徳が欠けている腐敗階級としての似非貴族も、いかなる奴隷的待遇や同胞への差別や迫害にも無感覚な単なる愚民も存在するが。
 いずれにせよ能力に応じて所得を分配する機能あるいは配分正義の実現装置としての、自由競争市場を主とした資本主義下の株式会社に対して、今日の行政は調整正義を均衡する装置としてあるべきなのだ。東京都政は愚官だった石原慎太郎による都政下で調整正義を失い、生活保護費の切り下げ、高齢者・障害者福祉の打ち切りなどの貧者冷遇と、新銀行東京による都税ばらまき、東電株での東日本各地方からの暴利などの富者優遇によって不平等で不幸な東京都を作ってきた。日本政府も愚官だったと評するほかない小泉純一郎政権下で、竹中平蔵という悪徳政商に騙されて同様の失政を犯し、日本国単位の経済自体が沈没していった。民主党は小沢一郎の賢慮のもと鳩山由紀夫政権下での改革でこの低迷を打開していたが、長州閥を気取る岡山出身の菅直人政権下で独裁と暴走をはじめ、東日本大震災と福島原発事故が重なって混迷の度を深め場を譲った。再び愚官としての安倍晋三は、金融緩和や株価つりあげによる富者優遇と、生活保護費のきりさげや被災者救援の停止による貧者冷遇という悪政を行って今に至る。これらの幾つかの県外行政の状態を見る限り、単純にいって県外人は、茨城県人より公徳に関して愚劣なのである。橋本県政は常道的な産業振興によって貧者でも富者でもない中産階級の増強を図ってきた。特に農工業者という比較貧者になりやすい産業従事者への優先的な振興は、岩上県政からつながる農工両全の理念として、農本思想を啓発した水戸家から続く伝統的な常陸国政でもあったので、低格差でありながら所得水準が全国で4位まで向上していった。
 少なくとも前例と県外の例をかんがみて、低格差と高所得の両立という善政の目的を実現する為に茨城県政および北茨城施政を啓蒙し、啓発するべきなのであり、そこで最初に十分考慮されるべきなのは最貧者の所得水準の底上げなのである。最富者の所得上乗せはその後で、
1. 累進課税の制度的抜け穴をなくす事(租税回避地の撲滅)
2. 寄付への税制優遇措置(寄付控除の充実)
という最低2つの準備が整った末になすべき事だ。このうち、租税回避地の撲滅は皇族閥を含む国政の腐敗問題であると同時に、グローバル多国籍資本下での最富裕層の跳梁跋扈という国際問題でもある為に、完全解決が難しく、シンガポールの様に問題解決を諦めて富裕層優遇措置に舵を切ってしまう自治体もあるが、これはおこぼれの破綻から、実際には共同体の破壊による多数の不幸をもたらす以上、失政というべきなのだろう。つまり現時点では、国連への有志の働きかけを通じて地球圏に租税回避地を作らない共同国連政がその完全撲滅に必須であるから、少なくとも目に見える範囲での租税回避の減少から始めていくしかないのだろう。悪政は去り、永遠に残る愚官はいない。安倍政権も皇族閥も除去され、或る時点で今より清浄な国政がやってくる。その為に腐敗した国政に対しても租税回避地の解消への働きかけをしていく事が、賢明な茨城県人としての努めというべきだろう。

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# by smartestone | 2017-09-13 00:08 | 政治 | Trackback | Comments(0)

虐めゼロ耐性の啓蒙の為の市教育裁判所案

 北茨城市では「虐め見逃しゼロ」「虐めゼロ耐性」を徹底する法制を市教育委が敷き、教員による生徒への暴力も、生徒間のわずかな虐めの兆候も全てについて、通報義務を親やPTAを含む全生徒に啓蒙し、どれほど小さな虐めも校内或いは社内犯罪とみなして公にしながら罰を下す状態に施政をもっていくべきである。これにあたって市役所内に教育裁判所をつくり、教育委員長とPTA関係者、保護者を含む関係者全員を臨席させ第三者のいる録音・録画の完全な監視下で、当事者間にどの様な罪があったのかについて暴き切り、きちんと被害者を保護しながら加害者を条例に基づいて法的に裁く必要がある。虐めを校内・社内犯罪、集団犯罪と定義し、内容は嫌がらせや侮辱、生徒の望まない指導の強要、立場を利用した暴力、個人または集団での無視などの精神的苦痛を含め、訴えを起こすには専用用紙に住所・氏名と学校・組織名を明記しつつ市教育裁判所の設置する各学校の起訴箱に投書するか、ウェブサイト上に同訴えを記述し送信する、あるいは匿名でのメールまたは電話での相談を通じて起訴をおこしうるようにするべきであり、その際、各校長や教員に対しての個別指導を教育委員会が直接しない様に、保護者含む生徒と第三者PTAと同席する場のみで裁判をする状態を確保できねばならない。
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# by smartestone | 2017-09-11 23:33 | 政治 | Trackback | Comments(0)